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「ウォルシュ様、おはようございます。起きてください、もう朝ですよ」
アルベルト伯爵家の一室、使用人の部屋ほどの大きさの一室で眠っていた俺を燕尾服を着た老齢の使用人がゆすりながら呼びかける。まだ半覚醒の中、かゆみの伴う瞼を掻きながら俺は起床した。
瞼の向こう側からはすでに朝の日の光が差し込んでくる。閉じたはずのカーテンはどうやらこの使用人によって窓ごと開け放たれているらしい。窓の外からはすでに朝食の準備やメイドたちのせわしない掃除の音が聞こえ始めていた。
「アーロンさん、おはようございます」
「よろしい。今日はいつも以上に忙しい日なのですから、早く支度をして朝食をとりなさいとお館様からの命令です。それと今日だけは特別に鍛錬用の服のままで来なさいとのことだそうでございます」
ついにこの日がやってきた、そう確信して覚醒しかけていた目が大きく開く。
「分かりました! すぐに準備します!」
クローゼットの中からいくら洗っても落ちない土と煤の汚れがついた布製のシャツとズボンを取り出す。普段は礼節を重んじるアルベルト家において絶対に許されないであろう食堂にこの服で入ることの意味はすなわち、今日がそれほどに大切な日であることを示していた。
自分が自分であるという自覚を持った日から、俺はすでにこの大きな屋敷の中に住まわされていた。アルベルト伯爵、辺境の地を守護する貴族にして、伯爵自ら教鞭をとれるほどの魔法学にも精通し、剣術にも長けているその伯爵の屋敷である。
なぜ生みの親すら記憶できないような時期からこんな屋敷に住まわされているかと聞かれれば、明らかに手の甲に刻まれたこの紋様だろう。この紋様、祝福の子と呼ばれた子供にしかないその紋様は人類の宝とも言って良いほどに貴重なものとして王都から保護の命令が下っているのだ。
その地域その地域を管理する領主が、その領主の子を含めて祝福の子と呼ばれる子供らを十一年間鍛え上げる。そして有用な人材になったところで王都へと赴き、その四角形の紋様の中に紋章を刻み込ませるための地盤を築く。そのために俺はこの屋敷に住まわされているのだ。
そして、今日がその日だ。もうすでに俺は十一年と何か月かこの屋敷に来てから経っているのだが、他にも何人か居るその祝福の子ら全員が十一年間を鍛錬に費やした時、その世代が一気に王都へ赴くこととなっている。
俺の世代は俺を含めて四人。全員が救世主の紋を持っており、これから先どのような活躍であろうと見込めると判断されているのだ。
思い返してみれば先週はジョシュアの誕生日だった。はれて全員、これで屋敷に来て十一年が経ったということをすっかりとわすれていた。
さっさと身支度を終わらせて食堂の方へと向かう。すれ違うメイドや使用人、アルベルト家へ訪れた来客らが俺の服を見て察したように「おめでとう」と言ってくれることが嬉しかった。
通い慣れた食堂の扉を開ける。斜辺を膨らませた三角形が何本も並んだような窓からは、自室のそれとは段違いなほどに朝の輝かしい光が流れ込む。窓ガラスに刻まれた魔法陣のお陰で直射日光の照りつけるような暑さを感じずにその心地よさだけを感じ取れるようになっているところにはこの屋敷に勝手に住み着いた野良猫が忙しない周りに流されずに我が物顔で惰眠を貪っていた。
すでに食堂には俺以外の三人が全員集まっていた。王都へは馬車で結構な時間がかかるためだろうか、いつも足並みを揃えて四人揃ってからでないと出されない朝食ももうすでに他三人の前には並んでいる。
「遅いぞウォルシュー。お前の分まで食べちまうぞ」
そう声をかけてきたのはジョシュアである。放浪の騎士が片田舎の女性と恋に落ち産まれた子供だそうだ。時折送られてくる手紙には封蝋が押してあり、貴族というほどではないが比較的名前のある家柄のやつ。まぁ、そんなことは気にならないくらいに分け隔てなく正義を貫いており、暴走しがちではあるもののその正しさは曲がることのない安心感を与えてくれる。
この中で一番若い(と言っても数ヶ月ほどの差だが)にも関わらず、その剣の腕前はアルベルト伯爵直々に指導を行うほどだ。一応俺も一度だけ何かの間違いでアルベルト様に指導を行ってもらう機会があったのだが、実践形式で教えられるそれは百分の一も理解することができなかった。
「今日くらいウォルシュくんも早起きすればいいのにね。ねーフギン?」
そんな様子を眺めながら窓辺で眠る猫の額を指先でカリカリと撫でるのはニーナ。四人の中では一番頭が良い。錬金術師の家系だそうで王都にも何人か知り合いが居るらしく、頭の良さの片鱗はそこから着ているのではないかともっぱらの噂である。とは言っても本人はただの女の子で、頭が良いと言われたくはないと何度も言っている。
こいつの前で魔術文字の話はしてはいけない。日が暮れるまでの一方的な魔術文字談義が始まり、読まなかったらどうなるか……と脅しながら鈍器のような魔術文字に関する本を渡してくるのだ。ここで読まなければ魔術文字の実験台にさせられ、読んだら読んだでもう一日追加の講義が始まる。幾度となく俺も、ジョシュアも、そしてもう一人の祝福の子ムトも実験台にさせられてきた。
「んな、ニーナ、ワシも撫でろ」
「バカなこと言わないの」
猫を撫でるニーナに近づいていったのが、猫の獣人のムトである。大柄な体格……と言うかまさしく比較的肉がよくついている体格の二足歩行の猫といったような見た目であり、その通り獣人族の青年だ。体毛に覆われていたため手の甲に紋様があることに気づかれるのが一足遅れた奴。そのせいでこの中では二歳ほど俺たちよりも年上ということになっている。
グループの中で最年長という思いが間違ったベクトルに進んだのか、いつの間にか一人称がワシになっていたりとどこかジジくさい仕草がなにかと彼には多い。しかしそれは裏を返せば常に冷徹で、全員を俯瞰して見ているということと同じ意味を持っている。つまり少し年上なだけにもかかわらず、それほどまでにムトは達観している性格の持ち主なのだ。
「ごめんごめん。今日があの日だって忘れてたんだよ」
俺が部屋に入ってきたことを察知したのだろう。キッチンの方から物が焼ける音が聞こえ始めてきた。
「ごめんで済んだらワシらは訓練せずに片田舎で生涯を終えてたんだな」
ニーナの手のひらに無理やり頭をこすりつけようとしていたムトがそのポーズのままで言う。そしてそのまま「かっこつけてんじゃないの」と一蹴されて、頭をはたかれていた。
軽口は叩いているものの準備はされていても俺をまってくれていたのだろうか、ジョシュア以外の二人の皿はまだ手が付けられていなかった。俺が席につくとニーナとムトも一緒に席につく。ムトが目の前に置いてある皿を俺の前に差し出してきた。
「どうせ全員一緒に食べ始めてもウォルシュが一番遅いんだからはよ食え」
「どうせあんたが作りたて食べたいだけでしょ。全員揃うまで待とうとか言いながら意地汚いことしないの」
ニーナがムトの出した皿を引っ込めようとして俺はそれを止める。
「大丈夫。俺が食べるの遅いのは間違いないわけだし、もらうよ」
食が細いわけではないのだが、昔から食事のスピードは他の三人と比べると遅かった。アルベルト伯爵からは「そんなに遅いと緊急時に苦労するかもしれないね」と笑いながらよく言われるほどに、だ。
王都へ出向くための準備でギリギリまで忙しいのだろうか、いつもの朝のようにアルベルト伯爵がここに座っていない。そのためか、その朝食は比較的いつものそれよりもにぎやかだった。
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