6.3 俺……幸せだ:野田視点
子ウサギのように軽快に走り去っていく立花さんを俺は引き止めることができなかった。突然のことにあっけにとられたというのが正直なところだ。
伸ばしかけた手は空を切っただけで、所在なく頭にやってわしゃわしゃっとかきむしってみせる。だけどその手はまた自然と顔を覆っていた。
「……ああ。ほんとかわいい」
ずっと前から楽しみにしていた、今日のデート。
楽しみ過ぎて待ち合わせ場所には一時間も早くついてしまっていた。
でも全然退屈じゃなかった。辛くもなかった。立花さんはどんなふうに現れるんだろう、どんな格好をしてくるんだろう、そんなことを想像していたら時間はあっという間に過ぎていた。
ついにやけてしまいそうになる顔を隠すために、手元のスマホを見ているふりをしていたけれど、立花さんと交換したメッセージや写真を見返していたら逆効果だったことは内緒だ。
そして――現れた立花さんは可憐な妖精のごとくだった。
妖精、いや天使か。天女か。なんてたとえればいいんだろう。とにかくかわいい、これに尽きた。そしてあらためて思った。俺、立花さんのことが好きだ――と。
だから会って早々に立花さんが「家に帰る」と言い出してすごく驚いた。またいつもの天然、勘違いだろうなと察してはいたけれど。全力で引き止めはしたものの、その際にけっこう恥ずかしいことを朝から言ってしまった自分に気づいて、正直、俺の方こそ家に帰りたくはなったけれど。
ベンチに腰掛け、あらためて今朝からの幸福な出来事を反芻していく。
とっさに握ってしまった――立花さんの手。
小さくて、しなやかで、ちょっとひんやりとしていて。でもずっと握っていると優しいぬくもりが伝わってきて。
興奮と緊張で俺の方は手汗がひどくなりつつあったから、立花さんの方から手を離してくれてよかったのかもしれない。自分から離すのはきっと無理だった。
まだ汗の残る手をハンカチでぬぐいつつベンチに腰掛ける。
立花さんが心配していた通り、それなりに客数も多くベンチの八割は埋まっている。華奢な立花さんのことを考えればこのタイミングで休憩しておくべきだったのだろう。完全に俺の配慮不足だ。ここまでほとんどしゃべれていないのもよくない。もう入園してから一時間以上経過しているというのに。……これから挽回しなくては。
座ってしばらくすると、緊張と興奮という相反する感情で揺れに揺れまくっていた心が落ちついてきた。ようやく周囲を観察する余裕も出てきた。
今日の客層は家族連れがメインだ。特に幼児連れが多い。いつもこんな感じなのだろう、俺達のような高校生カップルにはいまだ遭遇していない。
今時、初デートに動物園なんて地味なのかもしれない。でもこのほのぼのとした雰囲気は俺と立花さんには似合いだと思う。立花さんも俺も、猫だけではなく動物全般が好きで、だから初デートは動物園にしたのだが大正解だった。
だが誤算があった。
動物よりも隣の立花さんのことが気になって仕方がないのだ。
動物の写真を撮ってほしいと事前に立花さんにねだられていたのに、ここまでまだ一枚も撮っていない体たらくだ。ほんと今日の自分はダメすぎる。
というか……俺としては動物ではなく立花さんの写真を撮りたくてたまらない。
今、俺のスマホの中にある立花さんの写真はハロウィンパーティーの時のものだけだ。しかも隠し撮りめいたものばかりで、どれも立花さん本人に見せられた代物ではない。
いろいろ考えていたが、こうして春休みにしてはあたたかな日差しを受けていたら、ゆるゆると心がほどけていった。
そして思った――俺、幸せだなあと。
あれだけライバルがいたのに、立花さんに告白してもらえた時点ですごくラッキーなことなのだ。
初夏、立花さんは俺のことを好きだと思っていた。だけどいろいろあってよくわからなくなり……しまいにはバレンタインで広田と立花さんがつきあいだしたと勘違いしたり、正直、この恋が実ることはないのだろうとあきらめかけていた。でも、今は――。
「……ふっ」
立花さんのことを考えると自然と頬がゆるむ。
どちらかというと表情筋の硬い俺が家でもふと笑みを浮かべるようになって、最近は家族からも不気味がられている始末だ。
「お待たせっ!」
立花さんの快活な声に、あわてて表情を整える。これ以上幻滅されるわけにはいかない。
だが俺の表情なんて立花さんは見ていなかった。俺が顔を向けたときには立花さんは何もないところでつまづいていたからだ。
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