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キツネ憑き

作者: 絵馬燈星

「ここはどこだ?」

 僕の目の前にあったのは見知らぬ天井だった。体を起こしてみる。見知らぬ部屋だった。

 しかしその見知らぬ部屋にあったのは僕の机だった。

 知らない部屋の中に、僕の机。不思議な光景だった。

 そしてよく見れば、見知らぬ部屋のあちこちに僕の私物があったかと思えば、まったく知らない服などもかけてあった。わけがわからない。

「よう! 起きたか!」

 突然、やや低めの女の声がして僕は驚いた。そしてさっきまで誰もいなかったはずの部屋に、椅子の前後を逆にして、背もたれの上で腕を組むようにしながら、女が座っていた。白いワンピースの女。スリムで美しいけれど、ニヤッと笑った目は細くて、まるでキツネのようだった。

「ここはどこ?」

「さあ、俺も知らねぇな」

 僕の質問に女はそう答えた。その女の清楚な姿と裏腹に「俺」といった粗野な言葉遣いが印象的だった。高校のクラスメートに自分を「僕」という呼ぶ女子はいるけれど、自分を「俺」と呼ぶ女は初めてだった。

 とにかくわけがわからない。ひとまずこの見知らぬ部屋の窓を開けてみる。見知らぬ風景が広がっていた。

「おい、ここはどこなんだよ!? おまえは誰なんだよ!?」

「それくらい自分で調べてみろっていうの」

 女は細い目のままニヤニヤと笑い、僕の質問に答えてくれなかった。ちくしょーと思いながら部屋を見渡す。充電シートの上に僕のスマホが置いてあった。そしてそこには...来年の9月の日付が表示されていた。


 僕は高校3年生、8月の夏休みに受験生として塾通いをしている...はずだった。でもここはそれからさらに1年+1ヶ月後の未来...なのか!? そんなバカな! 何か足元が崩れそうな気がした。スマホの連絡先を見る。そこには家族や友達以外に、知らない人の名前まで書かれていた。なんだ、これは!? 僕はひとまず母に電話してみた。つながるのか? という不安をあっさり途切るように、電話がつながった。

「もしもし、母さん?」

「あら、健人、どうしたの?」

 ちゃんと母さんの声だ。そして僕は九ノ宮健人、クノミヤケント、それは間違いない。だけど今、母さんに何を話せばいいんだ?

「え、えぇと...」

「ちょっと、どうかしたの? 大学で何かあったの?」

 大学?? 大学ってどういうこと?? 僕は焦ったあげく

「あ、いや、なんでもないから。ちょっと母さんの声を聞きたくて」

 と答えてしまった。

「まったくどうしたの。ちゃんと食べてる? 夏休みにろくに家に帰ってこないと思ったら、突然電話なんかしてきて。一人暮らしが寂しくなったの?」

 と母さんは訊いてきた。夏休み... いや、そもそも「今」が夏休み中なんじゃないのか? 毎日自宅から塾通いで外泊なんてしていない。それなのに一人暮らしってどういうことだ? だめだ、わからない。母さんになんて答えたらいい?

「あ、大丈夫だよ、ひとまず電話切るから」

 うまく答えることができず、わからないまま僕はそう話すしかなかった。

「突然電話してきたかと思ったらなんなの? とにかく一人暮らし、頑張ってね」

「あ、あぁ。じゃあ、また」

 そう言って僕は電話を切った。僕は大学生?? いや、だって僕は高校3年生で夏休みに塾通いをしていて...していて...そこから先は思い出せない。

「ふーん、健人って名前なのか、どうやらおまえは大学生みたいだな」

 ニヤニヤしながら女が僕に言った。

「というか、おまえこそ何者なんだよ。名前はなんて言うんだ!? というかなぜおまえはここに一緒にいるんだよ!?」

 僕は叫んでしまった。

「俺はね、健人が俺に『助けてくれ』って、すがりついてきたから、一緒について来ただけだよ。さて俺の名前は何だろうね? 健人が勝手に名前をつけてくれたらいいよ。俺はその名前にするから」

 僕がこの女に助けを求めてすがりついた? どういうことだ? それに名前も言わないなんてどういう奴だ、と腹が立ったが、だったらおまえに名前をつけてやるとも思った。キツネみたいな目をしている女だからキツネコ、狐子、いや言いにくいか。そういえば狐という漢字は「コ」と読むんだっけ。だったら...

「だったらおまえの名前は『ココ』だ」

 そういう僕の言葉に女はにっこりと、またキツネのような細い目で笑った。

「ステキな名前をありがとう。気に入ったよ。じゃあ俺のことはココって呼んでよ」


 わけのわからない女、そしてわけのわからない場所、と思ったところで、僕はスマホの地図アプリで今の場所がわかるのではないかと思った。地図アプリを立ち上げて示された位置、それはちょうど自分が志望している大学のすぐ近所だった。

 またこの部屋を見渡してみる。本棚は自分が持っている本もある一方で、高校の教科書や受験関係の本はない。代わりに大学の教科書なのだろうか、今まで見たことのない難しそうな本が並んでいた。

 さらに机を調べてみる。僕の志望校と学科の名前が入った履修予定表とやらが置いてあった。

「なあ、これどう見ても大学生の部屋だよな」

 と女が、僕が「ココ」と名付けた女が、そう言った。否定できない、でも、でも...

「でも僕には大学を受験したという記憶、そして受験して合格したという記憶がないんだ」

「ということは健人は記憶を失ったんじゃね、記憶喪失というやつじゃね」

 ココにそう言われて、そうなのかと思った。そう考えれば辻褄が合う。

 改めて自分のいる場所を見渡した。いかにも大学生が住みそうな狭いアパートらしき部屋。

 やはり自分は一年以上の記憶を失ったのかもしれない。


 洗面所の鏡で見た自分の顔はひどくやつれていて驚いた。でも自分の顔であることには間違いない。そしてそこで初めて自分の喉が渇いていたことや、お腹が空いていたことに気づいた。すぐに洗面所で水を飲み、喉の渇きはなくなったが、空腹は収まらなかった。何か食べないと。

 部屋をいろいろ見ていたら、見たことのないバッグの中から僕の財布が出てきた。さらにバッグの中からは見たことのない鍵束が出てきた。この部屋の鍵なのだろうか。ひとまずスマホと財布と鍵を持ってドアを開ける。見たことのない風景。すぐ向こうに見知らぬファミレスが見える。そして僕の手に持った鍵はドアの鍵穴にすっと入り、きちんと鍵をかけることができた。部屋の番号を確認してから、階段を降りてみる。

「おいおい、どこに行くんだよ?」

 ついてきたココが僕に声をかける。

「いや、周囲が知りたくて...というか、あそこのファミレスに入るよ。お腹が空いているんだ」

「おう、じゃあ俺もついていくわ」

 なぜかココはファミレスにまで俺についてきた。


「いらっしゃいませ。お一人様、ご案内です」

 お一人様、という言葉に思わず後ろのココを振り返るが、ココはちゃんとついてきていた。そして用意されたテーブルを挟んで真向かいにココは座った。

「おまえ、なんでついて来るんだよ」

「え、面白そうじゃない、記憶喪失の奴なんてそうそう見る機会がないしな」

「僕はおまえについてこいなんて言ってないぞ」

「いや、そんなこと言わなくても健人には俺が必要ということがわかるね。だいたい健人の方から『助けてくれ』って俺にすがりついてきたんだからな」

「そんな記憶はない」

「だから健人は記憶喪失になったんだって」

 そこまで会話をしていて、ウェイトレスが怪訝そうな目で僕たちを見ていることに気がついた。あ、何か注文しないと。

「すみません。このハンバーグ定食で」

「俺はフルーツパフェね」

 ウェイトレスがさらに険しい顔をしている。ココみたいな女性が「俺」なんて言葉を使ったせいだろうか。

「は? はい、ハンバーグ定食おひとつと、フルーツパフェおひとつですね」

 ウェイトレスが去ってから、僕は小声で話した。

「おまえ、金を持っているのか?」

「え、金って何?」

 とココはヘラヘラと笑った。こいつ僕にたかる気だな。

「まあいい。そんなことより、僕がおまえにすがりついたって?」

「ああ、そうだぜ。健人は『助けてくれ』と言いながら俺にすがりついてきた。そして俺は健人について行ってあの部屋まで来た。それだけなんだ」

「じゃあ、ココは普段何をしている人間なんだ?」

「さあな。それにそんな俺のことより、健人は自分のことを心配した方がいいんじゃないか。記憶が消えてしまったんだろ」

 はぐらかされた気もしたが、そう言われて、改めてスマホの日付を見る。僕は今が8月のつもりでいた。しかしスマホが示しているのは、そこから1年+1ヶ月経った来年9月だ。どう考えても、自分が一年以上の記憶を失っていることは間違いないようだった。

 さらにスマホの中のSNSに未読があることがわかり開けてみた。

「どうして講義に来ないんだ? 何かあったのか? 単位大丈夫か?」

 という知らない名前からのメッセージがあった。こいつは僕の友達なんだろうか?

 さらに別のスレッドに行ってみる。「さっちゃん」って、こいつも誰だ?

「お願い、話を聞いて。一度話がしたいの」

 なんだ、このメッセージは? さらにその上を辿ると、

「健人、大好き! 愛している!!」

「僕はさっちゃんをずっと大事にするから。僕も愛しているよ!」

 というメッセージなどが出てきた。なんだ、これは!? つまりこの【さっちゃん】というのは僕と恋愛関係にあるらしい。さらにそのスレッドを上に辿ると、知らない少女が僕と二人で写っている写真が何枚も出てきた。見たことのないかわいらしい少女だ。

「ふーん、この子がさっちゃんなんだ。健人の彼女なんだね」

「おい、見るなよ」

「かわいいじゃん、すてきじゃん、へー、健人ってこんな女の子が好みなんだ」

 とココは言ってきた。言われてみれば確かに自分好みというか、かわいい顔をしている。でも、この少女が自分の彼女?

「それで、このさっちゃんという女の子に連絡を取ってみるのかい?」

 ココにそう訊かれた。確かにこの少女も気になる。でも何を話せばよいのだろう? 母さんに対してすら話すのに困ったのに、知らない少女と話せる気がしない。それに僕はそのこと以上にその前の「単位大丈夫か?」という言葉の方が気になっていた。確か大学というところでは単位というやつが大事なはずで、それが足らないと留年になるはずだ。自分に何が起こり、なぜ記憶喪失になったのかわからないが、どうやら僕は志望大学に合格できたようだ。しかしせっかく合格したのに、そこで留年や退学をしてしまったのでは元も子もないのじゃないか。

「いや、それより先に大学の方が気になる。そっちを調べないと」

「へー、健人って意外に冷静で真面目なんだ」

 いや、冷静とかそういう問題じゃなくて、僕にはそれ以外に良い方法が思いつかないだけだ。

 いつの間にか目の前に置かれていたハンバーグ定食を僕は食べ、ココはフルーツパフェを美味しそうに食べていた。

 そして結局、そのフルーツパフェの代金まで僕は支払わされた。会計のお姉さんが、どこか不気味なものを見るような目で僕たちを見つめていたのが少し気になったが。


 それから再び部屋に戻り、履修予定表と今日の日付をチェックしてから、スマホの地図を頼りに大学に行ってみることにした。しかし大学の敷地内に入ると、今度はどこに何があるのかよくわからない。

「健人も頑張るねぇ」

「おまえこそ、なぜ大学の中までついてくるんだ? おまえ、この大学の学生なのか? どこに住んでいるんだ?」

「さあね」

 相変わらずココは僕の肝心な質問をはぐらかす。ただそれでもココと、あっちじゃないか、こっちじゃないかと言い合いつつ、道行く学生に建物の位置を尋ねながら、履修予定表に書いてあった教室にたどり着いた。

 教室に入ると、知らない男が僕の顔に驚いたようで、近づいて話しかけてきた。

「おい、九ノ宮。一週間も何をやっていたんだよ?」

 こいつ誰だ? というか一週間も僕はこの大学の講義に来ていなかったということか。

「メッセージも既読がつかなかったし、電話してもおまえは『あー』とか言うばかりで、ろくに返事もしなかったし」

 僕はそんな状態だったのか。

「さっちゃんに訊いても、どこか言いづらそうな感じだったしな。講義にもサークルにも来ないし、何やってたの?」

 サークル? 僕はそんなものにも入っていたのか? あと【さっちゃん】って確かSNSに出てきた、僕の恋人らしい少女の名前だ。

「まあサークルはともかく、講義だけはサボるなよ。単位大丈夫なのか?」

 どうもこいつが「単位大丈夫か?」というメッセージをくれた奴なのかと想像ができた。どう答えようかと悩んでいるうちに、

「おーい、そこ、席について」

 という声が聞こえた。教壇に先生だと思われる人が立っていた。そして僕にメッセージをくれた奴らしい男は元いた席に戻って行った。

 僕は適当な場所に座り、先生は出席を取り出した。名前を呼ばれるのは、あいうえお順になっていて、そして

「九ノ宮健人」

「はい」

 僕の名前が呼ばれた。やはり僕はこの大学の学生で間違いないわけか。

「良かったねぇ。健人ってやっぱりここの学生じゃん」

「良かったような、悪かったような」

 僕はそう思った。確かに自分が大学生であり、そして記憶喪失を起こしたらしいという状況がはっきりしてきた。とはいえ、この状況をどうすればいいのだろう? 不安だ。そして、その不安は講義を聞いていて、さらに膨らんだ。講義の内容が全然わからない、意味がわからない。きっと今年の4月から習った講義内容がすべて頭の中から消し飛んでいるからに違いない。

「早急に過去のノートを発掘して勉強しないとまずい。あと、この大学の施設の位置関係とか、大学の仕組みとかなるべく早めに把握しておかないと」

「へぇ、こんな状況だとパニックになってもおかしくないのに、健人ってやっぱり冷静で真面目じゃん」

「おい、そこ、何を一人でブツブツ言っている」

 先生に怒られた。ふと横を見たらココはさっさと机の下に潜って隠れている。ちぇっ、ココのせいで僕一人が怒られたのか。それはともかく、この講義が終わったら大学施設の位置把握を行い、そして、その後はあの部屋に帰って、過去の講義の復習や、履修予定の再確認をしなければ。

 だから講義が終わるなり僕はすぐに教室を出た。講義前に僕に声をかけた男が、また「おい、九ノ宮!」と声をかけてくれたようだが、それも無視して外に出た。


 大学の敷地をココと二人であちこちをさまよい、そして今いるのはどうも「サークル棟」という一帯らしかった。

 そこを歩いている時... 男女が言い合いをするような声が聞こえた。

「どうしてくれるんですか! 先輩があの時あんなことをするから!」

「さっちゃんだって、自分からノリノリで誘ってきたじゃないか!」

【さっちゃん】という言葉が引っかかり、僕はふと声がする方を見た。少女と男がいる。そして少女の顔、それは確かに写真で見た少女の顔だった。

 彼らの目が、僕へと向いた。その瞬間、少女と男は二人とも息をのみ、僕を見つめたまま固まっていた。二人とも顔が青ざめていた。なんだろう? 僕の顔を見て、どうしてこの二人はこんな反応をするのだろう?

 二人は目を下に向け、それから重い沈黙の時間が続く。本当にこれはいったい何だ? わけがわからない僕にはどうすることもできない。

 そして長い沈黙の後、少女が口を開いた。

「健人... あの... あの... 本当に健人のことを愛していたの... でも... 健人以上に先輩のこと... 好きになって...」

 なんとなく自分の身に降りかかったことが、わかるような、わかりたくないような、そんな気がした。でもだからといって、それを覚えていない自分には何ができるのだろう? 今、僕は何を言えばいいのだろう? わからない。わからないから、僕は無言のまま後ろを向いて、元来た道を引き返した。そして少し歩いたところで

「先輩、怖かったよー」

 そんな少女の声が後ろから小さく聞こえた。


「つまりさ、健人って失恋のショックで記憶喪失になったんじゃね」

 部屋に戻ってから、ココは僕に向かってそう話を切り出した。

「きっとそうなんだろうけどさ、それにしてもね...」

 と僕は思う。失恋のショックで一年以上の記憶を失ってしまうほど、そして講義を一週間も休んでしまうほど、僕と言う人間は弱い人間だったのだろうか。そう考えると嫌気がさしてくる。自分の弱さに呆れてくる。あの【さっちゃん】という少女を僕はどれだけ愛していたのだろうか? 今の僕にはわからない。わからないけれど、自分が弱すぎると思った。

「いや、健人のスマホの中にある、さっちゃんとのメッセージを読めば、二人がどれくらい愛し合っていたかわかるんじゃね?」

 ココはそうも言ってくれた。確かにそうだろう。でもだ。

「でもココ、今さら読み返してどうするんだよ? さらに虚しさが増えるだけだと思うぞ」

「そりゃそうだな、確かに今さらだな」

 とココは賛同してくれた。

「それなら俺が健人をなぐさめてやってもいいぞ」

 ココは自分のスカートの裾をちょこんとつまみあげながら僕にウインクした。僕はそれに少しドキッとしながらも、

「おまえ何考えているんだよ!」

 と言い返した。

「まあ、いいから、いいから。失恋して寂しい健人君、お姉さんが添い寝してあげるぞ」

 そう言ってココは、キツネのような細い目で笑った。

 結局、ココは夜に僕の横で寝てくれた。何かフサフサの毛皮に包まれたような、そんな暖かい気持ちを感じながら、僕は眠りについた。


 それから約1ヶ月間、僕たちは忙しかった。大学に入学したばかりの4月の新入生はきっとこんな感じなのだろう。この街のどこにスーパーマーケットがあるのか、アパートのゴミ出し日は何曜日なのか、この大学の履修システムはどうなっているのか、細かいところまで全部僕とココの二人で調べなければいけなかった。同じ大学の学生に尋ねて「なんだこいつらは」という不思議そうな顔をされることも少なくなかった。そりゃそうだろう。4月ならともかく、9月や10月になってもこんなことをやっている学生がいたら確かに変だ。さらには知り合いだったらしい学生たちと内容が噛み合わないような話もした。知ったかぶりをしながら何とか話を合わせたが、やはり変だと思われたろう。でも僕が記憶喪失ということは、もう他の誰にも知られたくなかった。だからいくら周囲から変に思われたとしても、そうするしかなかった。

 そしてココはいつも僕についてきてくれた。

「おーい、健人、一緒に行こうか」

 細い目で笑いながらそう言ってくれるココに、僕はどこか自分の気持ちが安らいでいるのを感じていた。一人暮らしでのまったく新しい生活と勉強、記憶喪失、そして僕が【さっちゃん】という少女に失恋したらしいこと、そんな気が滅入りそうな状況の中で、ココはいつも僕と一緒にいてくれる。寝る時でも僕の横にいてくれる。そのことが僕にとっては救いだった。


 そして、やっと生活も勉強も要領がわかってきて落ち着き始めた10月下旬の夜、僕のスマホの電話が鳴った。スマホの画面には「さっちゃん」と表示されていた。

「もしもし、健人?」

 あぁ、確かこの声はあの時聞いた...

「さっちゃん?」

「うん、もう一度、健人と話がしたくて。ねえ、これからでもいい? 二人でよく行ったあの健人のアパートの近くのファミレスで」

「これから?」

「うん、大事な話があるの。どうしてもお願い!」

「あ、あぁ」

「じゃあファミレスの前で待っているから」

 なんとなく押し切られてしまい電話が切れた。

 あの【さっちゃん】という少女は何を今頃になって話したいというのだろう。よくわからない。

「おいおい、何かおもしろそうな話じゃないか。健人、俺も一緒に行くぜ」

 そうココが話しかけてきた。

「どうせココは僕が嫌と言ってもついてくるじゃないか。いいよ、一緒に来ても」


 そして僕たちが向かうと、ファミレスの前にもう【さっちゃん】は立って待っていた。少し緊張したような、引きつったような、けれどそれでも笑顔を浮かべながら、

「健人、まず入ってから話をしようよ」

【さっちゃん】はそう言い、僕たちはファミレスに入った。

「いらっしゃいませ、お二人様、ご案内です」

 ウェイトレスの「お二人様」という言葉に僕は後ろを振り向いたが、ココはちゃんと一緒についてきていた。

「私、コーヒーで」

「僕もコーヒー」

「じゃあ、俺はフルーツパフェ」

 最後にココがフルーツパフェを頼んだ時、【さっちゃん】は驚いたように僕を見て、そして口を開いた。

「健人がフルーツパフェを食べるの?」

「僕じゃないよ、こいつだよ」

 と、僕は隣に座ったココを指さした。【さっちゃん】はさらに変な驚いたような顔をした後、

「まあいいわ。健人に聞いてもらいたい話があるの」

 と言った。ふーん、ココが同席するのはかまわないのか、と僕は思ったが、ひとまず今はこの【さっちゃん】の話を聞くことにした。

「あのね、あれから先輩とつきあっていたんだけれど... 先輩って他の女の子にも手を出していて... 結局、先輩にとって私なんてただの遊び相手にすぎなかったんだってわかったの」

 先輩って、あぁ、あの時この少女と一緒にいた奴のことか。

「だから... だから... もう一度、健人とやり直したいって思っている」

【さっちゃん】は強い気持ちを込めてそう言ったようだった。「ようだった」と表現したのは、その気持ちが僕には全然響いてこなかったからだ。

「やり直したい」も何も、自分にはこの少女についての記憶がない。だから何の感慨もわいてこない。もし僕が記憶を失っていなかったら、僕は何と答えるのだろうか? 何を感じるのだろうか? 怒るのだろうか? 喜ぶのだろうか?

 コーヒーはすぐに来た。僕は無言のまま、そのコーヒーを飲みながら考える。そんな僕に対して【さっちゃん】はさらに言葉を重ねてくる。

「お願い! あの時、あれ...あれを見て...健人がショックを受けたのはわかっている! でも、それでも健人とやり直したいの!」

 僕はいったい何を見たのだろう? いや、もうそんなことはどうでもいい。記憶がない自分は生まれ変わったようなものなのかもしれない。だったら「今の僕」がこの少女とつきあいたいかどうかこそが問題なんじゃないか。本当に重要なポイントはそこなんじゃないか。僕は改めて【さっちゃん】を見つめる。確かにこの少女は僕にとってかわいらしい魅力的な少女に見える。だけどだ、

「ごめん、そう言ってくれるのはうれしいよ。でも僕にはもうつきあっている女性がいるんだ」

 本当は別にうれしくも何ともないのだけれど、「うれしい」と付け加えた方が【さっちゃん】からの申し出を穏便に断りやすいだろうと思った。ふと隣を見ると、ココは僕の方を見て目を細めてニヤニヤと笑っている。あー、これって僕がココと恋人関係だと宣言したようなものだ。まったく後でココからひやかされそうだ。

【さっちゃん】は血相を変えて僕の目を見る。

「つきあっているって、誰と!?」

「ほら、僕の隣にいるこの女性とだよ。というか、まだ挨拶していなかったよね、ココ」

「健人君とおつきあいしているココと申します。よろしく」

【さっちゃん】は驚いたような目で僕を見つめ、口を開く。

「健人の頭がおかしくなったって... 一人二役をしながら一人でしゃべり続けているって、あの噂、本当だったんだ...」

 一人二役? なんだそれは? それにしても僕の頭がおかしくなったという噂が広まっているのか。まあ仕方がないか。実際に記憶喪失になり、そしてこの時期に基本的なことを訊いて回ったり、噛み合わないような話をしていれば、そんな噂が広まるのも仕方がないことなのかもしれない。

「ねえ、健人、しっかりして! 頭がおかしいフリをしているだけなんでしょう!? 私を困らせたいだけなんでしょ!?」

 うーん、なんと答えればいいんだ。仕方ない。言いたくないけれど、本当のことを言うしかないのか。

「すまないけどね、僕には君とつきあっていた記憶が消えてしまったみたいなんだ。どうも話を聞く限り僕は君にフラれたらしい。でもね、僕の頭の中からは、君にフラれた時の記憶すらも消えてしまっている。だから頭がおかしく見えるのはそのせいなんだ。そんな状態だからね、正直なところ君のことがわからないんだよ。そしてもう君も僕のことを気にしなくてもいいんだよ」

 そんな僕の言葉にココがさらに追い討ちをかける。

「だそうだぜ。さ、嬢ちゃん、さっさとあきらめて帰りな」

【さっちゃん】の顔は呆然としていた。

「嘘、嘘、でもそれだったら、やっぱり私とつきあって! 私が健人を治してみせるから! 元の健人に戻してみせるから! ねえ、正気に戻ってよ、健人! また二人で一緒に幸せになろう! ねえ、健人、お願い!」

 そう【さっちゃん】が言った時、突然ココが立ち上がり叫んだ。

「てめぇなぁ、いい加減にしろよ! 健人がこうなったのは、そもそもてめぇのせいじゃねえか! それだけのことをしておいて、今さらやり直したいだと! 治してみせるだと! 何を言ってやがる! てめぇ、バカじゃねぇか!」

「おい、ココ、座れって! それに、声が大きいって!」

 僕は立っているココを引っ張って座らせた。確かにココの言っていることは正論だろう。そしてたぶんそれは自分の心の片隅にあるものを代弁してくれたようにも思える。でも穏便に今の状況を収めたいのにそんなことを言ったら...あぁ、やっぱり【さっちゃん】が泣き出した。

「ごめん...ごめんなさい...ごめん...私が健人をこんなふうに...ごめんなさい...」

 ウェイトレスも周囲の客も何事かとこちらを見つめている。やばい。

「さ、さっちゃん、もう外に出よう」

 僕は【さっちゃん】の腕をつかんでこの店から出ようとするが、彼女はその腕を振り払って泣きじゃくり続ける。どう言っても、泣くのをやめそうにない。あぁ、こりゃだめだ。もうこうなったら...逃げるしかない。

 薄情な話だが、僕は【さっちゃん】を置き去りにしたまま伝票をつかんで立ち上がった。そして会計で三人分のお金を払う。会計のお姉さんは何か恐ろしいものを見ているような目で僕を見ている。いたたまれない。

 そして僕はココの腕を引っ張って駆け出した。


「ひどいめに遭った」

 自分の部屋にやっと戻った僕が最初に発した言葉がそれだった。ぐったりと疲れた気がした。確かに僕が記憶を失ったのは、あの【さっちゃん】という少女のせいなのかもしれない。しかしだからといって、あの少女を泣かせてしまったのは何とも後味が悪かった。

「はは、確かにとんでもなかったね」

 ココは笑いながらそう言った。その笑顔に僕はちょっとむっとした。

「あのなぁ、そもそも僕は穏やかにあの場を収めようと思っていたんだよ。それなのにあんなことになったのはココのせいだろ!」

 そう僕が言っても、ココは微笑みながら言葉を返す。

「でもさ、健人は忘れているだろうけれど、俺は覚えているんだぜ。健人が『死なせてくれ、助けてくれ』と呻きながら俺にすがってきた日のことを。それなのにあいつは謝りもせずに『やり直したい』とか言ってきただろ。そりゃ俺だって腹が立つわ」

 うわー、僕は失恋で「死なせてくれ」とか言っていたんだ。恥ずかしい。

「それに健人はあいつとつきあわないって決めたんだろ。だったらどんな言い方をしたってあいつは泣き出したさ」

 ココに丸め込まれたような気がしたが、そう言われればそういう気がしないでもない。というか、そう考えることにしよう。そうでも考えないとますます気分が滅入ってくるような気がした。

「そんなことよりさ、健人。あのとき俺に愛の告白をしただろ。あれはうれしかったぜ!」

 あぁ、やっぱりそこをひやかしてきたか。まあ、いいか。僕はこいつとこれからもずっと一緒にいたい。その気持ちに嘘はないのだから。もうこうなったら開き直るしかない。

「あぁ、そうだよ、ココ。僕はおまえが好きだ。ずっと一緒にいたい。いや、ずっと一緒にいて欲しい。お願いします」

 そんな僕の言葉にココは少し驚いたようだった。

「え、急にそんなこと言われると、ちょっと照れるな。俺も健人のこと、好きだから」

 珍しい、ココが照れている。

「ココ、僕はおまえに救われたよ。失恋で記憶喪失まで起こした僕を助けてくれたのはココだ。だからココをずっと大事にする。一緒にいてくれ」

 ますますココは照れたようだった。

「そんなこと言わなくてもさ、俺も健人とずっと一緒にいるよ」

 ココはそう言ってキツネのように目を細めながら微笑んだ。それはすてきな微笑みだった。

 僕はあの少女のせいで記憶を失ったのかもしれない。でもそのおかげでココと出会えたなら、それはそれで良かったのかもしれない。

 これからも僕とココはずっと一緒だ。これから先の人生、また何が起こるかわからない。でもココと一緒なら何があっても乗り切ることができる、そんな気がした。


 そしてその日の夜も、ココは僕の横で寝てくれた。何かフサフサの毛皮に包まれたような、そんな暖かい気持ち。その暖かさを感じながら、僕は安心して眠りについた。


(Fin)


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