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ワーゲンと依佐美の風景

 「まあ、えらい手間のかかる。ええ加減にせんと」

 「おお、直ったか、ご苦労さん」

 「ほんとにご苦労さんですわ。これで何回目だか」

 「いやいや、面目ない。小牧で買ったばかりの頃は快調だったんだけどなあ」

 「何十年前の話をしてござるんだか。とっくにがたが来とりますがね。訳の分からん故障が後から後から。一番初めのあれ、あれには参りましたわ。ほれ、助手席側の車窓のガラスが車体の内側にすとんと落ちてまって。とは言えそれをやらかしたのは俺なんですがね。窓開けようとしてハンドルくるくる回しとったら、いきなり空回りしよって、そのままガラスが落ちてまって、まあ往生こいたわ。あんなもん、後にも先にも見れんでしょう、益体もない」

 「そうだったなあ。俺が買った時点で三十年式くらいだったから、もう半世紀以上か。よく動くもんだね、感心するよ。しかも調子が悪くなり始めたのが、買ってから十五年くらいの時からだったから、お前が中学生ぐらいの頃だ。あいつもきっと自分を修理してくれる人間が現れるまで頑張ったんだろうよ」

 「ほりゃあ可哀想に、十五年間も危機感を持って辛抱してござったとは。けどがここまで面倒をかけさせられると、かわいくもなってきますて。今回のはウィンカーが点かんくなったんですけどが、いつからですか?」

 「いつからかは知らん。気が付いたのは昨日だ」

 「はい?いつからかは分からんて、運転すりゃあすぐ気が付くはずですがね」

 「それが気が付かなかったんだなあ。自分でも不思議なんだ。だが気が付いたのは確かに昨日の運転中だ。だからそれからはこの寒いのに窓から右腕を出してな、手信号で進路変更を知らせたんだ。確か右折の時は腕を水平に伸ばす、左折では直角に立てる。どうだ、ちゃんと思い出したんだ、大したもんだろう」

 「ほうほう、ひねもすのたり、のたりかな。その前までは周囲のドライバーの皆さんにご迷惑をおかけしとったということ。そんな無法が見逃されるとは日本の警察も何してござるんだか。しかしいっぺん親父さんの頭ん中のお花畑で春の日差しの中のんびり昼寝でもしてみたいもんですわ」

 「ああ、いつでもいいぜ、大歓迎だ。入場料はいらないよ。ところで明日何か用事があるのか。車で出かけるんだろ?」

 「はあ、刈谷に」

 「そうか、依佐美のばあさんとこか。よろしく言っといてくれ」

 「何なら親父さんも行きますか?」

 「いいよ。俺はどうもあのばあさんが苦手でね。母さんの気の強さ、ありゃあ明らかに母親譲りだよ。まあ、人はいいんだけどね。どうせ母さんだって行かないんだろ。それに俺は何度もあそこには行っているから。初めて行ったときだったな。車で走っていたら、道路を農耕用の馬とそれが牽く荷車がごく当たり前のように通っていくのを見かけたんだ、あれにはたまげたね。とんでもないところに来ちまった、と思った。ただあの鉄塔は圧巻だったな。確か八本あった。高さも二百メートルじゃあきかなかったはずだ。特に夜には各塔に四つも五つも赤い光が点滅してな。そりゃあ壮大だった。その後撤去されたんだが、お前は知らんよな」

 「知っとりますがね。解体されたのは俺が、ほれその老いぼれ車の治療ができるようになったころですで、よう見とりましたがね。だだっ広い田園地帯に二百五十メートルの鉄塔が八基、確かに見事なもんだったですわ。ニイタカヤマノボレも確かあれでしょう。戦後は米軍に接収されて第七艦隊と、特に潜水艦との通信に利用されとったげな、だからソ連の核ミサイルの一本が依佐美に照準を合わせとるんだげな、とかウソかホントか分からんような噂が仰山、ねえ。それからおっしゃる通り、夜のあの鉄塔群の光景はよう覚えとります。だもんで子供の頃、アトランティスの話に出てくるヘラクレスの柱のイメージとして考えとりました。農耕馬と荷車は、流石に知らんです」


      *     *    *    *    *    *    *    *


 お兄ちゃんと一緒に刈谷で一人暮らしをしているおばあちゃんの家に行った。勿論我らが空冷ワーゲンで。23号線をバタバタバタとエンジン音を響かせながらかっ飛ばす。依佐美の入口まで信号はない。午前だから、名古屋から刈谷への車線は空いている。名古屋へ向かう車線の渋滞を横目に突っ走る、爽快々々。一時間かからなかった。

 何で珍しく依佐美まで来たのかというと、この日はおばあちゃんの誕生日だったんだ。それでお祝いを持って出かけて行った。お姉ちゃんは蒲郡とか新城とかなら行くけど刈谷ならやめておく、だって。あんまり面白みがないところだから、らしい。お母ちゃんは、面倒だわ、あんたらだけで行きん、だって。実の母親の誕生日だというのに、怪しからん。お父ちゃんは、まあいいでしょう。だから二人だけで行くことにした。

 お祝いは栗きんとんとおばあちゃん御用達の極上和菓子セット、それから今池で仕入れた鰻のかば焼きを使ったお兄ちゃん手作りのひつまぶしを昼ごはんにふるまった。お兄ちゃんは出汁から何から自分で作り、おばあちゃんちの豊富な食器コレクションから具合の良いどんぶりを見つけ出して立派なひつまぶしをこしらえたんだ。おばあちゃんはこのご馳走をことのほか喜んで、たっぷりとお小遣いを(納得いかんけどお姉ちゃんの分も)弾んでくれた。実はこれが目的だったんだから、やっぱり僕らも怪しからん。でもお兄ちゃんは、人間年取ったら孫に小遣いやるのが唯一の楽しみなんだで、ええてええて、と言っていた。そこで、何でお兄ちゃんに年寄りの気持ちが分かるのか、と聞いてやったら、お兄ちゃんはただ笑ってた。

 食後にはやっぱりお兄ちゃんが(どこで覚えたんだか)作法にのっとって抹茶を立て、お土産の栗きんとんをお菓子にして三人でお喋りをしながら飲んだ。僕は抹茶スウィーツは好きだけど、そのままの抹茶はあまり得意ではない。けれど栗きんとんはちゃんと中津川と恵那の有名なもの、十二個入を二種類買ってきていて、僕にはそれぞれ二つずつくれたものだから計四つ、このあっさりした甘さで抹茶の苦さをだましだましして飲んだ。お兄ちゃんはその後煎茶、コーヒー、紅茶と順番に出してくれた。三人でお喋りとは言え、ほとんどおばあちゃんが喋っていた。我が家の皆はお喋り好きばっかりだけど、その要因のかなりな程度、このおばあちゃんの遺伝であるに違いない。ただおばあちゃんの話はいつかどこかで聞いたことのあるようなものが大半で、つまり沢山の同じ話を繰り返しているみたいだった。それでもお兄ちゃんは初めて聞いたとでもいうように、ふんふんと相づちを打ちながら耳を傾けていた。僕もそれにならってふんふんと聞いていた。

 長いことそうしていたけど、おばあちゃんは疲れたから昼寝をすると言って引っ込んでしまった。お兄ちゃんも、じゃあ俺もひと眠りと言って座布団を枕に畳の上で横になってそのまま寝てしまった。でも昼寝と言ってももう直ぐ夕方なんですけど、そして僕一人になってしまったんですけど。仕方がないので散歩に行くことにした。考えてみればこれまで刈谷ばあちゃんの家の辺りを歩いてみたことがない。お姉ちゃんは、あんまり面白みがないところだと言っていた。確かにその通りかも知れない。でも僕は個人的には結構楽しめた。こういう何にもないところをぶらぶらすることは嫌いじゃない。   

 

      *    *    *    *    *    *    *    *


 見渡す限りぜーんぶ田んぼ、空は高くて地平線が見えてもおかしくないくらい、その真っただ中を一直線に横切っている真直ぐな産業道路。ガードレールに守られた歩道が完備され街路樹が整然と立ち並び、街灯が規則正しく行進して行く。その幾何学的な道路、長閑な田畑を引き裂くような、広くて硬質で洗練された道路―――を歩いている僕。四方八方とんでもないような遠景に囲まれたままぽつねんと、時折佇む僕。きょろきょろしている僕。その野暮ったい姿。妙に洗練という言葉がそぐわないような僕―――を取り巻いている田園風景、時々烏が横切って行く田園風景、農業用の軽トラがごとごとと動き回っているような田園風景、おばあちゃんから聞いた昔ながらのその姿、田んぼがかつての台形や五角形から長方形にきれいに整備されたというだけで、用水からの取水がポンプによる汲み上げに替わったというだけで、農耕用の牛だか馬だかがトラックやトラクターに替わったというただそれだけで、しかし相変わらず昔ながらの姿の田園風景―――が夜になった。田んぼは闇の中へ沈み込む。真黒になる。何も見えない。夜の海のように。ところが街灯は光る、白い光、黄色い光。信号の赤青黄の光。それらが道路を照らし出す。力強くも幻のように、不知火にように、一直線に延びて行く光の線、その節々でアクセントをつけているのは、あれは交差点だ。四隅に立つ街灯の蛍光灯がちょっとした光の舞台を浮き上がらせる。そこに彩りを添えているのは信号機、青くなったり赤くなったり、青がまたたいてみたり黄色になったり、だけど全く静かなものだ。こんな時期だから自動車の行き来もあまりない。全く静かな寒々とした舞台、黒々とした空間にぽっかりと浮かび上がった、役者が一人もいない空っぽの舞台、ただそこだけ切り取られた道路に凍り付いたような街路樹とその長い影、それから頭を光らせている四本の街灯が佇立しており―――役者はいないけれど役者は揃っている。僕はそうした最寄りの交差点に行ってみる。なんだか僕が主役を演じているような気分がする。ああ、愉快々々。

 夜と昼とは半分々々だ。でも夜は皆眠っている時間。無意識の時間。陰の方の時間。顧みられない時間だ。昼間はいいね、皆わいわいと騒いでいるし、色彩豊か、弾んでいる。色々なものが、色々な形で、色々な現れ方をしている。それに比べ、夜は?夜は駄目だ。全ては闇のもとに一つ、形なんてありゃしない。ただ一つの(沈黙の闇という)状態があるばかり。こんな風で、ただ一つの全き単純な現れなんだ。つまらない、つまらない?いや、そんなことはない。ほんと。だって夜は夢の世界なのだから。


      *    *    *    *    *    *    *    *


 おばあちゃんちに戻ったら二人はもう起きていた。それよりも僕の方がゆっくりし過ぎていたのかも知れない。おばあちゃんに、帰りが遅いとこってりしぼられた。(と言っても帰ったのは五時半頃だったんだけど、ただ外はすでに真暗だった)それにしても気の強いおばあちゃんだ。流石はお母ちゃんの母親だ。そこにお兄ちゃんから、今日は遅くなったから泊まっていく、だから夕食は外食にしてこれから出かけようかという提案があり、おばあちゃんの機嫌はたちまち直った。外食云々よりも僕らが泊まるということが嬉しかったらしい。やっぱりお兄ちゃんは年寄りの気持ちが分かっているようだ。結果として僕に対する小言も止んだ。お兄ちゃんに感謝だ。

 それで三人で車で外に食べに行った。行先はうどん屋さん。岡崎に本店があるお店で、釜揚げうどんが名物らしい。そこでみんな揃って天ぷら釜揚げを食べた。おばあちゃんは、あたし最近あんまり食べれんでちょこっと食べとくれんと自分のうどんを少しお兄ちゃんの方の桶に入れる。お兄ちゃんは、ほいじゃあこのエビ天はお前が食べやぁと自分のを僕にくれる。こうして三人でうどんをおいしくいただいた。

 家に帰るとお兄ちゃんはおばあちゃんに、ちょっと近くの神社やお寺に用事があるから出て来る、遅くなるかも知れないから先に休んでいてほしいと言った。おばあちゃんは、ほうかん、気を付けて行きんよと家に入って行った。お兄ちゃんは僕にそっと、深夜の時間帯でバイトに行って来るで、今夜一晩お前ばあさんちにおったって、と言う。僕は驚いて、車で名古屋まで行くの?と聞いたら、どう考えても電車の方が早いで、刈谷駅に車停めて電車で行くわ、明日の六時前には帰って来れると思うで、よろしく、と言ってそのまま行ってしまった。七時頃だった。深夜帯って一体何時からなんだろう。


      *     *    *    *    *    *    *    *


 よろしく、とは言われたもののやっぱり刈谷ばあちゃんにお兄ちゃんのことを知られたらどうしよう、と心配になってなかなか眠れなかった。二階の元お母ちゃんの部屋で色んなことを考えながら目ばかり冴えていた。一度一階で寝ているばあちゃんがお便所に行く音を耳にしてドキッとした。そして布団の中で縮こまっていたけれど、ばあちゃんはそのまま自分の部屋に戻って寝てしまったようだった。僕は安心してそのあとはうつらうつらしていた。この時間はとても心地よかった。窓の外は真っ暗だし、ほとんど何の音もしない。また刈谷ばあちゃんちに来て泊まらせてもらおうか。つらつらとうつらうつらととりとめのない思考の中でまどろんでいたら、またばあちゃんがお便所に立った。年を取ると夜中によくお便所に行くのかな、それとも寒いからかな、なんて考えた。ばあちゃんは、やっぱり今度もそのまま自分の部屋に戻ってしまった。これで僕は安心してしまった。それで僕もそのままストンと眠りに落ちてしまった、ようだった。

 ブロンブロン、バタバタバタ、シャーシャーという聞きなれた音がして目が覚めた。ワーゲンの音だ。相変わらず騒々しい。刈谷ばあちゃんが目を覚ましたらどうしようと心配になって、僕は階段を下りて玄関の方へ行った。そのころにはエンジン音は止んでいて、玄関扉の向こうでモンスターのような人影が鍵を開けていた。戸が開いてお兄ちゃんが入ってくる。お兄ちゃんは僕を見ると、ほれ見ろ、六時前に帰れたろ、と得意げに言った。ばあさんも寝てござるわ、一二回は便所に行かしたかも知らんけどな、何でもお見通しだ。けどが東の空が白んでくるころには起きなさるで、部屋に行っとこか、それで二階の部屋に行き、お兄ちゃんは布団にもぐり込んですぐに静かになってしまった。お兄ちゃんはちっともいびきをかかない。


        *     *    *    *    *    *    *

 

 そのまま僕は起きていた。眠かったけど起きていた。眠れない夜の、意識だけが冴えてしまっている感じ。暫くしておばあちゃんが起きてきた。それで僕はおばあちゃんに、お兄ちゃんは昨日の夜遅かったからまだ寝ていると思う、だから朝ごはんの前にちょっと散歩をして来る、と言って出かけた。おにいちゃんのことは、半分本当半分嘘みたいに、と言うより本当とも嘘ともとれるような言い方だ。こうやって僕も段々悪いことを覚えていく。

 五分も歩けば、平面的な田畑と直線的な農道と用水路で織りなされる田園地帯だ。今日も良く晴れている。けれども寒い。とんでもなく。とにかく何にもないんだから。伊吹おろしがそのまま吹き降りて来ているみたいだ。始めは農道を歩く。でもこの道はアスファルトだ、ちょっと違う。それで用水脇の畔みたいなところに入り込む。やっぱり土の上はいい。畦道だから丸っこいし凸凹してるし、歩きにくいんだけど、歩き辛くはない。いい感じだ。何にもないのもたまにはいいもんだ。頬は凍えるし、指先はかじかむし、吐く息は真白だし、でも気分はいい。いいなあ。

 冬の空はあくまでも青く美しく、僕の視線を限りなく飲み込んでいく。いいなあ。乾いた風と冷たい空気と無力な太陽、あっさりと夜が明けて、あっさりと日が暮れて、僕らはただその円環の中でうろうろしているだけ。いいなあ。無責任で。僕らは流されているだけだから。北風に追い立てられながら、僕はとぼとぼと歩いて行く。愛想も何もないこの風奴らに追い立てられながら。いいなあ。

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