第七話
「ただいま……」
「おかえりなさい。遅かったですね、兄さん」
私――榎田弥生は、料理の手を止めて台所から顔だけを出して今帰宅したばかりの兄さんを迎えます。
ですが帰宅した兄さんの様子が普段とは違ったので、軽く目を見張ります。
「……兄さん、大丈夫ですか? 何だか少しやつれてるように見えますが……」
「まあ何とか大丈夫……かな」
「何があったんですか? 教室で見た時は、そんなんじゃなかったですよね?」
あの時は先輩が目的だったので兄さんのことは遠目にしか見れませんでしたが、ここまで憔悴はしていなかったはずです。
私が先輩と学校を出た後、いったい兄さんに何があったのでしょうか?
「……とりあえず、話は着替えてからでいいかな?」
「あ、はい。大丈夫です」
私がそう言うと、兄さんは気怠げな足取りで自室に向かいました。
しばらくすると、兄さんは部屋着に着替えてリビングに戻ってきました。
私は兄さんの話を聞くために料理を中断してからお茶を淹れて、兄さんと向かい合う形でダイニングテーブルを挟んで座ります。
ちなみに料理の方は少し時間を置く必要がありますから、中断しても問題はありません。
「それで、私が先輩と学校を出た後、何があったんですか?」
「弥生のことを根掘り葉掘り聞かれたんだよ。あの可愛い女の子は誰なんだとか、二人が本当に恋人なのかとかね」
「どうして兄さんに……」
「僕、クラスでは一番達也と仲がいいからね。弥生が達也を連れて行った後、みんな僕のところに詰め寄ってきたんだ。本当に大変だったよ」
……つまり原因は私にあるというわけですか。兄さんには申し訳ないことをしてしまいました。
「ですがそうなると、先輩も明日兄さんと同じように私のことを色々訊かれるんですよね……大丈夫でしょうか」
「達也は心配ないよ。クラスのみんなは達也の容姿を恐れて滅多に話しかけないから、僕みたいな目には遭わないはずだよ」
「そんな……」
確かに先輩の容姿は怖いかもしれません。ですが、容姿だけで先輩のことを判断するなんておかしいです。私も容姿に関しては悩みを抱えているだけに、他人事とは思えません。
「……どうにか先輩の誤解を解くことはできないんでしょうか、兄さん」
「難しいかな。さっきも言ったけど、クラスのみんなは達也を恐れてるから、そもそも誤解を解く機会がないんだよ。達也自身も、外見のせいで怖がられることに関しては諦めの境地に入ってるし」
「…………」
「ムクれないムクれない。他の人たちが理解できない分、僕たちが達也のことを理解してあげればいいわけなんだから」
「それはそうなんですけど……」
兄さんの言うことが最もなのは頭では分かっていますが、心の方はそうはいきません。やっぱり不満なものは不満です。
「それに、僕ら以外で達也のことを理解してくれる人――特に女の子が現れたら、弥生的には困ったことになるんじゃないかな?」
「どういうことですか?」
先輩の理解者が増えるのはいいことのはずです。先輩にとっては喜ばしいことですし、先輩が嬉しいなら私も嬉しいです。どうして私が困ったことになるというのでしょうか?
首を傾げる私に、兄さんは口元に苦笑が浮かびます。
「達也って人がいいでしょ? だから外見にとらわれない女の子なら、多分高確率で達也のこと好きになると思うよ?」
「……やっぱり誤解は解かなくていいですね。当分の間、先輩と仲良くするのは私たちだけで十分です」
別に、先輩の隣に私の知らない女の子がいることが嫌というわけではありません。ただ、今の先輩には必要がないと判断しただけです。
「ところで話は変わるけど……弥生、今日達也と何かいいことでもあった?」
「……いきなりですね。どうしてそんな質問を?」
「だって、弥生が手の込んだ料理を作るのって何かいいことがあった時だけでしょ」
そう言って兄さんは台所に視線をやりました。台所の火の止まったコンロの上には、蓋をした鍋が置いてあります。
鍋の中には、たっぷりのお湯とアルミホイルで二重に包み込んだお肉の固まりが入っています。
作っている料理の名前は、ローストビーフ。兄さんの言う通り、それなりに手間のかかる料理です。
「その反応……やっぱり何かあったんだ」
「…………」
流石は兄さんです。血を分けた兄弟なだけあって、私のことをよく理解しています。
こういう察しがいいところを頼もしいと思うこともあれば、うっとおしいと感じることもあります。ちなみに、今回の場合は後者です。
どうして些細なことから、私の身に起こったことを把握できるのでしょうか。不思議です。
「単純に弥生が分かりやすいだけだよ」
「心を読まないでください」
実はこの人、察しがいいのではなくエスパーなのではないでしょうか? 今後兄さんの前では迂闊なことは考えられませんね。
「あはは、ごめんごめん。許してよ」
許しを願う人の態度ではありませんが、まあいいでしょう。この程度のこと、いちいち根に持つようなものでもありません。
私は「いいですよ、許してあげます」と許しの言葉を口にしました。これでこの話はおしまい。そう思っていましたが、
「それで? 弥生は達也と何をしたのかな?」
まさかの続行です。
「……どうしてそんなことを兄さんに話さないといけないんですか?」
「気になるから」
「…………」
何て明け透けな物言いなんでしょう。ここまで正直だと、逆に尊敬の念すら抱いてしまいそうです。
「それとも何かな? 人には言えないような、恥ずかしいことでもしたの?」
「そ、そんな人には言えないことなんてしてません! 怒りますよ、兄さん!」
私は柄にもなく、大声をあげてしまいました。自分でもこんな大きな声を出せるなんて、ビックリです。
けれど今のは兄さんが悪いと思います。変な疑いをかけるなんて、私はもちろんのこと先輩にも失礼です。
「人に言えないようなことをしてるわけじゃないなら、話せるよね? さあさあ、兄である僕に教えてくれないかな?」
「……兄さんの意地悪」
兄さんのこういうところ、本当に良くないと思います。
「ごめんごめん。悪かったから、スネないでよ」
二度目の謝罪ともなると、最早形だけのものにしか感じられません。
私はツンとそっぽを向いて、不機嫌であることをアピールします。
「誤解しないでほしいんだけど、別にからかうとかそういうつもりは一切ないからね。ただ純粋に、二人のことが心配なだけなんだ」
「……兄さんに心配してもらうようなことはないと思いますけど」
私は兄さんに心配してもらうほど子供でもありませんし、それは先輩も同様です。
「でも二人共、恋人なんてできたの初めてだから何をすればいいのか分からないんじゃないの? 僕が心配だって言ってるのは、そのことだよ」
「そ、それは兄さんだって一緒じゃないですか……」
兄さんも私と一緒で、これまで恋人がいたことなんてないはずです。兄さんの心配は、余計なお世話だと思います。
「それでも、容姿のせいでまともに人付き合いができない達也と、人付き合いを避けてきた弥生よりはマシだと思うよ」
「う……」
兄さんが中々痛いところを突いてきました。確かに容姿に加えて社交性のある兄さんは、私より恋人の何たるかに詳しいかもしれません。
「それに僕なら、もしかしたらいいアドバイスができるかもしれないよ? そしたら、達也との仲ももっと進展するかも」
――その一言が決め手となりました。
結局私は、下校の際に先輩と手を繋いだことを話しました。
それにしても、先輩が私の手を柔らかいと言ってくれた時は、油断すると嬉しいのが顔に出てしまいそうになって大変でした。
先輩の感想に対して、努めて淡々と言葉を返したのでバレてはいないと思いますが。
その辺りの気持ちも可能な限り言葉にして、兄さんに伝えました。
「弥生……」
話を聞き終えた兄さんの第一声は、私の名前でした。心なしか、声音は呆れ混じりのものとなっています。
しかも不思議なことに、何だか致命的なミスを犯した人を見る目を向けてきます。いったい何なのでしょうか?
「弥生。明日達也に会ったら、達也と手を繋ぐのは嫌じゃないって伝えるんだ」
「え、どうしてですか?」
そんなこと、わざわざ伝える必要があるとは思えません。
それにそういうことを面と向かって言うのは、気恥ずかしいものがあります。できれば、遠慮したいところです。
「いいから、分かったね?」
「は、はい……」
なぜか兄さんに強く念押しされてしまいました。おかしな兄さんです。
とはいえ、今日はとても幸せな一日だったので良しとしましょう。
私は軽い足取りで台所に戻りました。