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一人遊び

作者: さば缶

 夜が深まる。

誰もいないアパートの一室は、蛍光灯の明かりがやけに冷たい。

カーテンを閉め切った薄暗い空気に、心まで閉じ込められているような気がした。

どうしてこんなに孤独なのだろう。

問いかける相手もいないまま、頭の中は思い出でいっぱいになる。

静寂が耳を圧迫するように響いて、少し息苦しい。


 数か月前、最愛の人が突然この世界を去った。

笑った顔しか見たことがないはずなのに、なぜかその最後の瞬間だけは深い靄に包まれて見えない。

写真の中の笑顔は今でも優しく微笑んでいるのに、現実にはどれほど呼びかけても答えは返ってこない。

指先でその笑顔をなぞりながら、まるでそこに触れようとするかのようにそっと息を潜める。

けれど、指と紙の間には越えられない壁があるようで、どこにも温もりは感じられない。

そのことが今さらながら痛いほど胸を締め付ける。


 眠りにつくことさえ恐ろしく感じる夜が続いていた。

夢の中で会えたら、その笑顔にすがりつくように泣いてしまいそうだったし、夢から覚めたらまた一人きりの現実を突きつけられるのが怖かった。

どうして人は、大切なものを失うときに限って何もできないのか。

無力な自分に苛立ちながら、それでも時間は容赦なく過ぎていく。


 薄暗い部屋の中で、思い出に浸ることすら苦しくなってきた頃、ふと、自分の肌に手を触れた。

いつからだろう、こんなにも冷たく感じるようになったのは。

寒さのせいではない。

まるで心の奥底まで冷え切っているようで、声を上げて泣きたくなった。

どこにもぶつけられない悲しみと、行き場のない渇望が入り混じって、どうしようもない焦燥感が湧き上がる。


 たった一人でベッドに横たわると、頭の中であの人の声が微かに蘇る気がした。

「大丈夫。僕はいつでもそばにいるよ」

思い出の中のその声は優しく、耳に心地よかった。

けれど、実際にはもうどこにも姿はなく、手を伸ばしてもただ空を切るだけ。

歯がゆさと喪失感に耐え切れず、思わず顔を覆うように枕に身体を沈める。

苦しさが胸を締め付けて、涙がぽたぽたと枕を濡らしていく。


 それでも、どうしようもなく寂しい夜には、自分の体温でしか癒やせない瞬間がある。

あの人に触れられたときの安堵感を思い出すたび、切なくてどうしようもなくなる。

忘れてしまえば楽になるのかもしれないと思いつつ、忘れたくない想いも同時に渦巻いて混乱する。

心と身体がアンバランスに重なり合い、罪悪感に似た衝動が小さく震えながら体を包んでいく。


 ゆっくりとシーツの上をなぞるように、指先が自分自身の肌を探す。

「こんなことをして、あなたを裏切っているんじゃないか」

そんな疑いが頭のどこかに浮かび、胸の奥をチクリと刺す。

だけど、もう二度と戻ってこない温もりがこの世界に存在しないのなら、せめて自分の手で孤独を埋めるしかないのかもしれない。

実際に触れ合うことのできない幻影にしがみつきながら、何度も無意識に唇を噛みしめる。

その痛みが、まだ自分がここにいることを教えてくれる気がした。


 行為の一つひとつが切なくて悲しくて、ときどき息も詰まりそうになる。

あの人の存在が身体に宿っていた頃の記憶が鮮明に甦る。

一緒に笑った日々や、ケンカをして夜中まで話し合ったこと。

どんな時間も、かけがえのない宝物だった。

それらの情景がまぶたの裏を流れ去るたびに、どうしようもない喪失が襲ってくる。

それでも、そうして自分を慰める数分間だけは、あの人にほんの少しだけ近づけるような気がするのだ。


 こみ上げる涙は後から後から溢れ出して、止めどなく頬を伝う。

こんなにも心が壊れそうなのに、やめることができない。

自分自身に寄り添うしかない切実な夜だからこそ、その儚い温もりにすがってしまう。

「ごめんね…」

息継ぎもままならないほど乱れた呼吸の合間に、誰に向けるでもない謝罪を呟く。

すると、耳元でかすかに「泣かないで」と囁く声が聞こえた気がした。


 その声に応えるかのように、涙はさらに込み上げる。

もう二度と触れることのできない相手なのに、思い出が濃くなるほど切なさは増していく。

胸の奥で何かが軋むように悲鳴を上げて、空っぽになったような感覚に襲われる。

「あなたがいなくなって、私は生きている意味があるのかな」

そんな弱音が心をよぎると、体の奥深くまで絶望の濁流が押し寄せた。

それでも行為を止められないのは、忘れることが怖いからかもしれない。

忘れてしまったら、本当にあの人は消えてしまう気がしてならない。


 そして、ふっと深い余韻の中に身体が沈んでいく瞬間、まるで一瞬だけすべての苦しみが緩和される気がする。

その虚ろな安堵は、儚く消える花火のように一瞬で終わってしまう。

けれど、その一瞬があるからこそ、人は暗闇の中で手を伸ばし続けるのだろう。

「いまも、あなたを想っている」

心の中で繰り返す言葉は、まだどこにも届かない。

それでも、自分自身の耳だけには確かに響いていた。


 夜明け前の空気はどこか冷ややかで、部屋の隙間から外の淡い光が差し込む。

胸の鼓動が少しずつ落ち着いていくたび、彼が好きだった音楽や香りが一気に蘇ってくる。

「あの人が生きた証を、私が忘れてはいけない」

胸の奥でそう決めても、次の瞬間にはまた涙が浮かぶ。

けれど、泣くことは悪いことじゃない。

この想いが残っているという証でもある。


 やがて、ベッドから起き上がり、重たい空気を吸い込むように深呼吸をした。

薄暗い窓辺に目をやると、ほんの少しだけ光が強くなっていることに気づく。

もうすぐ朝が来る。

きっと今日も孤独な時間が続くのかもしれない。

それでも、部屋に差し込むわずかな光は、あの人との思い出までも暗闇に閉ざしてしまうことはないように見えた。


 あの人がいなくなっても、私はここで生き続けなければならない。

それがどんなに苦しくても、どんなに泣きたくても、彼が愛してくれたこの命を投げ出すことはできない。

たとえそれが自分自身を慰めて涙を流すような儚い夜でも、その度にあの人のことを思い出すなら、まだ絆は途切れていないと信じたい。

「ちゃんと生きてみるよ」

そっとつぶやいた言葉は小さく震えていたけれど、確かに胸の内で何かを灯していた。

こんなにも悲しみを抱えているけれど、朝が来るたび、ほんの少しだけ前を向いてみよう。

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