俊一
プロローグ
この物語は彼女の視界を介してのみ伝わる。私が選んだのは、彼と一番近しい存在である彼女だ。彼女はいつも彼のそばにいる。彼という存在に寄り添っている。今日もいつもの時間、いつもの場所、眠れる彼の顔を眺めている。窓から降り注ぐ光は空気中の塵をも照らすが、それでも彼の寝顔は薄暗いままだった。
ウェストミンスターの鐘が鳴った。彼女は彼の裾をぐいと引っ張った。時間らしい。
「早いなぁ」
目を擦り上半身を持ち上げながら彼は言った。まだ寝足りないのか、窓の光に照らされた彼の顔は不満気だった。彼女がもう一度だけ裾を引っ張った。すると諦めたのか、彼はゆっくり立ち上がってこう言った。
「次の授業なんだっけ」
校舎の屋上へと続く扉は固く南京錠で閉ざされ、その踊り場が、彼らの昼食の時の特等席だった。彼らは屋上からの景色を知らなかった。ただ、なんとなく、そこを選んだ。二人だけの場所だった。
二人は階段を降りて、生徒がごった返す廊下の喧騒に身を投じた。
第一話 ロックンロールイズレッド
1
「課題多いなぁ、いやになるなぁ」
一時間後、嫌いな数学の教科書を鞄にねじ込みながら、彼はぼやいていた。
彼の名前は真川 俊一。背丈は174cm、彫りの深い鼻筋だが、とぼけた表情と常に付き纏う寝癖でそれを台無しにしている、よく言えばどこにでもいる様な高校二年生だ。成績は中の下。
そして、彼を一途に見つめる隣の席の彼女の名前は吉野 歩。彼女の視界からは彼女の優しさと想いが、満ち溢れていた。
「次の授業なんだっけ」
一時間前と同じ事を俊一は言った。この男は歩の事をメモ帳か何かと勘違いしているのだろうか。あまりに間抜けな俊一の声に、それでも優しく次の科目の教科書を彼の眼前に提示する歩であった。
「世界史か……寝よう」
絶句。
2
二人は同じ部活に所属している。新聞部。元々は帰宅部に毛の生えたような集まりだったが、今年の新入生一人の影響で、それは変わった。割と真面目に校内の出来事を新聞として著すようになった。それは素晴らしい。よくやった新入生。部室は、この校舎の三階にある化学準備室。ガラスの棚に試験管が並ぶ、こじんまりとした部屋である。
ホームルームを終えた二人が、リノリウムの床を滑って、勢いよくこの部屋に飛び込んだ。
「こんちゃーす」
俊一は、長机に座り神経質そうにパソコンをタイプする小柄な女生徒を眼前に捉えると、相変わらずとぼけた声をあげた。それを見てその女生徒は、溜息を吐きそうになるが、一応上級生の面子を保つためなのか、会釈してまた視線をパソコンのディスプレイに戻した。
その女生徒こそが、烏合の集だった新聞部に革命を起こした新入生、十日市 秀である。成績は常に上、眉目秀麗だが、先述した通り神経質で、どこか近寄り難い雰囲気の少女であった。
「こんにちは、先輩。コラムの原稿、終わりましたか」
視線をそのままに、吐き捨てる様に秀は言った。
「出来てません……はい」
やはり。もうなんか当事者でない私でも分かる。そんな雰囲気だもん。だよね。
しかし反面驚いた。この様な平々凡々とした彼にも書けるコラムがあるのか。なんなんだ。女体の神秘についてか。いや、それはないだろう。いや、まて……
「先輩のコラム、割と微妙に人気あるんですから、ちゃんとしてくださいね」
は。こいつは奇天烈な。割と微妙にでも人気があるのか。この学校の生徒は彼の何が知りたいのだ。
「ロックンロールはさ、広いんだ。ロッカーそれぞれの想いの結晶体だ。毎月一つに絞るのも、中々に酷だと思わんかね」
「特集組みますか」
「すいませんでした」
3
ビーカーにお茶を入れ、アルコールランプでそれを沸かして飲んだ。シャープペンシルを咥えながら俊一はコラムの推敲、秀は依然ディスプレイと睨めっこをしていた。日は傾き、歩の視界も橙色になっていく。時計は既に夕方の五時を回っていた。
「帰ろうか」
俊一は徐に書いていたノートを鞄の中に仕舞うと、歩に向けてこう言った。それと共に、ウェストミンスターの鐘が鳴り、続いて校内放送で無機質な女生徒の声がまだ帰っていない生徒の下校を促した。
「明日までには頼みますよ」
秀は仕方なくパソコンの電源を落として、吐き捨てる様にそう言った。
「はいはい」
化学準備室を出た二人は、緑と橙色が混じったリノリウムの床から逃げる様に校門へと急いだ。途中二人は分かれて俊一は駐輪場へと向かい、自分の愛車を引いてまた合流する。その僅かな間も歩の視界には必ず俊一がいた。校門には厳かな金の文字で「県立門原中央高等学校」の文字が黒い石造りのプレートの上に浮かんでいた。文字に反射した西日に一瞬だけ、歩夢の視界が閉ざされた。
校門を出てそのままそそくさと帰ろうとしたその時、二人を呼び止める声が後ろから響く。
「真白先輩、今までどこいってたんすか」
俊一は聞き慣れた声に、珍しく呆れたように呟きながら振り向くと、その声の主であろう男子生徒が手を振りながら二人の元に駆けつけて来た。
若白髪の目立つ、目つきの鋭い男だった。しかし外見とは裏腹に柔らかな物言いはより一層、俊一を呆れさせてしまった。
東條 真白門原中央高校三年生。新聞部の部長だが、ほとんど部室には顔を見せない。身長は178cm。不良の様な制服の着崩しだが、突っ張っている訳ではないので、下級生からの人気は高い。しかし、どこか掴み所の無い男でもあった。
「やあやあ、お二人さん。偶にはお茶でもせんかね。どれ、俺がコーヒーを奢ってやろうね」
下級生が可愛いからなのか、余程暇なのか、ともかく俊一達は、真白に連れられ、近くにある小さな喫茶店へと向かった。道中、俊一の自転車の籠の中の唯一の荷物である痩せた鞄が地面の隆起に併せて音を立てた。
片隅堂。寂れた喫茶店だが、学校の帰りがけに寄る生徒は多い。何よりマスターの眼鏡越しの優しい眼差しが、生徒の疲れを癒してくれた。俊一の愛車を停めて、三人は喫茶店の鐘を鳴らした。
いつも通りのコーヒーの香りに、三人はほっと一息をついた。他愛もない話をした。本当に下らない話だったが、俊一達は楽しそうだった。
太陽の光が沈みきり山影と空が同じ色になった頃、三人は席を立った。
4
十月初めの夕凪は、残暑を超えて漸く秋を覗かせた様だ。少し寒くも感じた。真白と歩の二人は片隅堂の裏にある駐輪場から自転車を引いてくるであろう俊一を待っていた。
「あいつは」
短い沈黙の後、それを切り裂く様に真白が口を開いた。
「あいつは君が守るんだ」
少し間をおいて、歩の視界が一度だけ縦に揺れた。
程なくして、自転車を引いた俊一が合流した。解散しようかと言った所で、それに気づいて口を開いたのはまたもや真白だった。
「何だそれ」
俊一と歩は突然放たれた疑問に、一瞬意味が分からなかったが、真白が俊一の愛車を指差すとそれを理解した。
俊一の自転車の籠の中で、門原中央指定の通学鞄と籠の側面との間に、一つの茶封筒が挟まっていた。その茶封筒は少し厚みを帯びている様だ。
「お前、籠の中にそんなの入れてたっけ。学校出る時には無かったよな」
「あれ、そうですね。何だろうこれ」
「ラブレターじゃね」
おどけてみせる真白に少しばかり歩は視界を細めた。
「ラブレターにしては、味気ないっすね」
俊一を見て一層、歩の視界が細くなったのも束の間、茶封筒の中身を見た俊一の顔が一瞬で青ざめた。
5
あの封筒の中身は何だったのだろう。結局、俊一以外はその中身を知らされる事なく、三人は別れ、帰路についた。俊一は終始青ざめたまま、詮索しようとする真白を、宥めるのに徹していた。
思えばここからだった。この奇怪な物語が始まりを告げたのは。