佐藤多佳子 「明るい夜に出かけて」
主人公の一志くんは三つの顔を持つ大学生だ。
一つは休学中の大学生の顔。
一つはコンビニバイトのフリーターとしての顔。
最後は深夜ラジオのリスナーであり、ハガキ職人としての顔。
そんな一志くんはその三つの顔のどれを軸にして生きていけばいいのか分からない悩みと惑いに満ちた日々を送っている。
そんな時、コンビニバイト中に女子高生の佐古田と出会う。彼女は同じ深夜ラジオのリスナーであり、彼女もまたハガキ職人であったのだ。
よくあるボーイ・ミーツ・ガール物じゃん。
なんかラノベっぽいじゃんって読感だけど、読んでみるとラノベにならないようにうまく処理している。
ライトノベルのなにがライトかと言うと、独断で言ってしまうがライトなのはリアリティである。
ゲームを由来とするゲームオーバーになっても何度でもやり直せる多回性の軽いリアリティを採用しているからこそライトノベルはライトでなのだ。
ほれ昔のライトノベルと言われる前のヤングアダルトだとかジュブナイルの書き手からは一般文芸に越境していった人が結構いたじゃん。
菊地秀行だとか岩井志麻子だとさ夢枕貘だとかさ。
それが可能だったのは両者が同じ一回性のリアリティを採用していたから。
というかテレビゲームが普及するまでは多回性のリアリティなんてものは存在しなかった。
そういうリアリティを夢想した人はいたかも知れないが、広く一般に共有されたりはしなかった。
なので越境は容易だった。
しかし、多回性のリアリティを採用してしまうと途端に越境は難しくなる。
そらそうだ、人間一回死んだら終わりだもの。
多回性に由来する軽いリアリティが受け入れられる訳がない。
佐藤多佳子が巧みなのはラノベっぽい展開や描写を使いながらも、多回性のリアリティを採用せず多重性のリアリティを採用している所だ。
いまどき、素の自分、インスタの自分、ツイッターの自分、それぞれ違う自分だ。つまり一人で複数のリアリティを抱えていることなんて珍しくない。
現実は一回性だけどそのリアリティは多重だよ、に移行している訳だ。
それをよく反映させている。
主人公の一志くんは学生のリアリティ、フリーターのリアリティ、リスナーのリアリティ、さらに言うならそのどれでもない素の自分のリアリティを持っているし、女子高生の佐古田も女子高生でありリスナーであると多重のリアリティだ。
普通の人だと思っていたコンビニバイトの先輩も実はニコ動の歌い手だったりする。
このように多重性のリアリティを徹底して採用して、登場人物がみな己が抱える複数のリアリティの狭間で惑うことによって生々しさと普遍性を与えている。
これがラノベっぽいのにラノベじゃない理由だ。
ベクシンスキーって変な絵ばっか書く画家がいるじゃん。
俺が勝手にベクシンスキー・ブルーって読んでる青があるんだけど、ああいう青って実際に空にあるのよな。
それを見て、ベクシンスキーは幻想に浸ってるんじゃなく、気が狂うほどに現実を観察した果てに幻想に至ったのだと思ったね。
それと同じように小説書くにも気が狂うほどの現実の観察が必要ってことなんだろう。