恋、時を経て生き続ける
朝、目が醒める。
低反発のベッドからゆっくりと上体を起こしてメガネをかける。暖房をつけるとともに、ボキボキと体中から小気味いい音がした。じっとしていると、刺さるような冷たさが足の裏に伝わり、ついついじたばたと足踏みをしてしまう。軋む床の音を聞くとなんとも寂しい気分になるのはいつまでたってもなれないみたいだ。孤独を紛らわすように、僕はわざと大きな音が立つように床を踏みつけながら速歩でキッチンへと向かった。すっかり皿に占拠された洗い場を難なくスルーして、慣れた手つきでマグカップにココアを拵えると、未だに新品と見違える高級ソファに腰を下ろす。暖かい液体が体内に流れる。ほっとして一息をついていると、不意にも物音が一切しないもの寂しい部屋の冷たい本性を意識下に捉えてしまった。秒計の音ですら静寂に飲まれてしまうほどの静けさがあたり一面の空気を圧迫して僕の胸を締め付ける。何も無いからこそ感じる重苦しい気圧。そんな重圧に当てられても未だにうとうとした気分から抜け出せない僕は、窓の縁から漏れ出す冷たい空気に当てられて窓の方に目線を向けると、ちょうど冬の冷たい空気に逆らうように、もうすっかり暖かくなった部屋は窓ガラスと僕の意識を曇らせていた。
再び意識が覚醒する。うっかり二度寝をしてしまうなど、まるで僕にふさわしくない失態だと思いながらも、ここに来て急に、急いでどこかへ行かないといけないような、そんな謎の使命感に駆られて身体が無意識に痙攣してしまう。急いで起きあがろうと沈みかける意識を奮い立てると、これもまた低血圧特有の朝の怠さが僕の身を包んで離してくれない。
意識を自動運転に切り替えて最悪な気分をやり過ごしながら、クラクラする頭を働かせるべく、軽くストレッチをして、手の先、足の先まで感覚が走っていることを確認すると時計も確認せずに服を着替えて外に出た。
今日は彼女とデートの約束があるのだった。
彼女とはかれこれもう10年以上も付き合っている。いわゆる幼馴染って奴である。それだけの長い付き合いをしておきながら、僕達は未だに結婚を踏み出せずにいる。待たせている自覚はあるが、今更言い出しづらいし照れくさい。が、それも今日まで。指輪やネックレスなどに興味を一切示さない彼女には取っておきのものを用意してきた。そんな大変な苦労をかけて手に入れたものはこちら、近頃にご近所の国、中国に落ちてきたという隕石の欠片である。当時の新聞によると、被害は小規模のクレーターで済んだらしいというものの、それにも関わらず落ちたあとは周辺一帯は大パニックになったという。なぜパニックになったのかと言われると、何とこの隕石、今まで観測できなかった特性があるらしく、その周辺の電子機器をすべて使い物にならないようにするという。眉唾物だが、未知の物質を内包しているというのは間違いないらしい。なぜわざわざ億にも及ぶ大金をこんな未知の石ころにつぎ込んだかって?好奇心旺盛な彼女がこれに飛びつかないはずがないからである。食いついてきたところに意表をついてプロポーズ、、我ながらなんて素晴らしい案を思いついたんだと思ったものだ。
目的地に着く、と針は待ち合わせの約20分前を指していた。すると、気を抜いていると近くの飲食店から香ばしい匂いが流れてきて思わず唾を飲み込んでしまう。痛恨の二度寝により朝食を取れなかった僕にとって中々魅惑的な匂いだった。デートまでまだ少し時間があるみたいだし、ここは朝食を済ましていこうと愚考をしてしまうまでにはそうそう時間はかからなかった。だがもし僕が店に入っているスキに彼女が待ち合わせの場所についたなら非常にきまりが悪いことになる。主に僕の見栄がが張れなくなるのは痛い。だがそんな僕の中の見栄を司るひ弱な天使が現金な悪魔に勝てるわけもなく、匂いに誘われるがままに僕は店内へと吸い込まれていった。空いているカウンターに向けて手短くスマイルをばらまく無機質な瞳をした店員に向かって朝食だとは思えないカロリーの塊を注文した後、席へ向かおうとすると、なんと窓際の席に暖かそうな格好をした彼女が座っていた。どうやら僕と同じことを考えていたらしい。注文の内容までも一緒というのは驚きだ。さすがは僕の彼女である。いつも待ち合わせではかなり遅れてくることも多い彼女だが、今日は僕よりも前に来るとは、珍しい日もあったものだ。もしかしたら今日の日の出は東からだったかもしれない。
思わずドキリとしてしまった僕だが、逆に驚かしてやろうと、そっと彼女に近づいていく。すると僕に気づいたのか、彼女の方から視線を合わせてきた。
「やっぱり!来ると思ってたよ!」
思わずどこか嬉しそうにはにかむ彼女の様子に笑みがこぼれてしまう。いそいそと彼女の隣にくっつくように座った。
「どうしたの?今日は随分と早起きだね?いつも1時間ぐらい遅れて来るくせに」
心外だったのか、ショックを装い、彼女は『なっ!』といった顔をする。
変な顔。
「そんな、女の子には色々あるんだよ!」
いつもの言い訳。これは『追求すんなボケ』という意訳が込められていることを僕は知っている。
「まぁ、そういうことにしてあげるよ」
滞りなく続くいつものやりとり。そしてその後に続く見栄えなくて味気ない話題。飽きもせずに彼女は研究で行き詰まった様々な難題を僕に愚痴る。いつものように相槌を打って流してやるのが僕の仕事だ。こう見えても彼女はその道において新聞に載る程度には有名であるらしい。
もっとも僕にはこれぽっちも理解などできないが。
雑談もほどほどに済ませて、朝食を済ませた僕達は足を揃えて飲食店を出た。さて、予定通り、これから先は先もって用意したプロポーズの場まで誘導しようと思う。
「突然なんだけどさ。」
衝動的に"僕"は唐突に話題を切り出した。
「何?」
いきなり真剣な顔をしたせいか、彼女は心配したように僕を見つめてきた。
「"僕"が未来から来たって言ったら、信じてくれる?」
僕は何を言っているんだ。
思わず苦笑が出そうになる。
あくまでも自然に僕の声帯から僕の意志とは関係なく、まるで脊髄反射のように言葉が吐き出される。
あまりにも奇妙な体験で、どこか得体の知れない気持ち悪さが込み上げてくる。そして巫山戯たビジョンと突拍子もない考えが頭の中を駆け回る。見えるのは一寸先の未来。彼女を中心に広がる鮮血の湖。想像にしてはやけにリアルであった。しかし、思い返してみても未来視など、僕なんかが持ち合わせているはずもなく、それどころかそんな非科学的なものを信じるほど僕はオカルトにめり込んでもいない。もしや前の事故の後遺症の持病がひどくなったのか??
僕が硬直していると、彼女は僕の唐突で意味不明な問題に対して何かを真剣に考える素振りをみせたのだけれど...いや、やっぱりあまりに突拍子のないことを聞いた物だから不思議がられているようだった。暫くして、彼女は目を大きくして私を嗜めるように言った。
「どうしたの?大丈夫?また頭おかしくなった?いじってあげようか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
何かと物騒な提案をしてくる彼女。
どうも僕が5年前の事故にあった時瀕死になっていたところ、特にひどかった頭の怪我は彼女の適切な応急処置のおかげで僕は助かったらしい。彼女は僕の恩人でもあるのだ。
「本当だ。信じて」
何故か嫌な予感が増してくる。なぜ僕はこんなことを言っているのか自分でもわからないというのに。
訳も分からず何かを感じ取ったような素振りをした彼女は神妙な顔をすると首を上下に振った。
「君がそこまで言うならもちろん私は信じるよ」
彼女はまっすく僕の瞳を見つめてそう言った。
視線が複雑に絡み合い、視神経が癒着してしまう。
見つめ合う視線が外せないでいると、少しずつ僕が彼女の瞳の中に溶けていくような錯覚に陥る。とたんに何かが思い出しそうで思い出せない、そんなもどかしい状態に陥る。気がつけば、激しく点滅する信号機が火花をあげ始めていた。店の自動ドアがガタガタと小さく振動しているのがわかる。
何かがカチッとはまった気がした。
二度寝のせいだと思っていた重たい頭もクリアになっていく。
そうか。思い出した。
「....実は」
実は...僕は何を?...頭が真っ白になっていく。続きを言おうとして、喉に詰まらせてしまう。認知症にかかるような年でもないくせに、ついさっきまで言おうとしたことを忘れるなんて、随分と新鮮な体験をしてしまった。視界が僅かに歪んだのを感じて、最近のヘビーになりがちな仕事に疲れているのかもしれないと思った。
「何よ。変なの。」
噛み合わない話が気持ち悪いのか、彼女は顔をしかめた。それからの出来事は一瞬のうちに終わった。
身体に電流が流れたかと思うと、あらかじめ繰り返し練習でもしたような無駄のない動きで僕は半ば条件反射のように唐突に前へ駆け出した。もう思い出す必要すらない。何回繰り返したと思っている。もちろん彼女を安全なところに突き飛ばすのは織り込み済みだ。直後にトラックが勢いよく僕を突き飛ばす。何度も味わったような気がする血の味を噛み締めながら、僅かな達成感とともに僕の意識は闇に落ちていく。その時、確かに僕は幸福を感じたのだった。
◇◇
また守れなかった。
私はひどく後悔した。
もう何千回繰り返し試したのだろうか。
私はずっとあの日に囚われている。
いくら彼の身代わりにと精巧なクローンを作っても、いくらシチュエーションや会話を並べ替えようと、彼の死を覆すことはできなかった。本当の彼は生きることすら許されないのか。神という非科学的な存在が本当にいるとしたら、私はそいつを呪い殺してやりたい。私はこんなに彼のことを愛しているというのに。
過去を遡るのはおそらくこれで最後だ。
今度こそ救ってやる。
朝、目が覚めた。
本来なら二度寝をしたいところだが、今日はそうもいかない。何かは思い出せないが、何か重大な任務を私は背負っているはずだ。とにかく外に出なきゃ。そう思い、急いで服を着替えて家を出る。そういえば今日は彼とのデートだったな。重大な用件は相変わらず思い出せないが、もしかしたらこれのことかもしれない。時計に目を落とす。問題ない、まだ時間は十分にある。いつも遅れてしまうデートだけど、今回ぐらい先に行って待っててやろう。そう思い、私は約束の場所に向かって歩き出した。少し歩いた後、約束の場所についたはいいものの、お腹の虫が飯を寄越せとばかり、音を立てて抗議して来る。そういえば子供の頃から一度たりとも朝食を欠かしたことはなかったな。まだまだ時間があるようだし、ここの飲食店は彼とよく利用したものだから、もしかしたら後から彼も来るかもしれない。そう思い、飲食店に入り、注文を済ませたのち窓側の空いている席に向かう。出かけた際着てきた厚手の服がトレーを持つ手を邪魔する。落とさないように気をつけつつも、席に座り、いざ注文した品に手をつけようとして、目論ん通り彼の気配がした。そちらに目を向けると、彼は微笑みながらこちらへ向かって来た。いつもはしない表情なだけに少し気持ち悪かったけど、そんな顔も私は大好きだった。
彼が腰を下ろす前に、私は彼に言った。
「やっぱり!来ると思ってたよ!」
デジャブ。そんな気がした。
が、最近よく起きているような気もして、大して気にならなかった。
「どうしたの?今日は随分と早起きだね?いつも1時間ぐらい遅れて来るくせに。」
皮肉たっぷりな彼の言い草に少し眉を立ててみる。それでもニヤニヤが絶えない彼に程よく呆れながらも
「そんな、女の子には色々あるんだよ!」
と返しておいた。こう言っておけば、だいたいなんとかなる。はずだ。
「まぁ、そういうことにしてやるよ。」
何故か尊大な口調となって帰って来たが、いつものボケだからと軽くスルー。ここからは私の愚痴タイム。優しい彼はいつも嫌味一つ言わずに相槌を打って聞いてくれる。半ば意識をこっちに向けていないのはバレバレだけど、気にしない。彼がいてくれるだけで嬉しいのだ。時折変な話を混ぜたりして彼が頷くのを見てからかったりもするけれど、気づいてくれたことがないというのも味気ない。うっかり遠回しに愛してるなんて表明した際には、『大変だねぇ』と返された時は本気で殴ってやったが、まるで反省の色が見えないというのだから救いようがない。
ために溜め込んだ私の愚痴もそろそろ終わる。彼もようやく食べ終わったみたいだ。何故か妙に物欲しそうに包装紙を見つめる彼に「もう一個頼む?」と提案してみるも、やんわりと断られてしまう。いつも同じ物を頼んでいるくせに、よく飽きないものだ。とはいえそれだけ食べても太らない彼が少し羨ましかった。
足を揃えて二人で店を出る。
自動ドアが故障したのか、ギチギチと音をあげていた。なんだか不安を煽るような振動の仕方をするものだから注意を向けていると彼から急にこんな話をされた。
「突然なんだけどさ。」
「何?」
あまりに真剣にな顔をされたので、思わず気圧されてしまう。
「僕が未来から来たって言ったら、信じてくれる?」
聞いた瞬間、全身に稲妻の様な衝撃が走った。冷や汗が吹き出て身体中の鳥肌が一斉に立つのを感じた。近くに鏡が飾っていれば、きっと今頃の私の顔は舞妓さんにも引けを取らないぐらい蒼白になっているはずだ。思い出してしまったのだ。私のこれからやらなければならないことを、彼のことを救ってあげなければならないことを。怖い。だけどやらなきゃ。大好きな彼をこれ以上失わないためにも。できる限りの平静を保って、私は過去になぞるように思ってもいないことを口に出す。
「どうしたの?また頭おかしくなったの?いじってあげようか?」
一度だけ、昔彼が事故にあった現場に立ち会わせたことがある。今でも鮮明に思い出せるそれは奇跡だった。病院からは私が適切な措置をしたから彼の命は助かったというが、もちろん私にそんな専門的知識はないし、パニックで彼が後に助かるようにできる行動は何一つ取れないでいた。専門外なのもあるが、もはやそんな次元ではなく、彼の怪我は素人の目から見ても絶対に助からないと思えたものだった。
割れていたんだ。頭が。
それでも諦めきれない私は無理なのを承知で、グロテスクになった彼の頭部を頭の形になるように形作ってから救急車を呼んだ。そしてありえないことに、記憶が曖昧ながらも彼は私の元に帰ってきてくれたのだ。頭部に針が通った形跡すらないという。だが、そんな偶然が許されないのか、今日、彼はもう一度、いや、まるで5年前の延長で死ぬことになっているようだ。私はそれが許せない。私はもう人生のすべてを彼のために捧げたと言っても過言ではない。ここに来る前の私はもうとうに70歳を過ぎていた。私の生涯の成果である「精神だけを過去に飛ばせるタイムマシーン」が開発されてからは私は医師に止められながらも数えきれないほどに使って過去へと飛んだ。だが、僅かなミスでも世界の修復力によって私は未来へと戻されてしまう。それでも私は諦めを知らなかった。様々な方法を試した。彼が外出しないように彼を薬で寝かせてから、彼のクローンを作って身代わりにできないかと試したこともある。だがたった一回の奇跡すら起きなかった。いや、すでに五年前に一度起きたのだった。もう起こるまい。おそらくもう私も長くない。私は最後の仮定を実験するべくここに立っている。
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
しかし、彼はなぜ未来から来たなんて言ったのだ?
思わず自分と重ねてしまいそうになる。
「本当だ。信じてくれないか」
もう彼の言葉が頭に入っては来ない。
やることはもうとっくに決まっているはずだ。
あとは実行するのみ。覚悟は十分。
「君がそういうなら信じるよ。」
そう決心を心に秘めつつ、
「実は...」
彼はいつもとは違う何かを言おうとして、急に神妙になり口を閉じた。まるで何を言おうとしたか忘れてしまったみたいだった。認知症なのか?今の彼は若い。そんなわけもない。それなら前の事故の後遺症か?にしては急だな...そういえば事件当日もこんなことがあったような気がする。
空白の時間の中。私は悟った。
ああ、そうか。気持ちが急激に冷めていく。先程とは比にならないぐらいの冷や汗が背中から湧き出て服を濡らした。こんな簡単な事だったのか...どうして気が付かなかったのか!!このことについては彼を助ける過程でも何度か経験した。原因はわからないが意識のまま過去に戻ると記憶が安定しない状態が長時間続くのである。そうか。そういうことだったのか。何もかもわかったような気がした。
私はずっとこうやって彼に守られていたのか。
本来死ぬことになっているはずだったのは私の方だったというのか。それをずっと彼が私の身代わりに....
何度も何度も私が彼を救おうとしたみたいに、彼もまた生きる未来から過去に戻って私を庇っていたのか!!!目の奥から温かいものが湧き出るのを必死に抑えながら手にぎゅっと力を込める。
結局やることはただ一つ。予定通りで何もかも変わらない。今更無限ループだと気づいても、ここで彼を見殺しになってできない。世界もこれで本願だろう。
これから彼はいきなり飛び出してトラックに轢かれる。やはりその行為は私を庇っていたのか。そうなる前に、私がやらねば。
いつもの返事をする代わりに、私は真っ直ぐ飛び出した。
◇◇◇
彼女が事故にあってからすでに5年が経つ。
酷い事故だった。
現代の医療レベルじゃ治せなくとも、未来の医療技術ならばあるいはと、当時の僕は無理を言って彼女を冷凍睡眠させた。
僕が生きているうちにまた彼女に会えるのだろうか?
もしもう二度と彼女に会えないと思うと胸が裂けそうだ。
周囲が思うように僕は自己中心な人間だ。
自分でもそう思うゆえに否定はしない。
だから僕はたとえ周りにどれだけの迷惑をかけようが、関係ない。どれだけ周りに否定されようと認めてくれる彼女が好きだった。愚痴をこぼしてくれる彼女が好きだった。
こんな、、10年前の事故で脳に障害を負い、記憶が不安定な自分でも愛してくれる彼女が好きだった!!
僕は自分が許せない。
隕石の欠片のせいで起きた事故ではないと聞かされていても、僕は自分が許せなかった。僕は自分を責めることでしか彼女への愛を確かめる術を持ち得なくなっていた。どうしても彼女に会いたい。苦しくてたまらない。毎晩毎晩見たこともない幸せな記憶がフラッシュバックする。夢を見れないはずの僕は寝ることが唯一の楽しみになった。彼女を忘れるにつれて会いたい気持ちがさらに募っていく。ずっと続けてきた日記にも彼女のことでいっぱいだった。
幸い僕はお金持ちである。それも億万長者である。医療開発に莫大な資金をつぎ込んだ。研究所を可能な限り作っても彼女の怪我を直せそうになかった。あらゆる手を考え、尽くした。僕がまだ生きている間に彼女が目を覚ましてはくれることはもうないだろうと、そう思っていた矢先に、思わぬところへ光が差し込んだ。先日、もっともありえないと思われた過去への干渉の実験が最終フェーズに達し、その最終目標を達成した。その目標こそが僕が求め続けてきたものでもあった。現時点では意識のみならば過去の自分に投影できるという不安定で詳しいロジックが解明されていないものだったが、僕は僅かな希望でも構わないとお構いなく実験台に自ら志望した。実験が失敗した際、最悪植物人間になることもあり得ると聞かされたが、どうせ彼女に助けられた命らしい。彼女のために使うさ。
僕は狂ったように何度でも過去に飛んだ。
が、どれほど慎重に行動をして、どれだけ因果から彼女を隠しても、彼女を救うことはできなかった。そうして諦めずに、何百、何千回も繰り返しているうちに、一回だけ、一度だけ奇跡は起きた。そして僕は確かにあの時、彼女を守るために自らトラックに轢かれて死んだはずだ。そんな記憶が、僕は夢という形で知り、日記にもつけている。だがこうして私は生きている。そして彼女は未だに冷凍睡眠状態にある。
僕はしばらく混乱に陥った。
日記には二種類の記憶が記されていた。
彼女を救ったはずが、彼女に救われている。
繰り返し思考。思考。思考。思考。思考。
唯一たどり着いた合理的な結論は、彼女もまた過去に戻って僕を救っている、とのありえない仮説だった。もしそうなら、、、僕は彼女と最後に一回だけ会って、彼女が僕を救うのを止めることにした。彼女が僕を救うのを止めれば、きっと全てがうまくいく。思考放棄にも似た気持ちで、そう思った。
それに、もう彼女がいない世界なんてもううんざりなのだ。もしかするとこっちこそが本音なのかもしれない。が、どうしても彼女には生きていて欲しかった。
彼女が冷凍保存されてからというものの、妙に落ち着いている自分に気づいて、苦笑が漏れる。どうやら僕の心もまた5年前から一度も脈を打ったことはないらしい。
◆◆◆
見知らぬ天井だ。
一度言ってみたいセリフ第一位言えたね、と私は思った。
1年前にコールドスリープから醒めた私にとって300年後の世界は実に生きづらかった。
課せられたリハビリも終えて、私は親戚の一人もいない孤独な社会に投げ出された。
夢の中にいた彼はいつも悲しそうだった。ただただ愛おしさがこみ上げてくるが、彼は目もあわしてくれなかった。
最近の科学技術は本当にぶっ飛んでいる。
人々は空を飛び、街の中には見たこともない植物が見栄えよく生えていた。
例えば今私が横になっているタイムマシンは肉体ごと過去に飛ばせるというとんでも未来技術の結晶を凝縮したようなものだったりする。夜中こっそり盗んだIDカードを使ってここの研究所に侵入した甲斐はあった。
すでにやるべきことはわかっている。再びあの時に戻り、"私"よりも先に彼を救う。
チャンスは一度限り。肉体を持ったタイムリープの成功率も一桁だと小耳に挟んだ。普通の人間なら絶対やらない酷い博打。
それでも私は彼を救えると確信している。
現代の医療は恐ろしい。
何せ割れた頭でも復元できてしまうのだから。
天井を見つめる私は笑いが止まらないのだった。
◆◆
5年前に起きた事故が未だに僕の心の奥に突き刺さる。僕達は今日から正式に家族になる。
ウェディングドレスを着た彼女と向かい合わせたまま、僕は感極まって涙を流してしまう。
今日はこんなにもめでたい日のはずなのに、なぜか涙線がしまらない。彼女もまた顔をぐしゃぐしゃにしながら、声を立てることなく、静かに涙をせわしなく拭いていた。せっかく無理やりやらせたメイクももう跡形もなく消えている。
あの日、あの時、僕は危うく彼女を失いかけた。突然現れたもう一人の"彼女"にそっくりの女性によって、彼女は救われた。
救ってくれた"彼女"は轢かれる直前、僕に向かって幸せそうに笑っていた。他人とは思えなかった僕は考えつくあらゆる手を使い"彼女"を救おうとした。が、それでも"彼女"は目覚めることはなかった、というより次の日に突然、文字通り僕の前で消えたのだ。そのショックで何故か僕の記憶障害が治り、夢を見ることもできるようになった。とはいえ昔の記憶が思い出せるようになったわけではなく、僕は彼女と新しい思い出を作ろうと気にはとめなかった。
もう一人の"彼女"のことは心霊現象のようなものだと自分に聞かせて、忘れようとするが、定期的に僕の夢の中にも出てくるようになり、そして未だによく事情がわかっていないが、つい先月、あの事故については彼女からはこれでよかったのだ、などと意味不明なお告げがあった。そんな彼女も最初こそ戸惑っていたが、ある日をきっかけに一層研究に取り組み、僕が送った隕石の欠片と共に世紀の大発見を世界に公開すると、妙に納得したような顔をするようになったのはまた別のお話。
ここに来て、ようやく僕もうまく気持ちを切り替えられたようで、彼女の情けない顔を綺麗に拭いながら、ここが壇上であることを思い出す。今更恥ずかしいことをしてしまったなと頭を抱えたくなる。いい歳して大勢の面前で泣いてしまうとは。四方八方からこちらに向けられる生暖かい視線から目を逸らして、僕は彼女をあやした。
みんなが僕達をみている。
「「せーの!」」
息ぴったりの掛け声とともに僕達は心から誓った。
「「私達は、これから幸せや喜びだけでなく、苦しみも悲しみもすべて二人で分かち合い、明るく温かい家庭を築いていくことを、ここに誓います!!!」」