なぜおっさんは口から「チュッチュッ」と音を鳴らすのだろう
時折こういうおっさんに出くわす。
「チュッ……チッ……チュッ……チュ……」
口から「チッ」とか「チュッ」とか、舌打ちのような音を延々と出すおっさんだ。
単なる癖なのか。それとも歯に何か挟まってるのだろうか。とにかく気分のいい音ではない。
個人的には黒板ひっかいた時のキー音に匹敵するレベルの不快さを抱く。
そして、俺は今日もそんなおっさんに出くわしてしまう。
***
日曜日の午後、ショッピングモールの書店に寄った帰りに、俺は同じモール内のカフェに寄ることにした。
やや照明が暗く、上品な雰囲気が漂うカフェだ。
カウンターでコーヒーを注文する。まもなくトレイにのったコーヒーが出てきて、俺はそれを小さなテーブルのある席まで運ぶ。
砂糖とミルクを入れ、コーヒーを一口。満足げに顎を上げる。
おもむろに、ついさっき買った小説を読み始める。
タイトル買いしてしまった本だったが、文章は俺好みの難しい表現のない読みやすいタイプで、俺は「これは当たりだ」と直感する。
ああ、なんて優雅な午後だろう。俺は自分に酔いしれる。
だが、そんな俺の幸福はあっけなく打ち破られる。
「チッ……チュッ……チュッ……」
音が聞こえてきた。
舌打ちのような、壮絶な不快音。
どこからだと辺りを見回すと、音源は俺のすぐ隣の席にいるおっさんだった。
やや薄めの頭、黒いパーカーを羽織り、下はジーンズ。ふてぶてしい顔立ちをしている。年齢は50から60代ぐらいだろうか。このおっさんが延々と口を「チュッチュッ」やっている。
くそっ、マジかよ。こんな日に出くわすとは。気分は晴れから土砂降りに変わり、俺が舌打ちしたい気分になってくる。
いや、待て待て。こんなことで気分を乱してはならない。せっかくのコーヒーや小説を楽しめないじゃないか。
俺は頑張って小説に集中しようとする。
「チュッ……チッ……チュウッ……」
だが、音が気になって全然内容が頭に入ってこない。
無視しようとすればするほど、耳が「チュッ」音に向かってしまうという悪循環になってしまっている。
音が聞こえるたび、おっさんの舌や唇が脳裏に浮かび、気持ちが悪くなってくる。
席替えしようかとも思ったが、俺が入った直後に何人か客が入り、ほぼ満席状態となってしまっていた。
だったらいっそ店を出るか。だけど、まだカフェに入って5分と経ってない。多少は居座らないとコーヒー代がもったいないという気持ちになる。
じゃあ、音に慣れるしかないんだけど……。
「チッ……チュッ……チッ……」
とても無理だ。
慣れるどころか、どんどん不快さが増してくる。傷口を抉られてるような気分だ。
おっさん早く店出ろと祈るが、残念ながら店を出て行く気配もない。
他の客がおっさんを注意してくれないかなと思うが、おっさんに一番近いのは俺であり、そういう展開も期待できそうにない。
せっかくさっきまで優雅な午後だったのに……このおっさんのせいで全部台無しだ。
無性に怒りが湧いてきて、やがて俺らしくない勇気が出てきた。
だったら、俺が注意してやる。
ダメで元々だ。もしかしたら「人がどんな音出そうが勝手だろうが!」なんて逆ギレされる恐れもあるが、そうなったらすぐ逃げよう。さすがに追いかけてはこないだろうし。
この決心を逃したら、俺はきっと注意できなくなる。思い切ってアクセルを踏んだ。
「す、すみません」
勇気を振り絞った一言。
おっさんが俺に振り向く。
「さっきからちょっとチュッみたいな音がうるさくて……控えてもらえると助かるんですけど」
言ってから「うるさくて」は「気になって」とかにしとくべきだったと後悔する。
怒鳴られるかも、と身構える。
ところが、
「すまない」
こう返された。
おっさんは意外と紳士だった。しかも失礼だが顔のわりになかなかダンディなボイスだ。
「だが、もう少しだけ我慢してもらえないだろうか」
とはいえおっさんは「チュッ」音をやめるつもりはないらしい。
もう少しだけ我慢とはどういう意味だろう。もうカフェを出るから、という意味なのかな。
「実は私は悪魔と戦っていてね」
「はい?」
突然わけの分からないことを言い出した。
はっきり言って怒鳴られるより怖い。俺はヤバイおっさんに関わっちまったと心底後悔した。
するとおっさんも俺が怪しんでるのを察したようだ。
「私に触るといい。そうしたら君にも見える」
おっさんは右手を差し出してきた。
見知らぬおっさんの手なんて正直言って触りたくない。
だけど先に話しかけたのは俺だし、という気持ちが働き、俺はおっさんの右手に左手を添えた。
すると――見えた。
「うわっ!?」
カフェの中央ぐらいの場所に化け物が見えた。
二本の角が生え、顔は山羊に似ており、筋骨隆々。全身は紫色で、禍々しい気配を発している。こんな化け物が腕を組み仁王立ちしている。
だが、俺ら以外の誰も奴に気づいていない。奴にぶつかった客もいたが、すり抜けてしまう。幽霊みたいな存在なのだろうか。
「シッ、静かに」
「は、はい……」
俺はおっさんの右手を握り締めてしまった。
「なんですか、あれは……?」
「さっきも言った通り、悪魔さ」
「こんなところで何を?」
「このカフェにいる人間を物色しているのだろうね。このうちの誰かを狙っている」
「狙ってるって……殺すんですか?」
「奴らは直接手を下すようなことはしない。誰かに取りつくつもりなのだろう」
「取りつかれたらどうなるんです?」
「簡単にいうと不幸が続くようになる。仕事でミスをしたり、大切な物を失くしたり、恋人と別れるはめになったり……。そのうち、不幸な事故のような形で命を落とすことになるだろう」
不幸が続いた挙げ句自分も死ぬなんて最悪すぎる。絶対取りつかれたくない。
「なぜ悪魔はそんなことをするんです?」
「人の嘆きや苦しみが悪魔にとっては何よりのご馳走だからさ。取りついた人間を不幸にしてその嘆きを食し、最後はメインディッシュとして命まで奪い去る。まさに悪魔の所業だ」
「そんな……!」
「だが、一度追い払えば数百年は地上に出てこれない。そのために必要なのが、私が出している音というわけさ」
「あっ……!」
おっさんは「チュッ」音を出す。
「もしかして、悪魔の弱点はそれなんですか?」
「ああ、この音を何度もぶつければ、悪魔は退散していくことだろう」
そういうことだったのか。しかし、それだったら――
「だったら、もっとハイペースで出した方がよくないですか? チュッチュッチュッて」
不思議なものだ。さっきまでこの音を嫌がっていた俺が「もっと音を出せ」と言い出している。
だが、おっさんは首を横に振る。
「この音はあまりテンポよくぶつけても意味がない。ゆっくりぶつけることが大事なんだ。例えば日曜大工で釘を打つ時、むやみにガンガン叩いては釘が曲がってしまう。ああいう理屈だと思ってくれればいい」
「なるほど……」
俺は日曜大工という言葉におっさんの年齢を感じつつ、納得した。
あまりにハイテンポで攻撃すると、悪魔に効かないとか、あるいは完全に退散させることができなくなるとか、そういうことなのだろう。
「だが、あと少しだ。あと少しで奴は自分の世界に逃げ帰るはず」
「頑張って下さい!」
「ありがとう」
俺はおっさんの右手をより強く握りしめた。もうすっかりおっさんの応援団だ。
その後もおっさんは「チュッ」音を焦らず、根気よく続け――
『グアアアッ……か、体が……! これ以上は持たン……!』
ついに悪魔が苦しみ出した。顔が苦痛に歪み、効いているのが分かる。
おっさんがトドメとばかりに「チュッ」音を発すると、悪魔は悲鳴を上げ、煙となってカフェから消えてしまった。むろん、周囲の客は何も気づいていない。
「や、やった!」
「どうやら、退散させることができたようだ」
悪魔は自分の世界に帰り、これでカフェの人間が不幸にあうことはなくなった。
俺の緊張も解け、大きく息を吐いた。
「ありがとうございました……!」
「いや、迷惑をかけてしまったね。ゆっくりカフェを楽しんでくれ」
おっさんは席を立ち、カフェから去っていった。
その姿はまさに、悪魔を滅ぼした聖者の如し、であった。
この後、俺がより優雅な午後を過ごせたことは言うまでもない。
***
この件があってから、俺はあの「チュッ」音に耐性ができてしまった。
それはそうだ。なにしろ恐ろしい悪魔と戦うための音なのだから。
今日もフードコートであの時とは別のおっさんの「チュッ……チュッ……」に遭遇したが、不快に感じるどころか尊敬の念すら覚えてしまう。
好奇心を抑えられず、俺はつい話しかけてしまった。
「あのー……悪魔はやはり手強いですか?」
「はぁ? 悪魔?」
おっさんは俺におかしな奴を見るような目を向けると、そそくさと立ち去ってしまった。
どうやら今日のおっさんは悪魔と戦ってたわけではないらしい。
完
お読み下さいましてありがとうございました。