帰れません
「ちょま……‼︎」
『ちょま』とは『ちょっと待って』の略語であり、どういうときに使う言葉かと問われれば、間違いなく、腕が刀とか長剣などに変身する魔女に襲われたときに使う言葉である、と答える。
ブンブンと振り回される刀、空を斬らせるのがやっとで、反撃など考える余裕すらない。こちとら中小企業の安い給料で、何とか今日まで食いつないできたぴちぴちの三十歳である。何なら真里に連れられてコンビニエンスストアから出たときも、女児誘拐の不審者に見えないかと不安を感じたほどだ。いや、つまり何が言いたいかというと、普通の人間ならば刃物を向けられれば恐怖心のあまり、その身が萎縮する。俺もまた例に漏れずにその普通の人間の一人だ。イリスに攻め立てられ、紙一重に避けてはいるが、恐怖心が強い。
今こうして冷静に考察できるのは、もし傷を負っても真里が治してくれるかもしれない。という少しだけ心に余裕を持てる真里の存在、後ろ盾があるからだ。
「どうしたの? 避けてるだけじゃ私には勝てないわよ?」
なおも攻撃の手を休めないイリス。一流の狩人は、たとえ小さな兎だったとしても手を抜かない。というタイムリーに嫌な言葉が頭に浮かんでくる。
イリスが狩人なら、さしずめ俺は兎だろうか?
『ごめんなさいだぴょん。謝るから許してほしいだぴょん』とでも言えば彼女は許してくれるだろうか? いや、イリスに限ってそれはないだろう。
ならば、やるしかあるまい。真里に言われた『想像して! 手のひらに力を込めるの! 強くイメージして!』という言葉通りに。
ここは異世界だ。真里が言ったんだ。奇跡を起こした真里が言ったんだ。出来るはず。腕を斬られて、好き放題言われて頭にきてるんだ。
「俺の武器ッ! 武器……! 武器ッ‼︎」
ーーグッ。
俺の右手に何かの柄のような感触が生まれた。出来た。出来た出来た出来た‼︎ 武器を出したんだ。俺がこの手で武器を……‼︎
「……?」
イリスの攻撃を避けながら、右手に握られたものを見て、一瞬思考が停止した。
武器ではない。いや、立派な武器でもあるし、サスペンスドラマで犯人の凶器として何度か見たことがあるが、こういった決闘における武器ではない。
少なくとも刀に対して、これで挑む奴など俺は知らない。
「ゴムハンマー……?」
そう、主に木材を組むときに用いるような、日曜大工ショップに売っているアレである。
一瞬の思考停止、一瞬の沈黙、そしてその後に待っていたものは過去最大規模の絶望感であった。
抜群のリーチを誇る、斬れ味抜群の刃物に対してゴムハンマーで何をしろというのか。何故こんな物がイメージによって創造されたのか、理解に苦しむ限りである。というか俺のせいなのか?
俺に情け容赦なく斬りかかってくるイリスだったが、手にしたゴムハンマーを目視した瞬間、物凄い勢いで後方に跳ね退き、距離をとった。
……? てっきり嘲笑と罵声が浴びせられるものと考えていたが、何やらイリスの様子がおかしい。引き攣ったように笑い、頬には汗が流れている。ゴムアレルギーなのか……? チャンスなのか……?
しかし、おかしいのはイリスだけではない。ゴムハンマーを見てから真里ですら口を開けて驚きの表情だ。
「くっ、魔槌グランド……⁉︎」
「ひじりお兄ちゃん凄い、凄い!」
…………えっ?
もしかして、この子達、このゴムハンマーを見て言ってるのだろうか。魔槌グランドって何だ? 『魔』とかつけると小っ恥ずかしいんだけど。
というか、このゴムハンマーは凄いのだろうか? いや、凄いわけがない。日曜大工ショップに置いてあるゴムハンマーだぞ? 何の変哲も無い真っ黒のゴムハンマーだ。
持ち手の部分に思いきり『安全第一』とか書かれている。よく見ると名前が書かれているじゃないか……。
『さとし』
……いや、さとしって誰だ。マジでこのゴムハンマー、何処の誰のだ。
「魔槌グランドでもないし、凄くもないと思うんだけど……。普通のゴムハンマーだよ……? しかも誰か知らない人の……」
必死に弁明するも、頭にクエスチョンマークを浮かべ、『それ魔槌グランドだよ?』的な表情で、不思議そうにこちらを見つめる魔女二人。
よし、覚悟を決めよう……。
痛いのはもう嫌だしな……。
わかった。もういい。このゴムハンマーは魔槌グランドだ。そうなのだ。俺が知らないだけできっとそうなのだ。こうなれば後は野となれ山となれ、全力全開で開き直ってやるさ! さとし、力を貸してくれ‼︎
「うぉぉぉぉぉぉぉ‼︎ 唸れ魔槌グランドォォォォォ‼︎」
人間、開き直ると何でも出来るもので、つい『唸れ』などと付け足し、叫んでしまった。
派手に大声を上げたが、やっている事はゴムハンマーをやたらめったら、そしてパニックになりながらブンブンと振り回しているだけである。
滑稽。まさに滑稽。これを滑稽と言わずして、何を滑稽というのだろうか。
思いきりゴムハンマーを振り回してイリスに殴りかかってみたが、あっさりと右腕から生えた刀身によりガードされてしまった。そうなると左腕から生えた長剣によるカウンターがくる。もう駄目だ。詰んだ。ゲームオーバー。ネガティブな単語が頭の中をぐるぐると駆け回る。が、しかし……。
ーーバキンッ……‼︎
俺が振り下ろした、さとしのゴムハンマー、もとい魔槌グランドは、イリスの右腕から生えた刀身をへし折った。それと同時に彼女の表情が苦痛で歪む。
「ひぐっ……‼︎」
痛みからだろうか、イリスは声をあげて右腕をかばった。
ーーポタ……ポタ……。
イリスの右腕から、色鮮やかな赤が流れ落ちている。よく見れば、右腕は刀身から人間の腕に戻り、人差し指と中指に、切り傷を負っていた。
「ハァ……。イリス、治してあげるからこっちへ来るの……」
真里が呆れたようにイリスに声をかける。まるで「ほれみろ」とでも言っているような顔だ。
「ぐすっ…………ぐす……」
戦意喪失、そんな言葉通りに、イリスは無言で涙目になり、唇を尖らせながらもトボトボと真里の方へ歩いて行く。勝手に勝負を挑み、自分が負けるはずがないと思い込み、あまつさえ痛い目を見るとは思わなかったらしい。それもあって再生の魔女である真里の手を借りる事に、後ろめたさを感じているのだろう。
……というか、イリスを傷つけた俺が悪いのだろうか。言い訳をさせてもらえるなら刀身が折れると、身体が傷つくとは思わなかったし、そもそもさとしのゴムハンマーでこんな結末を迎えるとは思うまい。
「その、なんか、ごめん……」
形だけの謝罪。という訳ではないが、パニックに陥っていたため気持ちは込もっていなかったのかもしれない。それでも、結果だけ見れば、魔女なれど女性のイリスを傷つけてしまったのだ。真里が彼女の傷を癒してくれるとはいえ、ここは謝罪を述べるのが男としての筋を通す、という事ではなかろうか。
「ひじりお兄ちゃんは悪くないよ。悪いのはイリスなの。ほら、イリスも謝るの」
「…………ごめんなさい」
真里によって傷を癒されているイリスは、視線を地面に落とすと、初対面のときからは想像も出来ないようなしおらしさを見せた。
想像力とやらで出現したゴムハンマー。なぜ出現したのか、何故俺にもそんな魔法じみた事が出来たのかとても気になったが、とりあえず考えを整理して、一から二人の魔女に尋ねることにした。
「イリスも魔女なんだね?」
「……私は変化を司る魔女。サイズや質量に制限はあるけど、物質を最大で二十四時間、様々な物に変化させられるわ。腕を武器にするのもその力よ」
腕を刀や長剣に変化させたのは、魔女の力。しかし、形や硬度、質量が変化したとしても、それは彼女の腕である事には変わりない。腕が変化した刀身を破壊されれば、彼女の腕もまた、それなりの代償を背負うのだろう。
「ここにある、おでんのゴミも変化させられるって事?」
「そうよ。見てなさい」
そう言うと、イリスは手をかざし、おでんの容器とビニール袋に触れた。
特に呪文やら、詠唱をするわけでもなく、特別な儀式をするでもない。ただ、仲の良い知人の肩に手を置くように、それらに触れると、一瞬だけ辺りを包む強い光が放たれた。
「落ち武者レンジャーだ!」
イリスが手を離すと、テーブルの上には謎の戦隊ヒーローフィギュアが横たわっている。それを見た真里は鼻の穴全開で身を乗り出し、嬉々とした表情で落ち武者レンジャーという単語を叫んだ。
どうやら彼女は落ち武者レンジャーの熱狂的なファンのようだ。コンビニエンスストアで、急に武士のような口調になったのも、おそらくその影響だろう。
しかし、驚いた。ゴミが落ち武者レンジャーフィギュアに変化したのだ。やり方次第で、万能になり得る力ではないか。魔女という存在に改めて驚かされる。
真里は嬉しそうに落ち武者レンジャーフィギュアを手に取り、目を輝かせていた。
「イリスって言うんだよね? イリスは何故この城に来たの?」
俺がその質問を、言葉として口に出したとき、場の空気があからさまに暗くなった。そのように思った理由だが、それは他の誰でもない、真里がチベットスナギツネのようなじっとりとした目つきで、こちらを眺めているからだ。
……何か地雷を踏み抜いたのだろうか?
確か、入り口のドアを力任せに開けて、『真里を打ち負かす』みたいな事を言っていたが……。
「真里を打ち負かして、結婚するのよ」
そうか、そうか。真里とイリスは結婚するのか。
和装にする? 洋装にする? なんて森の湖畔で囁き合っちゃうわけだ。で、男が言うのだろう。「ウェディングドレスを着た君を食べちゃいたい」と。それを聞いた女はこう答える。「やだー、もう、えっちー! でも、ちゅきー! 愛してるー!」
そんななんとも歯痒い、歯の浮くようなセリフを、並べに並べて愛を確かめ合うのだ。リア充共め。爆ぜろ。
………………え? あれ? 結婚するって言った?
……意味が全く理解出来ない。
「真里を打ち負かして、結婚するのよ」
「いや、二回言わなくても聞こえてたよ」
「真里はイリスとは結婚しないの。何度言ったらわかるの」
真里は心底、面倒臭そうにイリスを見ていた。この感じから察するに、イリスが一方的に真里に対し、好意を抱いているようだ。
「そんな、あのとき確かに『真里に勝てたら考えるの』って言ったわ」
「イリスは真里に勝てないから無理なの。絶対に無理なの。イリスと結婚より、ひじりお兄ちゃんと結婚する方がいいの」
「無理なの! 私、真里がいないと生きていけないっ! あなたが必要なのっ‼︎」
俺は一体何を見せられているのだろうか。元旦に異世界で、常軌を逸する魔女達と。
とりあえずイリスがどうしようもなく百合乙女で真里に狂愛を捧げている事は理解出来た。確かにこんなに求愛行動をとる相手など、超が付くほど面倒である。
真里とイリスの夫婦喧嘩に巻き込まれるのは厄介だと感じ、言い争う二人から距離を置く。可愛らしい雑貨をすり抜け、小綺麗に装飾された窓には、鮮やかな茜色をした夕日が映されていた。
…………夕日?
しまった。つい珍しい非日常に囲まれて、時間が過ぎるのも忘れていた。
少し名残惜しい気もするが帰らなくては。実家にも顔を出さなくてはならない。年末年始、人間様は多忙の極みである。
「……真里ちゃん、少しくつろぎすぎた。俺そろそろ帰るよ。今日はお誘いありがとうね」
二人の口論を止めるように、俺は帰宅の提案をもちかけた。ここは異世界、どうやら自力では帰れそうにない。となれば連れてこられたとき同様に、真里に頼むしかない。
「あ、うん! わかったの、ひじりお兄ちゃん」
『水を差すなよ』と、若干一名の視線が痛いが、真里は転がっていたタクトステッキを手に取ると、同じように空中に何かを描く。
それが何なのかは二回見ている今でもわからないが、察するに魔法陣的なものだろう。
しかし、ピタリと彼女の手は止まり、不可解な表情を浮かべた。
「…………」
「真里、どうしたの?」
「異世界扉が開かない……」
嫌な予感がしてきた。イリスも同じように空中に何かを描き始めたが、やはり上手くいかないようである。
「……ひじりお兄ちゃん。いいお知らせと、悪いお知らせがあるの、どちらから聞きたい?」
三流映画でよくあるような質問を真里から問われた。イリスは俺の顔を見ようともせず、視線を落とし、ひたすら床を眺め続ける。
「いいお知らせからたのむよ」
「ひじりお兄ちゃんは、これからしばらくの間、真里やイリスと一緒に遊べるよ」
なんと喜ばしく、スーパーハッピーで、ウルトララッキーな報告だろう。可愛らしい真里と、性格、口調に多少の難ありだが、絶世の美女ともとれるイリスと一緒に遊べるなんて。
世の童貞達が知れば、妬みや憎悪の雨あられであろう。
「悪いお知らせは?」
「ひじりお兄ちゃんは、元いた世界に帰れません」