うちの息子はわからない
お久しぶりです。リハビリがてら書きました。活動報告にお知らせがありますのでご覧になってくださると嬉しいです。
「母ちゃん、おれわからないことがあるんだけど」
「うわっ、どうしたのその顔」
小学三年生になる息子が服は泥だらけ、顔にあちこち傷をこさえて帰ってきたので、私は軽く悲鳴を上げた。
息子は出ている鼻血を袖で拭うと、涙がにじんだ目で言った。
「けんかした」
「え、誰と?」
場合によってはこのやんちゃ坊主を連れて謝罪に行かねばならない。私は固唾をのんで次の言葉を待った。息子の目からじわじわと涙があふれだす。
「……トシと」
「え、俊朗くんと?」
俊朗くんは、同じマンションに住む息子の友達だ。小学校入学時にクラスが一緒になり、出席番号も近かったので二人はごく当たり前のように友達になった。俊朗くんは躾の行き届いた礼儀正しい少年で、家に遊びに来るたびに私は感嘆していた。人生何周目なんだこの子は、と。お母さんもしっかりした優しい人で、よくスーパーなどで会っては世間話に花を咲かせることもある。
「なんで俊朗くんと喧嘩したの」
「あいつが、マリちゃんをふったから」
「え」
マリちゃんというのは息子のクラスの中で一番の美少女で、ちょっとおませな女の子だ。息子はこの前、マリちゃんに告白して見事に玉砕した。泣きながら家に帰ってきて夫に『女に振られたくらいで泣くとは何事だ』と叱られ、『父ちゃんだって母ちゃん以外のおんなのひとと手もつないだことないくせに』と言い返し、結果壮絶な親子げんかになった。
「だってトシのやつ、マリちゃんに告白されたのにきみなんかきらいだって言ってマリちゃんのこと泣かせてた」
「で、お前どうしたの」
「マリちゃんにあやまれって言ったらあいつにぐーでたたかれた」
「それで喧嘩に?」
「……うん」
私は泣いている息子にティッシュを渡し、さあこの後どうしようかと途方に暮れていると、チャイムが鳴った。
「うちの息子がすみません!おたくの息子さんにケガさせたようで……!」
顔を真っ青にした俊朗くんのお母さんと、胸が張り裂けそうな顔をしているぼろぼろの俊朗くんが玄関に立っていた。
◇
「母ちゃん、俺わからないことがあるんだけど」
「何かあったの」
もう中学二年生になり、思春期に足を踏み入れつつある息子が、テーブルに就いて真剣なまなざしで言った。リビングには使いこなされた剣道の道具が放りっぱなしだ。ちゃんと後で片づけさせよう。
「アイス食べていい?」
「もうすぐ夕飯でお兄ちゃんたちが帰ってくるから駄目です」
「ちぇー。で、わからないことなんだけど」
「うんうん」
私はキッチンで夕飯の支度をしながら息子に相槌を打った。彼は健康的な中学生男子らしく、栄養をもりもりと摂取し、剣道部所属と言うこともあって信じられないスピードでガタイがよくなりつつある。そろそろ背丈を抜かされそうだ。他にもうちには大学生が一人に高校生が一人、それと中年になった今でも食べる量が高校生男子とさほど変わらない夫がいるため、私は大量に食事をこしらえなければいけない。
「楠木がさあ」
「俊朗くんのこと?」
「星学受けてみないかってセンセーと親に言われてるらしいんだけどさあ、あいつ嫌だって言うんだよなあ。北高受けたいんだって」
「なんでまた」
星学とは、この地域では最高偏差値を誇る私立の男子校である。T大合格者も毎年何人か出しており、県内屈指の名門校との評判だった。それに対し北高は公立高校で、難易度も星学ほど高くはない。息子も中三になったら北高の受験を希望していた。
「なんかさ、私立の中途入学はいろいろありそうだからやだって。制服が学ランなのも嫌だし、女の子がいないのも嫌だって」
「で、お前はそれに対してなんて言ったの」
「贅沢言うなって言ってやった」
「そりゃまたどうして?」
「だってさあ、違うクラスにどうしても星学入りたいって言って、朝から晩まで勉強してるやつがいんの。星学の中等部受けたんだけど、ダメだったんでうちに入ったやつ。どうしても楠木に成績で勝てなくて親にも言われてるらしくて、この前空き教室の片隅で泣いてた」
「ああ、もしかして三組の佐藤君?」
三組の佐藤君の親は、保護者の中では知らぬ者はいないという意識高い系の教育ママである。上の息子二人をT大の医学部に入れたのが自慢だそうだ。
「そうそう、そいつ。そうやって勉強してるやつもいるんだから、お前贅沢言うなって言ってやったらさ、喧嘩になっちゃって」
「仲直りした?」
「わかんない。だってさあ、あいつ星学は俺と一緒に登下校できないし友達も出来そうにないから嫌だって言いやがった。高校分かれても、俺たち友達だと思うんだけどなあ」
「ちゃんとそれ言った?」
「言ったよ。そしたらあいつ、俺が星学入れば無問題だ!って言い始めてさ、明日から俺に勉強教えるって」
「そうかあ……尊は星学入りたいの?」
「とくには。だって学費も高いだろうしさ、俺みたいなのが入ったら一瞬で落ちこぼれてミジメになるに決まってんじゃん?」
「そうかあ……とりあえす俊朗くんとはよく話し合った方が良いよ」
「そうする」
息子がいつの間にか冷凍庫から取り出したアイスを加えてうなずいた。私は息子を叱りながら、そういえばいつ息子は俊朗くんを名字で呼び始めたのかと考えた。
◇
「母さん、俺わからないことがあるんだけど」
「またかあ。それで何?」
無事に北高に入学した息子は早いものでもう高校三年生。東京にある私立大の歴史学部の受験を希望している。成績も問題ないし、学費も我が家の家計的には問題なさそうなのでこのままいけばスムーズに進学できそうだ。塾から帰ってきた息子は、遅くなった夕飯を食べるためにテーブルに就き、箸を手に取った。
「そんなに俺、わからないって言ってたっけ?」
「まあまあ言ってた気がする」
「そうか。で、話なんだけど」
「なんなの?」
「俊朗がさあ、俺と東京でルームシェアしようって言ってるんだけど」
私は口に含んでいた麦茶を危うく噴き出しかけた。飲み込もうとして思い切りむせていたら、息子が背中をさすってくれた。
「大丈夫?母さん」
「うん、大丈夫……なにその話。初耳なんだけど」
「だからさ、東京って家賃高いじゃん?だけど、学生向け物件じゃなくて俺たち二人で金を出し合えば、もっといい物件に住めるって俊朗が」
「……まじかあ。俊朗くんの親御さんはなんて?」
「好きにすればいいって」
俊朗くんは星学に入り、高成績をやすやすと叩き出し、T大法学部への受験を決めたそうだ。合格間違いなしと誰もが見ている。背も高くなり、元から整っていた顔立ちはさらに磨きがかかり、どこに出しても恥ずかしくない好青年になっていた。息子は高校が分かれても友達だという宣言の通り、しょっちゅう俊朗くんと遊びに行っていた。
「俺さ、カノジョと住んだら?って言ったんだけどさ、あいつそれだと勉学に集中できないから無理だって」
「俊朗くんカノジョいたんだ」
「百合女の子と付き合ってるみたい。でも女ってめんどくせーってしょっちゅう言ってる」
「百合女とはレベル高いな」
百合女というのは星学と双璧をなす、県内屈指の名門女子高である。息子いわく、「あそこの女の子はカワイイ子が多いし、すげえ頭も良い子が多いけど、プライドが高すぎてなんかヤダ」だそうだ。
「俺とだと気軽に暮らせていいだろうって。母さん、どう思う?」
「好きにしなさいな。でも、ちゃんと二人で話し合ってルールは決めた方が良いよ」
「そーするつもり。通おうかとも思ったんだけどさあ、東京住んだ方がいいかなあと思って」
この地域はぎりぎり東京のベッドタウンで、大体東京まで一時間半ほどかかる。微妙な距離だ。
「ところでいつからまた俊朗くんのこと、名前で呼ぶことにしたの?中学の頃は楠木って呼んでたじゃない」
「この前あいつに誕生日プレゼント何がいい?って聞いたら、もうお前に名字で呼ばれるの嫌だから、名前で呼んでほしいって言われたんだよ……」
「あらあら」
◇
「母さん、俺決めたことがあるんだけど」
「あらあら、なあに?」
夏休みになったので、大学三年生になった息子が帰省してきた。息子は大学とバイトを両立させながら、休日は近くの剣道場に通って指導を受けているそうだ。俊朗くんとのルームシェアも好調で、料理の腕も上がったらしい。私はスイカを切りながら息子に相槌を打った。
「俺、公務員試験を受けて東京の警察官になろうかと思って」
「どうして?なんで警察官?」
「あのさ、俊朗のやつ司法試験受けて、弁護士になってキャリアを積んだ後に国会議員になりたいんだって。すごいだろ?」
「すごいねえ。俊朗くんならできそうだね」
「で、ゆくゆくは大臣になりたいんだって」
「それとお前の警察官志望が何の関係が?」
「でさ、俺思ったの。政治家になるとやっぱり、命とか狙われやすくなるじゃん?俺がSPになって、あいつのこと守れたらいいなって思った。SPになれなくても、警察官として人の命を守れたらいいなって」
「ほうほう、君にしちゃ立派な決意だね」
「馬鹿にすんなよ。で、趣味の剣道も立派に活かせるわけじゃん?」
「そうかあ……でも、大変な仕事だよ。辛い思いもするかも」
彼はスイカをつまみぐいしながら、わかっているよとうなずいた。
「でも俺、もう決めたから」
「じゃ、母さんには止める理由ないな。試験勉強頑張ってね」
「うん、俺頑張るよ」
◇
「母さん、俺にはわからないよ」
げっそりとやつれた顔の息子が、白湯の入ったマグカップを前にしてぽつりとつぶやいた。目の下には酷い隈をこしらえている。そういう私だって多分ひどい顔になっているはずだ。
「なんで真澄のやつ、浮気なんかしたんだ」
相手の言い分を弁護士事務所で散々聞いたはずなのに、息子は暗い声でそう言った。真澄というのは息子が結婚した女性で、確か知り合ったのは合コンだと聞いている。彼らの間には娘が一人生まれ、中古ながらなかなか良い条件のマンションを買い、結婚生活は順調そのものだったそうだ。ある日仕事が早く終わって家に帰った息子が、寝室で自分の同僚と裸で抱き合う彼女を発見するまでは。拳銃が手元になくてよかったと息子は言った。
「俺は……あいつのこと、大事にしてたつもりだった」
「それはみんな知ってる」
「じゃあ、なんで俺のことを裏切ったんだ。ひどいじゃないか」
ごめんなさい魔が差したの、お願いだから許してちょうだい、やり直したいのという悲鳴にも似た懇願が、今でも息子の耳にこびりついて離れないそうだ。息子は弁護士事務所から帰ってきた後トイレに閉じこもり、散々吐いた。私は私で両親の間に何かあったことを察したのか、泣きじゃくる孫娘を必死でなだめて寝かしつけていた。さっきようやく眠りについたところだ。息子に付き添った夫は怒りが止まらないらしく、落ち着くまで歩いてくるよと散歩に出かけて行った。
「やり直すつもりはないの?」
「……俺は……たぶん、やり直しても一生あいつのことを疑念の目で見ると思う。そんなの無理だよ。生き地獄だ」
「かなでちゃんの親権はどうする?」
「かなでは俺が引き取るよ。……実はさ、俊朗に連絡してて。助けてほしいってお願いした」
「俊朗くんはなんて?」
「頼ってくれてうれしいって言ってた。落ち着くまであいつのマンションに住んだらともいわれた」
俊朗くんは現在、弁護士としてなかなかの成功をおさめており、高級マンションの一室に一人で暮らしているらしい。独身を謳歌しているそうだ。
「俺、あの家手放すことにしたわ。もうあの寝室で寝るのなんて無理だよ。かなでには悪いけど、しばらく俊朗の家に世話になって、どうするか決めるわ」
「かなでちゃんは私たちが預かろうか?」
「そうしたいところだけど、俺が引き取るって決めたんだから俺が面倒を見るよ。大丈夫だと思う」
「はー……無理はしないように。ダメそうだったら早めにいうのよ」
「ありがとう……ごめんね、母さん」
「いいのよ」
◇
走馬灯のように記憶がめぐり、私は目を覚ました。連続的な電子音と共に目の端でぽたぽたと液体がしたたり落ちる。点滴だ。
「あ、起きた?母さん」
一番上の息子が私の顔を覗き込んで言った。私は体を起こし、見回すとそこに子供たちや子供たちの配偶者、孫たち、そして夫が病院の狭い個室に大集合していることに気が付いた。
「ああよかった、母さんが無事に目が覚めて」
「ほんとだよおばあちゃん!ひやひやしたんだからね!」
「五時間にもわたる大手術でしたからねえ。お義母さん、当分絶対安静ですよ」
そういえば私は、家のリビングで飲み物を取ってこようとして倒れたのだった。やってきた医師の説明によると心臓がだいぶ前から良くなかったらしい。もし家に誰もいなかったら、確実に死んでいたそうだ。
私は見まわしたなかで、一人だけ欠けている顔に気が付いた。
「尊は?」
その問いに中学生になったかなでが、ぷりぷりしながら答えた。
「お父さんったらお仕事なんだって!終わったらすぐ来るってかなでにもう謝りっぱなし!」
「まあまあかなでちゃん、尊叔父さんはああ見えて忙しい人だから」
「もしおばあちゃんが死んじゃったら、お父さんにうんと文句言うからねって言っといた!」
みんながちょっとだけ笑った。夫と息子達は入院手続きを済ませてくるよと言って外へ出ていき、娘と一番上の息子の嫁は荷物を取ってくると言ってこれまた出て行った。開けたドアの向こう側に、ちらりと知っている顔を見たような気がして一瞬心臓が弾んだ。
「ねえ三人とも、売店に行っておいで。お小遣いを上げるから好きなお菓子を買ってきなさい」
「え、でもおばあちゃんは大丈夫?」
「大丈夫よ。手術はうまくいったし、ナースコールも手元にあるからね。ほら、千円ずつあげるから」
「……わかった。おばあちゃんは何か欲しいものない?」
「大丈夫よ。行っておいで」
一番年上の孫が、何かを悟ったような顔で残りの孫たちを連れて出て行った。私はドアの向こうに声をかける。
「俊朗くんでしょう?入ってらっしゃい」
背の高い、中年に差し掛かった頃合いの男性が大きな花束を抱えて病室に入ってきた。いたずらしているところを取り押さえられたような、ばつの悪そうな顔をしている。着ている紺のスーツは三つ揃えの立派なもので、襟には赤紫色のモールに、金属の11弁菊花模様がついた立派なバッジが光っていた。
「お久しぶりです、おばさん」
「衆議院選挙の時以来かしら?立派になったわねえ」
「あの時はお世話になりました。……倒れたと聞いて驚きましたよ」
「もう私も年だからね。そろそろ死神が仕事に取り掛かりそうなのよ」
「そんな。おばさんには長生きしていただかないと」
そう言いながら彼はそばにあった机の上に花束を置こうとした。あとで花瓶を持ってきてもらおうと思う。私はいたずらっぽく笑って、爆弾を投下した。
「で、尊にはもうプロポーズしたの?」
ばさり、と音がして花束が床に落ちる。こちらをみた俊朗くんの顔はかろうじて平常を保っていたが、耳は真っ赤になっていた。
「……何の話ですか」
「そうなの。しらばっくれるのは構わないけど、早めにした方が良いわよ。あの子はお人よしだから、また悪い女に引っかかるかもしれないし」
「……おばさんにはかなわないや。いつから私が尊のことを好きだってわかっていたんです」
「貴方が小学三年生のとき、女の子をめぐって尊と喧嘩して貴方のお母さんと謝りに来た時からよ」
あの時彼の顔にはマリちゃんへの嫉妬と、尊の怒りに傷ついた悲しみがあった。もう何年も前のことなのに、今でもよく覚えている。彼はどさりとベッドのそばに置いてあった椅子に座り込み、頭を抱えこんだ。
「私ね、頑張ったんですよ」
「ええ、そうよね」
「尊以外の人間を好きになろうと、女の子とも何人か付き合ったし、高校も別にしました」
「でもだめだったのね」
「どうしても私の心は尊に惹きつけられてしまうんです。あいつのふとした表情に見とれて、茫然とする自分がいる。それならばいっそ自分のものにすればよいとあれこれやってみようとしましたが……あいつが『俺たち、友達だよな!』って笑うたびに心がくじけて」
「我が家の人間はこの人と決めたときは猛烈一直線だけど、人から向けられる好意には疎いのよ。ごめんなさいね」
「おばさんが謝る事ではないです」
彼は頭を抱えたまま言った。
「私、プロポーズしても大丈夫でしょうか」
「そのために今日まで頑張ってきたんでしょう?自信を持ちなさいな」
「……尊に拒絶されたら」
「そしたらその時はその時よ。ほら、花屋で花を買って、素敵なレストランを予約して、指輪を持っていきなさいな。あの子、意外とベタなシチュエーションに弱いわよ」
「知ってます。……骨は拾ってくださいよ」
私はその言葉を笑い飛ばした。
「貴方が私の骨を拾ってくれる可能性の方が高いわよ。ほら、孫たちがもうすぐ帰ってくるからお行きなさい」
「ありがとうございます」
「結婚式には呼んで頂戴ね」
「……はい」
彼が病室から出て行ってしばらくすると、孫たちがお菓子の入ったビニール袋を抱えて帰ってきた。一番年上の孫は新聞を小脇に抱えている。
「おばあちゃん、お小遣いありがとう。なんか暇つぶしになるかなと思って新聞買ってきた。読む?」
「ありがとう、読ませていただくわ」
「立派な花束だね。かなで、花瓶借りてくるね」
私は新聞の第一面に目を通した。トップニュースは我が国でとうとう同性婚が合法化されたという話題。法律の成立には、最年少で大臣に就任した若き政治家の尽力が大きかったと書かれていた。
マリちゃんは佐藤君と結婚しました。