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09  作者: 千羽稲穂
2/2

キュー(後半)

ー09ー



「キュー、そろそろ、その死体捨てないと」


 かゆみが晴れた、次の日。僕は医務室で男の死体を眺めていた。右足の断面はぐずぐずにただれて蛆が這っている。ところどころ傷ついた皮膚は包帯を巻いていた。ミヤハを抱えていた腕にミヤハの服と死体の肌がくっついている。

 生臭い香りが鼻につく。薬品の匂いや副作用に苦しむ子どものうめき声を跳ね除けてこの死体の存在感を際立たせる。今はどの声より、匂いより、この死体を見ていると安らぐ。


「ね、聞いてる?」


 死体の右手が上がる。関節が硬くぎこちない動きをしている。人も油を差さないと動きが悪くなるらしい。

 右手を下げさせて今度は上半身を起き上がらせる。瞼を開けさせる。


 まるでまだ生きているようだ。今にもその口から、こいつは私の友人だよ、子供は無邪気でいいな、と言いそうだ。黄色く膨れた肌は、生きていたころとは全く違っていたが、こっちのほうが僕は不思議と心安らかにして見ていられる。


 死んでいることを、肌で感じる。

 能力で感じる。

 大人を、死を、僕は操っている。


「キュー」と、僕は頭に本を当てられる。


 見上げると、眼鏡をかけた理知的な女性が立っていた。図書室に居座っている、よく見る職員だ。


 僕がよくいる場所は、この大人がいる図書室と、医務室だけ。必然的に医務室の衛生兵や司書といった大人と顔見知りになる。

 特にこの司書は医務室の衛生兵と違って僕に関わってこようとする。何読んでいるの? 暇なら、手伝ってほしいことがあるんだけど、と言った風に手駒にするのだ。僕とほぼ同じ年齢だからって馴れ馴れしい。僕はひとりでいいのに。


「こっちを向いて、よく聞いて」


 司書は本を小脇に抱え、僕の頬に両手を添えた。眼鏡の奥にある薄茶色の瞳を見つめると吸い込まれそうだった。下半身がむずむずとうずく。心が落ち着かない。


「死体を捨てなさい」

「別にいいじゃないか」


 僕は言葉も紡ぎたくなかった。


「執着しないで」


 執着しているつもりはない。ここにあるだけで安らぐだけだ。安心して次の戦場に行けるのだ。

 この男に何の感情も抱いていない。これまでの仲間と同じように操れている。落ち着いているはずだ。

 僕がこいつを連れてきたのは、こいつがいるだけで、僕は考えることができるからだ。その考えが思考停止を和らげて、僕があの時撃てなかった理由を問いただしてくれる。そしてこいつに恐れをなしていないことを実感させてくれる。


「キュー、考えないで」


 冷たい手が頬をより強く抑える。女性の匂いが強く香る。髪がしだれがかる。影になった司書の顔に既視感を覚える。


「考えなかったら分かるの?」


 思ったよりも子ども染みた声が僕の口から零れ落ちる。変声期も訪れてないんだ。


「考えなかったら、この死体を持ってきた本当の理由がわかるの? 僕だって分からないんだ。

 この男は言った。『子供は、無邪気でいいな』と。まるで子どもでいることが悪いことみたいだ。

 みんな僕にいうんだよ。子どもだから心を持っていないって。子どもだから分からない? 子どもだから考えられないの? 答えが分からないの?」


 体が圧迫される。能力の制御が難しくなる。死体が訳もなく立ち上がり首を一回転させた。右腕と左腕が渦のように巻かれる。骨が幾本も折れる音がした。いきなり立たせたために、左足で体を支えることが出来ずにふらつき僕にのしかかる。司書は僕の頬から手を離し、死体を優しく支えた。


 僕はその隙をついて身をひるがえし、医務室から外へでた。


 体が先ほどからむずがゆい。副作用が発症しかけているのがわかる。それもあるが、また違ったむずがゆさもあった。体の内部からむくむくと植物が成長するかのように、噴き出しそうに、むずがゆい。


 いつもと少しだけ司書の見た目が違ったり、死体を持ち帰ったり、次の戦場がこなければいいのに、と思ったりもしていた。嫌な反発心だとは分かっている。これがあるだけで、僕は考えてしまう。


「あなたは、もう何十年も子どものままなの。もしこれで大人に急激になったら」


 背後からそんな呟きが聞こえた気がした。



 ー09ー



 一番上の棚の本は分厚すぎて、一体誰がこんなもの読むのだろうと、いつも見上げていた。


 僕達子どもはこんな棚に背が届かないし、本を読んだところで読み終わる前に死んでしまう可能性だってある。分厚い本を読んで、続きが気になるままに戦死なんてしたら、死んでも死にきれないのではないか。


 そんな本に興味を持つなんてしてはいけないことだろう。見上げてそれで終わりだ。


「あの本?」

 と、大人の男は一番上の本を軽々しくとって、僕に見せた。きらりと輝く勲章が目をかすめる。


 手に取った本は紅色が腐ったような表紙の色をしていた。分厚い紙の表紙を開き上げ、白いベールのごとく本紙が風によって巻き上がる。優雅な空気が僕達の間を流れる。図書室の窓が開いていた。その傍にいた司書が窓を閉める。男のこげ茶色の髪が静かに着地する。


「こんなの読んでんの」


 そいつは僕に向けて口元に小さく笑みを含ませた。すると、いつも話しかけてくる女の司書がどこからともなく現れて、そいつの頭をこづいた。その手には表紙がかすれ黄ばんでいる文庫本。どうやらそれでこづいたらしい。


「あなたはそういつもいつも」と司書が睨みを利かせた。それは蛇の目の細さと似ている。その蛇は口を開き牙を見せる、としたところで、


「キュー、それがお前の番号だな」


「はい」上官だ。敬礼を。

「いい、おろせ」


 僕はしぶしぶ手を下ろした。以前に行った教習では何が何でも上のものには逆らうなと言われたので、もどかしかった。心の中がそわそわとし、体が動くか動かないかを繰り返す。勲章だけが僕の目にはゆるぎない真実のように思えた。


「ドラッグ集だよ」と男は僕に本の内容を笑い声を添えて指示した。


 ドラッグ、違法薬物のことだ。


 はるか昔僕に投与された薬もそうだった。これを投与すると能力が発露し、時が止まる。夢にまでみた、不老不死の兵士をこの薬で作ることができる。僕達の生きがいを授けてくれた神のような力だ。


 この男に出会ったとき、僕はまだ能力が発露して間もないころだった。だからこそ、僕は恥ずかしかった。この人に見せるものは何もなく、功績も遺せていない。周囲の0番台達はたくさんの武勲を掲げていた。


 ナナは特にそうだろう。ナナがこの人に勲章を上げているところを想像し、錆びのような味が舌をひっかく。


 そこで男が僕の頭に手をのせた。大きい温もりが頭に覆いかぶさった。


「勉強もいいけど、ほどほどにな。ドラックボーイ」


 そして本を僕にわたし、颯爽とさっていった。その後姿は堂々としていた。僕の小さな体や声音とは違う。勲章もあり、少年少女達を僕を気に掛け、綺麗に指揮する。その手玉にとられていることを知らずに僕達は戦場に赴き、死にに行く。


 ナナは、あいつのことが好きだったのかな。


 僕は、大嫌いだ。


 男が見えなくなった後、司書が皮肉な声音で、

「もうこないで」


 それはさきほどまでの親し気な会話からは想起できないものだった。唇を噛みしめて、悔しいのか体を震わせて、余裕のない顔色をにじませる。血の気が引いた肌色は死体の肌と近しい。


「キューは、知らなくていいわ」


 温もりを司書がかき消すように頭を撫でられた。

 その冷たさだけが、孤独だった僕の味方だった。



 ー09ー



 瞼をうっすらと開閉する。眩しい日差しに、青いものが頭上にあるのだけは分かった。どこまでもどこまでも広がっていって果てしない。頭を動かそうにももう脳が機能が低下しており、僕が思った方に動かなかった。


 足が伸びている。どんどん下に。僕の視界から離れて。肉の内側の、その奥にある骨が軋んで痛む。僕の足の裏を突き破りそうになり、それを避けて肌が急速に伸びていた。


 脳が沸騰する。声が高くなったり、低くなったりしている。繰り返す最中、僕が叫んでいることに気づく。


 地面に四つん這いになり突っ伏している。他のグラウンドにいた訓練生が僕に近づいてくる。影が伸びてくる。その中へ引きづりこんでくる。かごめ、かごめ、と周りをかこって蠢いている。


 吐き気が止まらない。肺が大きくなり、これまでの呼吸との容量がずれてくる。そして胸の骨が肺を圧迫する鼓動がうるさい。耳鳴りが鳴り響いている。それに紛れる子どもの声が耳障りだ。


 服が小さく、目が圧迫される。腕が服を切り裂きそうになる。それら全てを押しのけて痛みが全身に伝う。痛みの温床は内部から。内側の熱が放出する。


「9だ」と群れが囁く。遠目から、9、と。僕はミヤハみたいにあだ名がなかったから。キュー、と。名前でなく番号で。


 それが、あの時出会った男の声と重なる。


「ドラックボーイ」


 はるか遠い昔にこの体に投与され、体に入り込み、染み込んだ、僕のドラック。

 それはゆったりと僕達を死に導く。


 僕に注入されたそれは、一時力を与えてくれる。あまりにも大きな力に僕達は万能感に酔いしれる。でもそれはただのせん妄。良い夢の中で踊っているに過ぎない。夢は所詮夢だ。


 大人が、僕達子どもを利用していることなんてうっすらと気付いていた。


 でも、気づかないふりをするんだ。ドラックづけにして、僕達は知らないふりをして。


 そしていつかバットトリップに陥る。良い夢は終わって、はっきりと目の前に横たわる真実にしか目が行かなくなる。心だけは嘘はつかない。その心がある限り、悪夢は必ず訪れる。


 良い夢の中で幸せだけど哀れに戦死するか、悪夢の中で真実に狂い副作用に苦しみながら死んでいくしかないのかもしれない。


 希望になれ、と言った。

 希望なんてどこにある。


 僕は考えてしまった。もしかしたら希望は子どもの中にないのかもしれない。


 これは周りを犠牲にした罰だ。痒みが悪化していたのは必死に子どもにしがみついていたからか。


 それでも、そうとしか生きられなかった。


 僕にはそれしかできなかった。


 僕達は、そうだろう?

 なぁ、7。


 手を伸ばしても誰の影も僕の手を掴まない。影は遠くから僕を見下げて、あざ笑っている。僕の名前を読んでいる。本の背表紙に刻まれた、ただの暗号みたいな僕の名前を。何の感情もなく僕の名前を。


 どこに僕の本当の名前があるのだろうか。聞き分けて探すが、どこにも見つからなかった。影が落っことした記号だけ僕は胸に抱いている。


 ここは凄く暑い。汗が噴き出ている。さっきからいろんな記憶が過っている。あの男の記憶。司書の記憶。戦場での記憶。一体今はどこなのかすら分からない。ともすると、僕はあの時の戦場でもう死んでいて、これは走馬燈なのかもしれない。


 まだ僕はミヤハを抱えた兵士に銃口を向けているのかもしれない。目が見えないんだ。この暗い場所がどこだか分からないくらいに。さっきまでの青が幻想だったのだと悟るぐらいに。此処が分からない。



 ー09ー



「キュー」と司書が僕の頬を両手で挟んだ。「聞いてるの?」


 針を刺したような痛みがあるのを知覚して、手首をうかがう。案の定そこには手錠の痕が残っていた。赤い丸い輪っかの痕が、右腕にも左腕にもくっきりと刻まれている。そこから黄色い汁がとろみを交えて掌の上を滑っている。


 手錠がないと、副作用で僕は全身の皮膚を剥ぐほどにかいてしまう。爪は全て抜け落ち、ずるずるに伸びた皮膚だけしか残らない。


 一番最初の副作用は、皮膚の柔らかい皮膚のありとあらゆるところを引っ掻いて削げ落ちた。髪はなくなり、坊主頭で過ごしたし、皮膚はもったいないからって移植なんかもされず、包帯でまかなわれて皮膚が再生するまでベッドの上でうめいていた。


 あの頃、どんな夢を見ていたんだろうか。僕自身がゾンビみたいな恰好で、ベッドの上にくくりつけられて、どんな夢を見れたんだろう。


 いいや、本当は夢なんか見れなかったんじゃないか。夢はずっと先の僕が成長した姿を見るもんなんだから。あの一番上棚のの本が取れないことを悟るのすら僕は嫌だったじゃないか。


 身長は伸びないし、他のやつに心を開けない。


 いつまで経っても僕は本棚の一番下にいる。読めない本を見上げている。大人を見ない。名前もない。


 小さく幼い兵士の息遣いが聞こえる。僕はその兵士の横のベッドに腰かけていた。横目にその兵士を見ていた。なんでこんな小さなやつが生き残ってしまったんだろうって、心がいっぱいになった。それだけの心の動きで、分かってしまった。前までの僕は、こんなんではなかった。


「ね、ちゃんと聞いて。あなた達に投与された薬はね」


 頬から冷たさが伝播する。そこにいるのがあの理知的な女の司書だと、理解した。司書の顔を見上げると、目の前に大きな瞳があった。こちらをじっと見つめているし、目の端から透明な雫が浮かんでいる。潤んだ瞳が瞼で閉ざされ、一滴頬に流線形が描かれる。


 僕は告げた。


「大人になりたいんだ」


 司書が言葉を失った。


「大人になりたいって思っちゃいけないんだろ。この薬はそういう薬なんだろ。僕はどうなるの? きちんと大人になれるの?」


「それを想えば、願えば、薬を投与された子どもは全員大人になる。でも、それは、急速に大人になるということ。体が急速に大人になるの。てんでバラバラに大人になる。急速に伸びた骨が肺を貫いて死んだ子だっている。子どもの心のまま大人になってちぐはぐな心のままいることに悩み苦しみ自殺した子もいた。

 ここにいる子はみんなそう。戦場で死ぬか、大人になることを願って死ぬしかない。だからせめて、そう願わず、長い間生きてほしかった」


 でも、それは死んでいるのと変わらないではないか。嘘の希望を抱いて、利用されて死んでいくのと同じではないか。本棚を延々と見上げ続けているだけ。


 そうして司書は細々しい声で言った。


「みんな私のところには辿り着けないんだから」


 息をのむ。もう一度司書の顔を見つめる。司書の顔に既視感があったのはそういうことなのかもしれない。


「ナナ? あんたナナだろ」


 大人になれるなら、大人になって生き残っているやつもいるはずだ。司書みたいに。僕達みたいな番号ではなく本当の名前を与えられて、この施設で生き残っているやつもいるかもしれない。


「ごめんね」

 司書が手を離した。冷たさが頬に残っている。


 そうして、司書はするりと僕の隣に座る。隣人の息が弱くなっているのを二人で聞き届けた。そちらを見ることを、僕達は憚った。背を向けて、誰にも聞かれないようにもっとひそやかに僕達は会話を続ける。


「私は、ナナじゃない」


 医務室の冷気で鳥肌がたつ。

 司書はぼろぼろの文庫本を僕に手渡した。大切に表紙をなぞり、ページをめくる。中には名札が挟まっている。


 ――177番


 その裏に、図書室で出会った男と少女の姿が写る写真が添えられていた。ここではない、もっと広く大きな図書館の傍で、集合写真だろうか、二人の少年と、一人の少女が寄り添っている。どの子にも名札はない。一人の少年は足だけ大きかった。もう一人の少年は左腕だけが不自然に伸びている


「ごめんね、ナナじゃなくて」


 背後の息が聞こえない。


「僕は大人になれる?」

「分からないわ。みんな死んだ。大人になって生き残ったのは私だけ。あの人についていくしかできなかった、私だけ」


 これ、内緒だけどね、と司書は人差し指を口元に近づけしーっと息を吐く。蝋燭が吹き消されるように、背後の息が消えていく。


 医務室には気づけば僕と死体だけが残っていた。蛆がわき、皮膚がただれている、右足がない死体と、背後で息絶えた小さな兵士の死体。

 僕の周りには死体しか積みあがらない。


 そこで言うことはたった一つだ。起きろ、戦え。生きていると思いたいから、生きていると思いたいから、死体に執着する。死体を生きていると勘違いしている。


 僕は生に執着しているんだ。

 自分の意思で生きることに執着しているんだ。

 そうやって、生きてほしいし、生きていてほしいんだ。


 そうか、僕は本当はナナのことを悔やんでいたのかもしれないな。憐んでいたのかもしれない。意思の形成すらままならないままにいなくなってしまったことに。


 僕は、ひどく。


 体をまるめて声を押し殺して泣いた。

 それでも、ナナの分まで年を重ねたかった。


 大人になりたかった。



 ー09ー



 施設のグラウンドの青空みたいだった。視界がそんな澄み切った青一色だった。影が過り、一人、また一人と倒れていく。あの青は、本当は戦場の青だったのかもしれない。


 匂いだけが僕に居場所を教えてくれる。医務室みたいな薬臭くもない。図書室みたいなかび臭い匂いもしない。血と肉の塊が泥水に使った焦げた匂いがする。


 ここは戦場だ。


 熱風が頭上を過る。モモがまた当たり散らしている。何回も同じ戦場に立っている気分だった。さっきまで医務室にいた気がした。司書に合って話してた。それより前に死体と遊んでいた。記憶が切れたのは、グラウンドに出てからだ。内側からの熱が耐えられず、うずくまって、倒れた。


 どうしてまた同じ戦場にいるのだか分からない。


 右腕が痛む。足の感覚がない。目が見えない。痛みを通り越して、ゆっくりと静かな鼓動が聞こえる。むくむくと左半身の体が大きくなっている。けれど、その成長もすぐ止まるだろう。体が爆弾に巻き込まれて吹き飛んだんだから、大人なんてなれるはずもない。


 大人になれないってことは、子どものまま死ぬってことだ。


 内側の熱が死に抵抗している。もうやめてくれ、もういい。これ以上、夢を見せないでくれ、と何度も願っても、違うことも願わずに入れない。


 ナナの分まで、僕は大人になりたかったのだと。こみ上げる言葉は分かってる。今まで踏みにじってきた、僕にふさわしくない、恥辱にまみれた言葉だ。



「死にたくない」



 そっと、そこで誰かが僕を抱き上げる気配がした。蛆が湧いている。死後硬直がみられて、歩くスピードが遅い。振動を見るに足が一本しかない。あの男の、死体だ。僕は能力を使った覚えはない。戦場に連れてきた覚えもない。なら、これはどういうことだろう。


 本当にここは戦場だろうか。

 目に覆いかぶさった、瞼が片方だけ動いた。熱せられ痛む目蓋を無理やりこじ開ける。


 やはりあの男の死体は動いていた。

 戦場に落ちている死体を飛び越えて、塹壕に辿り着く。


 男の死体は見上げる。しっかりと僕を抱きしめて、あの時、僕が対面した時と同じように涙を流す。目は干からびているため、真っ黒な穴になっているが、そこから透明な涙がとめどなく流れている。雨のように僕の体に降りかかる。塹壕の上に誰かがいるようだった。


 本棚を見上げるように、僕も見上げてみる。塹壕の上に、子どもが立っていた。僕達を見て、銃口を向けている。引き金に指をかけて、しり込みしていた。


 あれは僕だ。

 塹壕にいたのも僕だ。

 どちらも僕だ。

 結局、僕は僕だからこそ、この男を撃てなかったんだ。

 何も知らない敵の子どもだった。

 僕の死にたくないって意思を知らなかった、そんな子どもだった。


 何も知らなかったあの日に僕は戻れない。


「いいなあ、()()は無邪気で」


 僕の口から零れた言葉と共に、銃声がとどろいた。

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