第八話
「はあ……」
「溜息なんか吐いてどうしたの、達也?」
朝のホームルーム前の学校の教室にて。ホームルーム前の自由時間に、一人溜息を漏らしていた俺に話しかけてくる者がいた。
こういう風に親しげに声をかけてくる奴なんて限られているから、声の主が誰なのかなんてすぐに分かった。
「ああ深夜か……おはよう」
自分の席に座っている俺の正面に、教室に入ってきたばかりの深夜が立っていた。
「うん、おはよう達也。それで、溜息なんか吐いてどうかしたの? 達也は普段からよく溜息を吐いてるけど、今回のはかなり深刻そうに見えるよ」
「ああ、ちょっと昨日な……」
原因は昨日の弥生ちゃんとの一件。女の子と手を繋ぐのが初めてだったこともあって、昨日の俺は少し冷静じゃなかったかもしれない。
だからあんなバカな発言をしてしまったのだろう。昨日からずっと自省の念に駆られていた。
絶対に弥生ちゃんに嫌われてしまった。もしかしたら、今後口をきいてもらえない可能性もある。
元々特別仲が良かったというわけではないが、俺とまともに話してくれる数少ない人だっただけに、嫌われるのは俺の強面を見て悲鳴をあげられるよりも辛いものがある。
「達也が何を悩んでいるのか分からないけど、相談なら僕が乗るよ? 力になれる保証はないけど、話してみてよ」
「深夜……」
こういう時に手を差し伸べてくれる親友の存在は、とても心強い。それに深夜は弥生ちゃんの兄だ。相談相手としては悪くない。
もしかしたら、取りなしてくれるかもしれない。そんな打算もあって、俺は昨日の出来事を深夜に話すことを決めた。
「実は――」
内容がそんなに多くなかったこともあって、ほんの数分で話し終えた。
話しを聞き終えた深夜の第一声は、
「気にしなくていいと思うけどなあ……」
という呆れ混じりのものだった。
「達也さ、ちょっと神経質になりすぎじゃないかな? 弥生はその程度のことで、達也を嫌ったりはしないよ」
「そうなのか? キモいとか思われたりも――」
「してないしてない。弥生の兄として、僕が保証するよ」
深夜は何か確証でもあるのか、そんなことを言った。嘘を言ってるようには見えない。
深夜がここまで言ってくれるのなら、根拠が不明でも信じてみてもいいかもしれない。
「分かったよ、深夜がそこまで言うのなら信じてやるよ。あとその……ありがとうな、相談に乗ってくれて」
正面から言うのはちょっと気恥ずかしいものがあったので、少し視線を斜め下にやってから感謝の言葉を告げた。
「どういたしまして。……ところで達也、恩には恩で報いるべきだと思わないかな?」
深夜の口元にニヤリと笑みが浮かぶ。いつもの女を虜にするような爽やかな笑みではなく、意地の悪さが見え隠れする笑みだ。
基本的には人のいい親友の深夜だが、時折意地の悪いことをする悪癖がある。そういう時は、今みたいに底意地の悪い笑みになる。
「……俺に何をしてほしいんだ?」
できれば拒否したいところだが、深夜に相談に乗ってもらったわけなので無下にするのは心苦しいものがある。……せめて無茶振りをしてこないことを祈るしかない。
深夜は「付け入るようで悪いね」と軽い謝罪を入れてから、グルリと教室内を見回した。
俺も続く形で視線をグルリと一周させる。すると奇妙なことが起こった。
こちらの様子を窺っていたクラスメイトが、俺と視線が合いそうになると露骨に逸らしたのだ。もちろん、これだけならいつも通りのこと。特別驚くようなことじゃない。
ただ、今回は普段と違う点が一つだけあった。それは俺と目が合いそうになったところで逸らされた視線の数だ。今はクラスメイトほぼ全員が明後日の方向を見ている。
普段は目を付けられたくないと言わんばかりに、俺の方を見ようとしない彼ら彼女らが、今さっきまで俺に注目していたのだ。
これはいったいどういうことなんだ。明後日の方向を向いたままのクラスメイトたちから視線を外し、深夜に戻す。
「達也はさっきまで落ち込んでたから気付けなかったみたいだけど、僕らはさっきからクラスのみんなにチラチラ見られてたんだよ」
「どうして俺たちのことを見てたんだよ?」
見られる心当たりなんて、全くないぞ。避けられる心当たりならあるけどな。
「ほら、昨日の弥生の恋人発言があったでしょ? あれを聞いて、みんな好奇心に火が点いちゃったみたいでさ」
深夜がやれやれと肩をすくめる。
「一応達也と弥生が少し前から付き合い始めたことは昨日の内に説明したんだけど、みんな信じてないみたいでさ。二人が本当に付き合ってるのか、コソコソ話し合ってるみたいだよ」
「……そういうことか」
今も俺の方をチラチラと見ては、コソコソと話し合ってるのはそういうわけか。道理で普段は避けられる俺に注目が集まるわけだ。
自分に関する話をコソコソとされるのはあまり気分のいいものではないが、仕方のないことだとも思う。
だって俺に恋人、しかも弥生ちゃんみたいな可愛い子がいるなんて言われても、普通は信じられないだろう。俺自身、偽物とはいえ恋人同士になれたことが未だに信じられないのだから。
「さて、話を戻させてもらうよ。僕から達也にお願いしたいことっていうのは、今後僕に二人の恋人としての進展具合を教えてほしいんだ」
「……はあ?」
予想だにしない要求に、間の抜けた声が出てしまった。
「僕もクラスのみんな同様、好奇心旺盛でね。大事な親友と可愛い妹の仲がどれくらい進展したのかとても気になるんだ」
「そんなのわざわざ俺に訊かなくても、弥生ちゃん本人に訊けばいいだろ」
「もちろん弥生からも聞くつもりだよ? でも正確に物事を知るためには、多角的視点が必要になってくるからさ。彼氏である達也の話も聞いておきたいなって」
割と筋が通った言い分ではあるが、その根底にあるのが野次馬根性だと思うと何とも言えない気持ちになる。
「それにこまめに教えてくれるなら、二人が何か困ったことがあった時、僕が助けてあげられるよ? 達也にとっても悪い話ではないんじゃないかな?」
「む……」
実際、ついさっき悩んでいたところを相談に乗ってもらっただけに、この言い分は否定しにくいものがある。
恋人なんてできたのは生まれて初めてのことだから、俺には右も左も分からない。だから数少ない友人である深夜がいざという時助けてくれるというのは、とても魅力的だった。
「……確かに深夜の言う通り、悪い話ではないな」
「でしょ?」
「だからお前のお望み通り、進展具合を教えてやってもいい。――ただし、話をするのは弥生ちゃんから許可をもらえたらな」
恋人としての進展具合の話となると、弥生ちゃんも関わってくる。もしかしたら弥生ちゃんは嫌がるかもしれないので、彼女の許可を条件にしておく。
「オッケー。それでいいよ」
深夜も特に異存はないようで、あっさりと受け入れるのだった。