黒髪の女性
魔女の住む家。静かで、木々に囲まれ、鬱蒼と光を閉ざす森のような場所に、こじんまりと佇むイメージがあった。しかし、そのイメージには当てはまらないようだ。
遠くには街のようなものも見え、目の前にそびえるこの巨大な城は、あの街の人間にはどう見えるのだろうか。
ここは何処だ? 確実に日本ではないと思われる。建築様式から見ても、和風の城ではなく、洋風。西洋にありそうな、『いかにも』な城。キャッスルそのものである。
「お兄ちゃん、行こう」
「ああ、うん」
真里に手を引かれて石畳の城内へと入る。
この城にはどれだけの人がいるのか、使用人なども居るのだろうか、固定資産税いくらかかります? などの疑問が頭に浮かぶ。まさかこれだけ大きな城に、一人で住んでいるという事はないだろう。
「真里ちゃんは、この大きな城で誰と暮らしているんだい?」
「誰もいないの。真里一人だよ?」
そうだった。こちらでたてた予想など、この魔女さんには意味が無いのだ。
どのような心境で、この広くて、重苦しく、冷たい雰囲気さえも感じる巨大な城に一人で住むのか、おおよそ見当もつかない。
「なんか寂しいね。こんなに大きくて、広い城に真里ちゃん一人だなんて……」
「まあ……うん。もう慣れちゃったの。でも、元々このお城には、違う人が住んでいたの」
「違う人?」
どういう事だろうか。違う人。家族でもなければ、友人を指し示す言葉でもなさそうだ。
真里の言う、違う人という言葉の意味を考えながらも、彼女に手を引かれて、ひんやりとした大理石の床が続く廊下を歩いて行く。
「ついたよ、ここが真里のお部屋。お兄ちゃん、おでん食べよう」
「ああ、うん。食べようか」
案内された部屋は、巨大で荘厳な雰囲気さえ感じる城から想像も出来ないくらいにファンシーで、メルヘンチック。端的に簡潔にわかりやすく言うならば『女の子らしい部屋』だった。
其処彼処に散らばる友達であろうぬいぐるみ、ハートや星の形を模した蛍光色の色鮮やかなクッション、ショッキングピンクの薄いベールに包まれた天蓋ベッド、それらは真里の事を、魔女ではあるが、女の子であると強く認識させる。
何とも甘ったるいイメージを受ける桃色のテーブルに、おでんと肉まんを置くと、その場に腰を下ろした。
「ふふふ、おでん〜、おでん〜」
真里は目の前にあるおでん種達を一つ一つ、その小さな口に運んでゆく。一口、また一口と咀嚼をするたびに、「んー」や「おいしい」などの言葉が漏れている。
なけなしの百円玉で、白滝を買うほどにコンビニエンスストアおでんが好きなのだろうか。俺が子供のときは、ひたすら駄菓子を漁っていたというのに。平成を生きる魔女は、カラスのように狡猾に生き、味覚は意外にも渋いようだ。
真里の幸せそうな顔を眺めながら、俺は自分の分の肉まんに手を伸ばした。そして、少し冷めている肉まんをかじる。
「美味しいね、お兄ちゃん。買ってくれてありがとうなの」
「いいよ、いいよ。気にしないで」
「お兄ちゃんは名前、なんて言うの?」
真里がおでん種の白滝をほどき、一本一本をちゅるちゅるとすすりながら俺に尋ねた。
「そうか、まだ言ってなかったね。十字 聖って名前だよ」
「ひじりお兄ちゃんだね、教えてくれてありがとうなの」
ひじりお兄ちゃん。何と素敵に美的で甘美な響きだろうか。もし俺が妹属性の童貞だったならば、その一言で天に召されていたかもしれない。
「そういえば真里ちゃん、ここは何処なの? どうやら日本ではなさそうだけど……」
気になっていた疑問を真里に投げかける。建築様式から言って、北欧地方のような気もするが……。
「んむ、簡単に言うと、ここは地球じゃないよ。別の世界なの。地球から遠い所に、この場所があるわけじゃなくて、まるっきり別の世界、別の次元に存在する世界なの」
「別の世界……」
夢でも見ているのだろうか。別の世界。別の次元。それはつまり異世界というやつだろうか?
本当に異世界なんてものがあるなんて。
魔女というのは何でもありなのだろうか。
そういえば、真里はこの城に違う人が住んでいると言っていたが……。
「そういえば真里ちゃん。この城には元々誰が住んでいたの?」
「うー、それはね……ちょっと迷惑な人なの……」
……迷惑な人?
可愛さを武器に、この世界に半ば強引に招待した真里が言うのだ。多分、側から見たら相当な人物なのだろう。
ーーズドォォォォオン‼︎
「……な⁉︎ 爆発⁉︎」
辺りに爆音が響き渡ると同時に、激しい揺れが発生する。衝撃を受けて、おでんの容器からダシ汁がピチャピチャと少し溢れた。
爆弾のような何かが爆発したような激しい音だ。命の危険を感じる。口が乾き、喉がヒリヒリする。嫌な汗が滲み出てきた。そうだ、真里はどうしてる……?
「うげ、また来たの……」
真里がおでんのミニトマト串を頬張りながら、迷惑そうな言葉を漏らした。表情を見るに、『迷惑そう』ではなく、『100%本気で迷惑』といった感じか。
しきりに「はぁー……」と、溜め息を漏らす真里。どうやら爆音と衝撃の原因を彼女は知っているようだ。
「真里ちゃん! 何がどうなっているの⁉︎」
「んと……」
口に頬張ったミニトマトを、ゴクンと飲み込むと、続けて真里は口を開いた。
「さっき言った迷惑な人なの……」
爆発があっても、慣れているのか、耐性がついたのか、真里はひたすらおでんを口に運んでいる。さっさと食べなくては。という使命感まで伝わってくるほど、急いでいるようにも見える。
ーーバタバタバタバタ……‼︎
やがて扉を一枚隔てた廊下から、物凄いスピードで走ってくるような足音が聞こえてきた。
ーーバタバタバタバタ……ズシャァァ………………パンパン……………………コツコツ……。
今、絶対転んだ音がした。転んで起き上がって、服の汚れを払う音まで聞こえてた。
そして何事もなかったように、また歩き出したような。一体誰なんだ……?
ーーバタァァーン‼︎
勢いよく真里の部屋の扉が開かれた。ここに居ることがわかるあたり、襲撃犯も少なからず真里と何らかの面識があるのだろう。
「マリア・ヴランドー‼︎ 今日こそはあんたを打ち負かしてやるわ‼︎ 覚悟しなさい‼︎」
部屋の入り口には、肩で息をする女性が、仁王立ちで構えている。黒髪で黒いローブ、年齢にして二十歳くらいだろうか。
あれは誰だ? マリア・ヴランドーとは誰の事を言っているんだろう。状況がいまいち掴めず、理解が追いつかない。
「君、転んだよね? 大丈夫だった?」
とりあえず、相手を気遣う言葉をかける。無難だが、相手の警戒を解き、信頼を勝ち取る第一歩だ。
すっと踏み出し、黒髪の女性に近づく。危機感を与えないように、極めてゆっくり、相手の目を見てじっくりと。
「……‼︎ ひじりお兄ちゃん、そいつに近づいちゃだめ!」
「え?」
ーーサシュッ……。
真里に声をかけられ、慌てて彼女の方を見たときだった。数枚重ねた紙の束を、鋭い刃物で切り裂くような軽やかな音がした。それと同時に、言い表せる言葉が見つからないくらいの激痛が左腕を襲う。
「いっ……てぇっ‼︎」
ぴたぴたと白の大理石に血の滴る音が聞こえる。痛みのあまり、視界が真っ白になり、気が遠くなってゆく。
……斬られたのか? めちゃくちゃ痛い。
「ひじりお兄ちゃん‼︎」
左腕を庇いながら、膝から床に崩れると、真里が駆けつけてくるのが見えた。
傷口は深い。鋭い切り口は皮下の筋繊維をも易々と斬り裂き、全ての人間に存在するであろう血に塗れた骨を露出させた。
「待っててね、待っててねひじりお兄ちゃん‼︎」
真里は涙を浮かべながら、アーミーナイフを取り出し、自分の腕を切り裂いた。
痛くはないのだろうか。切り裂いた自分の腕を、俺の腕へと押し付ける真里。
「ひじりお兄ちゃん、これで大丈夫なの。すぐ治るからね。もう少しだけ待っててね」
すっと立ち上がる真里、表情には出さなかったが、声が怒りによって震えていた。小さな後ろ姿からは素人の俺でもわかるくらい殺気に満ちている。
真里が血をかけてくれた傷口は、じわじわと音を立ててみるみるうちに塞がってゆく。斬り裂かれたときの鋭い痛みの後の、ズキズキと痛む鈍痛も傷口が塞がってゆくにつれて治ってきた。
痛みも引いて冷静に辺りを見回すと、真里が黒髪の女性と対峙している。
「あちらの殿方、人間じゃない。真里、あなた人間をこの城に連れ込んで何をしているのよ?」
「見てわからないの? ひじりお兄ちゃんとおでんを食べているの。イリスこそまた来たの?いい加減しつこいし、鬱陶しいの」
「笑わせないでほしいわ。あなたは魔女の中でも別格の魔女、再生のマリア・ヴランドーなのよ?」
どうやらマリア・ヴランドーというのは真里の実名のようだ。真里という名前はおよそ地球という星の小さな弓状の島国、日本において、過ごしやすい名前だったのかもしれない。
ふと気が付けば、痛みはすでに無い。真里の奇跡によって、左腕の斬り傷が完治した今、沸々と沸き上がる感情があった。言わずもがな『怒り』である。少し近づいただけで、左腕をザックリと斬られたのだ。何ですか? この世界の初めての挨拶は電光石火の斬撃ですか? 悪い事したらごめんなさいじゃ? 言いたい事は山ほどあるが、まずは、まずはだ……。
「あのさ、二人で話してるとこ悪ぃ……ぐッ‼︎」
何事も無かった体を装い、体を前に倒して黒髪女性と真里に一歩近づいたその時だった。
喉元に何か鋭利な物が押し当てられている。本能的にそれを嫌がり、俺は首に傷がつかないように天井を見上げてしまう。
ーー何故? どこから? 喉に押し当てられているものは何だ?
「イリス、また……! やめるの! ひじりお兄ちゃんは関係ないの」
「マリア、あなたは黙っていなさい。そこの殿方、それ以上近寄ればあなたの首が血を吹き出しながら愉快な事になるわよ」
愉快な事って何? 割と本気で。おそらく、大体、かなりの高確率で、十中八九グロテスクな事なんだろうが、あまり気乗りがしない。いや、常軌を逸してさえいなければ、そんな事に気乗りする人間などいないはずだ。
凶器は何だ? 彼女達二人から三メートルは離れている。何かを俺に押し当てているのは黒髪女性に違いないが、押し当ている物が何なのかを確かめたい。こんな時でも頭に血は上ってはいない。知的探究心、興味本位、怖いもの見たさ、そのどれでもない気がするが、欲望のままにゆっくりと視線を黒髪女性におろした。
黒髪女性。真里はイリスと呼んでいたか。
喉元に何かを押し当てられたままイリスを見て、大体の状況が掴めてきた。
まずは今俺が押し当てられている凶器、これは刃渡りが二メートル弱の刀身、巨大な日本刀のような刃物だ。しかし、その刀には柄のような持ち手がない。それもそのはず、刀身はそのままイリスの右腕と繋がっているのだ。いや、端的に言えば、『刀身と腕が同化している』だろう。
それは多分、真里と同じような、魔女の持つ奇跡、もしくは魔法のようなもの、と説明出来る。
「その腕……君も真里ちゃんと同じ……魔女?」
「あなたみたいな持たざる者に、気安く魔女などと呼ばれたくないわ」
俺を睨むイリスの鋭い眼差しが、更に強く突き刺さる。
触らぬ神に祟りなし、沈黙は金なり、とは、まさにこの事だ。何か言うたびにイリスの機嫌は、右斜めに急降下してゆく。コミュニケーションが取れないのならば、やる事は一つしかない。しばらく様子見のために、俺は沈黙に徹する事にする。
「やめて、イリス。それに持ってるの。ひじりお兄ちゃんは持ってるの」
「マリア、笑えない冗談ね。この殿方からは何も感じないわ」
彼女達の間で急に展開された、持ってる、持ってない談義。何だろうか? 魔女達の中であいつは持ってる、あいつは持ってない談義が流行っているのだろうか?
さっきから俺を差し置いて失礼ではないか? 俺だって男だ。漢と書いて男だ。少しだけ小ぶりなヤシの木ならば、この股ぐらに自生している。
「もしこの殿方が本当に持っているなら、私と戦いなさい。確かめてあげるわ」
半ば強引に、イリスから決闘を申し込まれた。俺が持ってる、この矮小ヤシの木を使って戦うというのはアレですか? 夜、お父さんとお母さんがベッドの上で繰り広げる大人のプロレスごっこの事ですか?
「さあ、構えなさい。武器を出すのよ」
「ひじりお兄ちゃん、想像して! 手のひらに力を込めるの! 強くイメージして! ひじりお兄ちゃん武器を!」
そう言うと、イリスは俺に押し当てていた刀身を構え直し、臨戦態勢をとる。真里は手を大きく広げたり、くっつけたりと、身振り手振りのジェスチャーで、俺に何かを伝えようとしていた。
ーー……。
え? ちょっと待って、彼女達は何を言っているのだろうか。微塵も意味が理解出来ないのだが……。この難問が学生時代にテストで出題されたならば、間違いなくテストを作成した教師の食事に下剤を盛っていたところだ。
じりじりと距離を詰めるイリス。
そして今、こちらの見解など御構い無しに、戦いの火蓋が切られた。