第六話
「――それにしても、教室を訪ねただけでまさかあんなに人が集まるとは思いませんでした。私、どこかおかしかったでしょうか?」
学校を出た弥生ちゃんの第一声は、戸惑いだった。
隣を歩く俺は、彼女の疑問に答えてあげる。
「別に弥生ちゃんにおかしなところなんてなかったよ。あいつらは弥生ちゃんが可愛かったから、ああやって寄ってきたんだよ」
現に弥生ちゃんを取り囲んでいたのは、全員男子生徒だった。しかも遠目からでも、下心ありなのがよく分かる連中だった。
どうせ弥生ちゃんが整った容姿をしていたから、お近づきになろうと寄ってきたんだろ。実に分かりやすい奴らだ。
「可愛いですか……先輩、見え透いたお世辞を言われても、女の子は喜びませんよ?」
相変わらずのツンとした態度でこちらを見ないまま、弥生ちゃんは淡々と言葉を口にした。
お世辞じゃないんだけどなあ……。弥生ちゃんレベルの女の子で可愛くないなら、この世に可愛い女の子なんて存在しないぞ。
そういえば昨日久し振りに顔を合わせた時も、お世辞はやめてくださいと言ってたな。もしかして、自分の顔に何かコンプレックスでもあるのか?
もしそうなら、今後弥生ちゃんに容姿の話を振るのは気を付けた方がいいかもしれないな。
「ですが……」
そこで一旦言葉が途切れたかと思えば、弥生ちゃんはこちらを向く。そして桜色の唇が淡い笑みの形を作った。
「……彼女としてなら、可愛いと言われて悪い気はしません」
「…………!」
予期せぬ衝撃が、全身を駆け巡る。
弥生ちゃんの性格から考えて、狙ってるわけじゃないんだろう。だからこそ、言葉の破壊力も数倍増しだ。
付け加えさせてもらうなら、これまでこの凶悪な容姿のせいで女の子と交流がなくて耐性がなかったのも相まって、うっかり勘違いしてしまいそうになる。
……よし、一旦落ち着こうか俺。冷静に冷静に。
俺たちはあくまで、ストーカーがいなくなるまでの偽物の恋人だ。いずれ関係が解消されることは、確定している。
だから勘違いしてはいけない。ストーカーの件がなければ、俺如きが弥生ちゃんに相手してもらえるわけがないという現実を。
自分に必死で言い聞かせることで、何とか動揺を鎮める。
気を取り直して再び意識を弥生ちゃんに向けると、彼女の笑みはすでに引っ込んでいた。……何となく惜しいと感じたのは、きっと気のせいだろう。
「先輩は口が上手いですね。もしかして、以前にも誰かと付き合っていた経験がありますか?」
「いや、残念ながらないよ。俺の彼女は弥生ちゃんが初めてだ。俺みたいな奴と付き合いたいなんて物好き、普通はいないからな」
まあ今の関係はあくまでストーカー対策のための偽物なので、カウントしていいかどうかは謎だが。
「そうですか。それは……」
ボソリと小さく何事か呟いていたが、残念ながら俺の耳に届くほどの声量ではなかったため、聞き取ることは叶わなかった。
俺に向けて言ったというよりは、独りごちる感じだったので何て言ったのかは訊かないでおくことにする。
「それで? 話したいことがあるって言ってたけど、何の話なんだ?」
一緒に下校している理由となる本題を切り出した。
「あ、はい。実はその、話というよりはお願いなんですけど……これからは可能な限りこうして一緒に帰るようにしませんか?」
「一緒に? それはまたどうして?」
弥生ちゃんも先程の教室の件で思い知ったはずだ。あまり俺みたいな奴と一緒にいると、悪目立ちする。
ストーカーの件があって俺と恋人のフリをする必要があるとはいえ、彼女はあまり変に目立つのは避けたいと言っていた。
なのにわざわざ一緒に帰りたいと懇願してきた。これはいったいどういうことだ?
訊ねると、弥生ちゃんの感情の起伏の乏しい顔が少しだけ暗いものになる。
「……ストーカーがどこで見てるか分かりませんから、人前ではできる限り先輩と恋人のフリをしていたいんです」
「…………!」
反射的に後ろを振り返ってしまう。しかしストーカーと呼べるような怪しい影はなく、俺たち同様帰宅途中の学生しか見当たらない。
けれど油断はできない。こうしてる今もどこかから、俺たちの様子を見ている可能性だって……。
「……ッ」
想像しただけで、寒気とは別の理由で身体がブルリと震える。男の俺でもこれなのだから、華奢な女の子の弥生ちゃんはもっと恐ろしかったはずだ。
いや、もしかしたら今も気丈に振る舞っているだけで、内心は恐怖でいっぱいなのかもしれない。
もしそうなら、弥生ちゃんのお願いを断る理由なんてあるはずもない。俺が弥生ちゃんの彼氏をやっているのは、彼女を守るためなのだから。
「分かった。その程度のことなら、別にいいぞ」
「ありがとうございます、先輩」
弥生ちゃんは軽く頭を下げて、謝意を口にした。
「……ところで先輩。恋人同士で下校する場合は、何をすればいいんでしょうか?」
「何をすればって……普通に帰るだけじゃダメなのか?」
「私もあまりその手のことは詳しくありませんが、少なくともそれだけで恋人として見られるのは、流石に厳しいと思います」
「あー……」
よくよく考えてみれば当然のことか。一緒に帰るだけで恋人というのなら、この世は今頃カップルで溢れかえっている。
恋人は友人よりも踏み込んだ関係だ。故に恋人は友人よりも特別なものとなり、友人相手ではできないことも恋人とならできたりする……と思う。
ここは年上彼氏として俺がエスコートするのが正解なんだろうが、今まで恋愛事に縁がなかったため、何をすればいいのか皆目見当もつかない。
弥生ちゃんは何か恋人らしいことの案を持っていないだろうか。
我ながら情けないと思いつつも、期待の意味も込めて隣の年下彼女に視線を送る。
「……手を繋ぐのはどうでしょうか」
「手?」
「はい、手です。手を繋ぐのは恋人なら当たり前のことと聞きましたが、違いますか?」
「いや、多分合ってると思うけど……」
弥生ちゃんの言う通り、カップルなら手を繋ぐからいのスキンシップは当たり前だ。
「ならしましょう。ストーカーに対して、先輩が私の彼氏だとアピールすることもできますし」
「わ、分かった、そういうことなら……」
俺が了承すると、弥生ちゃんは立ち止まりスっと差し出してきた。
弥生ちゃんの手は純白のきめ細やかな肌で、俺みたいな武骨な手とは大違いだ。俺が握って壊れたりしないか、少しだけ不安になる。
とはいえ、この手を取らないわけにはいかない。恐る恐る、弥生ちゃんの手を握る。
「うわ……ッ」
伝わってくる感触に、思わず情けない声が溢れた。
握った手は見た目以上に柔らかく、少し力を込めたたやすく壊れてしまいそうなほどの儚さを感じる。
これが女の子だからなのか、それとも弥生ちゃんだからこそ感じられたものなのか、女の子の手を握るのが生まれて初めての俺には分からない。
「どうかしましたか、先輩? 私の手……何か変ですか?」
弥生ちゃんが、不安げな瞳で俺を見上げていた。
「いや、何も変なことなんてないよ。ただ、弥生ちゃんの手が柔らかくて驚いただけだから、気にしなくていいよ」
「…………」
あれ? 弥生ちゃん、いきなり黙り込んでしまってどうしたんだ? 俺、何か変なことでも……あ。
少し遅れて、自分がとんでもないことを口走っていたのに気が付いた。
「や、弥生ちゃん、今のは……!」
慌てて言い訳をしようとするが、上手い言葉が思いつかない。
俺はバカか。本人の前で手の感触の感想なんて漏らせば、引かれるに決まってるだろ。
もし可能なら、数秒前の自分を殴り飛ばしてやりたい気分だ。
「……そうですか。先輩は私の手に触れて、そんなことを考えたんですか」
冷たい声音が耳に届いた瞬間、サっと血の気が引くのが自覚できた。
……引かれた、絶対に引かれた。弥生ちゃんは相変わらずの無表情ではあるけれど、絶対に俺のことを気持ち悪いと思ったはずだ。
「こんなところでいつまでも立ち止まっているわけにはいきません。行きましょう、先輩」
「……はい」
促されて、歩みを再開する。ただ先程までと違い、足取りは酷く重いものだった。
ストーカー対策のためということもあってか、弥生ちゃんは別れるまで繋いだ手が離されることはなかったが、まず間違いなく嫌われただろう。
俺のことを怖がらず接してくれる数少ない人だけに、嫌われるのはちょっと悲しかった。