二重螺旋の恋人あるいは実写版ドグラ・マグラ
久々のフランソワ・オゾン監督の映画。
オゾン監督が久々の新作という意味ではなく、俺が久々に見るという意味で。
前は仕事終わってからちょっと車走らせればすぐ映画館だったけど、転職したら映画館遠くなったもんなあ。
映画はまんこのアップので始まる。
もちボカシかかってるから一瞬なにが起きてるのか分からない。カメラが引いてヒロインのクロエが下半身裸で診察受けているシーンが映しだされて、やっとさっきのボカシはまんこのアップだったんだなとわかる。ネットでいくらでも無修正見れるんだしさあ、いい加減ちんこまんこだからってボカシいれるのやめようぜ。
あ、映画の話な。エロビデオはボカシあった方がかえって趣あってエロいと思う。
クロエ原因不明の腹痛に悩まされ、内科では一向に解決しないので精神性の痛みではとカウンセリングを受け始める。カウンセリングのなかでクロエは精神科医のポールと恋仲になっていくのだけど、オゾン監督ってこんな人でなしだったっけ?
しばらく見ないうちに性格変わったんかな? と思うぐらいスクリーンから受ける印象が冷たくよそよそしい。
その代わり、映画内の時間、カメラが動く早さ、役者の演技の早さ、カットのタイミング全てが見るもの、つまり俺な、俺の体内時間とぴたっと会っていて心地いい。
ほれ、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」でエレベーターが動くシーンがすうっと動いていって気持ちいいじゃん。
映画の前半はそのシーンが全てラストタンゴのエレベーターシーンのようで気持ちいい。
きっときっちり絵コンテ書いて、次はカメラワークをどのスピードで動くのが一番気持ちいいか計算して、役者もどのテンポで歩いてくるのが気持ちいいか何度もやり直して、それができてやっと演技に入って、そうゆう作り方をしただろうことが想像できる。
計算づくで撮ってたから、人でなしでひどく冷たく見えたのな。
納得。
それも後半になるとサスペンス色強くなって崩れるんだけどな。
クロエは恋人のポールの双子であるルイと出会う。顔は同じだけど、ポールが優等生だとするとルイはその反対。ポールにない危ない匂いにクロエは波にさらわれる砂のようにルイとも肌を重ねていく。
タイトルの二重って二股かける不倫ってことと思っていると、さにあらず。
現実を幻想が侵食してどうゆうスタンスで見ていいか次第に怪しくなってくる。
ちゃかぽこちゃかぽこ言わないドグラ・マグラの世界に突入してくる。
へえ、ドグラ・マグラって実写化できたんだ。しかもドグラ・マグラ知らなくても映像にできるんだ、へえ、へえ、ってなもんである。
実はクロエも双子であったが胎児の時に双子の片方を自分の体内に取り込んでしまったことが明らかになる。謎の腹痛の原因が対内の双子だったのな。
ドグラ・マグラが胎児の見る夢なら二重螺旋の恋人は子宮の見る夢なのだ。クロエ自体が対内に双子の片割れを取り込んでいる、つまり永遠に生まれることがない胎児を抱えた子宮なのだ。
現実を侵食してくる幻想は対内の双子が見た幻想であり、どこから幻想だったからと言うとまんこのアップから始まった最初からである。
だって子宮の見る夢だもの。その幻想はまんこから溢れてくるに決まってる。
現実だと思っていたら、それもまた幻想だった。
あれ、これってあれじゃない?
乱歩のうつし世は夢、夜の夢こそまこと、って奴。
現代フランスでなぜか昭和幻想が結実している。
え? なにこの映画、なんで意図した訳でもないのにドグラ・マグラと江戸川乱歩を実写化してるの?
天才なの?
それとも頭おかしいの?
知らなかっただろうからだけどさ。知ってたらかえってできない。
これを人の創造力の限界ととらえるか、コミュニケーションへの可能性ととらえるかは各々好きにして欲しい。
余談だが映画中にクロエがペニスバンドを着けてポールを犯すシーンがある。その時のクロエの尻が実に美しい。ペニスバンドとは男のケツ穴犯すためにあるんじゃない、女の尻を美しく見せるためにあるんだと、認識を新たにした。
ぜひ、見て欲しい。