バタフライエフェクト
ミミックは昔、犬を飼っていた。
たまに裕福層の奴らが壁の向こうから放って来る、愛想を尽かされた可愛そうなヤツだ。
高い壁に隣した建物の上階から放り投げられるので、猫ならまだしも犬は大抵死んでしまう。死ななかったとしても、何かしら障害が残って結局生きられない。
でも、その犬は幸運だった。
たまたま通りがかったミミックの上に降って来たのだ。
何か降って来て驚いたミミックは、咄嗟に犬を受け止めてその命を救った。
だと言うのに、その犬はミミックの首筋に狂った様に噛み付いて来た。
しっかりした短い脚に、ごつい胴体をした猛獣の様な犬で、もしかしたら捨てたのではなく、ミミック達貧民層を少しでも減らす為派遣されたのかも知れない、と、一瞬思ったが、それどころでは無い。
コイツは紛れもなく闘犬だ。本気でマズイ。
犬の顎の力に呻いて、ミミックは銃を撃った。
頭を吹っ飛ばしてやろうと思ったのに、弾は外れてしまった。
しかし、犬はポトリとミミックの首から外れて地面に落ちた。
―――犬は気絶したのだ。
所業と見てくれに合わず気の小さいこの犬を、ミミックは何故か気に入って、飼い主になった。
たぶんきっと、気紛れだ。きっと。
犬は酷く馬鹿な犬だった。
ミミックはここまでとは思わなかった、と後悔した。
週に最低一回は袖振り合った誰かを噛むし、突然目的も無く猛然と駆け出す事が多々あった。
何か物音がすると凄まじく吠え立て、ネズミでも出ようものなら狂った様に部屋中を駆け回り、部屋の中の物を滅茶苦茶にした。
餌の皿は餌の度に確実にひっくり返すし、寝ぼけて自分の脚を噛み千切ろうとし、結果酷い怪我をして足を引きずる事もあった。
絶対にミミックに懐かなかったけれど、彼以外にも同様だったので筋は通っていると思う。
唯一、有難い事に子供には牙を剥かなかった。
犬は大人が―――特に大柄な大人が嫌いな様だった。
けれど、眠る時はミミックの傍に来た。
絶妙な距離を置いて、絶対に来た。
そしてアホ面を晒すのだ。
真っ黒な、湿った鼻から鼻提灯を膨らまし、プウプウ、プウプウと音を立てて。
それから、犬は、いつも―――いつも、股の間に尾を巻いていた。
ある日、散歩がてら買い物をしようと犬を連れて外へ出ると、犬が今出て来た建物内に向っていつもの馬鹿げた急発進をした。
ちょうど、同じブロックのビルに住む子供がミミックと犬に「いってらっしゃい」と声を掛け、それに手を振り返している時だった。
その時の犬の力はいつもよりもずっと強くて、繋いでいた縄がミミックの手から放れてしまった。
犬は猛然と子供に向って突進した。
子供は驚いて、入り組んだビル内に逃げ込んだ。
犬の狂わんばかりの様子に、ミミックは犬を諦めた。
もしも犬が子供に危害を加えてしまったら、相応の報復があるに違いなかった。
とにかく、犬がビル内に消えた子供の様に、建物内の角を曲がって姿が見えなくなる前に。
犬の背をしっかり狙い、銃の引き金を、引いた。
犬の為だと思った。これは情けだと思った。これは愛だと思った。
反面、酷く苛立ちもした。
けれど、『犬を思う気持ち』というヤツで、それを上手く隠した。
苛立ちが最終的に指へ信号を送った事を、一体誰に誤魔化せば良いのだろう。
*
リスパァン博士は『仲間の照会をしろ』と言ったけれど、街に仲間は多くない。
いずれ耳に入って来るだろう。
ミミックはそう思って、スラム街の片隅にある『(博士の言うトコロによる)ドラゴンスレイヤー』の管理場所には行かなかった。
管理場所は、リスパァン博士がスラム街の「彼ら」と自分の拠地を結ぶために存在している。
ここから仕事の情報が手に入るし、ここから「行ってきます」を報告する。
ここから裕福層への通行証も発行されるし、もちろんここから『ドラゴンスレイヤー』に志願する。
武器も装備品も、ここからリスパァン博士を介せば格安で手に入る。(金は取る事は取る。支給じゃない。博士曰く、『タダだと無駄撃ちするだろぉ?』)
今回の仕事に使った新型のキャノン砲も、ここで博士のおススメを買ったのだ。
―――あのジジイ、試しやがった。
伸び放題の白い眉毛を、ヒョイ、とさせるリスパァン博士の顔が脳裏に浮かんだ。
『試す? 僕はどちらのグループにもおススメしたよ?』なんてセリフが聴こえて来そうだ。
確かにそうしたのだろう。
消えたグループは、自分たちの意思で博士の助言を跳ね除けた。
けれど、彼らが悪いのか……?
リスパァン博士には予想だか想定だかがあったのだ。
博士がそれを伝えていたら、未来は変わった。
ミミックは舌打ちして、自分の棲家であるブロックに向う。
フラッシュとコールドはランド達と打ち上げをする為、飯屋へ行くと言ったけど、食欲の湧かないミミックはひと眠りしたかったので、一行は一旦解散になった。
―――どうせ夜まで飲んでる。後半は俺が主役だな。
そう思いながら、ぽっかり空いたドアの無い入り口に入って行った。
入って数歩の床に、銃弾の痕が一つ。
ミミックはそれを踏まない様に、跨いで建物の奥へ進む。
ペンシルビルが繋がりまくった建物内は、迷路のように複雑だ。
十字路や長い長い通路がたくさんある。
その天井には、パイプがたくさん這い回っている。太いのや、細いの。黄色や黒や、緑色。
ここ一階の水道のパイプは、どこをどう修正してもいつもポタポタ水滴が落ちていて、床が不衛生に湿っている。
先が見えなくなるギリギリの間隔で、手のひら程の豆電球が一粒ずつボンヤリしていた。無いよりマシだ。
少なくとも、どれもこれも、ミミックは気にしない。ここに住む者達のほとんども。
日中なのもあって、住人の大勢とすれ違った。
売店や、中庭、激臭を放つ共同便所の前を通り過ぎ、自分の棲家に着くとミミックはベッドに倒れ込み目を閉じた。
ビルの入り口。ちょうど、日の光が途切れる辺り。
記憶のあそこに、犬がいつも倒れている。
*
銃声。
犬は銃弾の勢いに前方へ吹っ飛んで、そのまま縫い付けられる様に倒れた。
苛立ち、悲しみながら犬を覗き込むと、口にネズミを咥えていた。
人が怖い。大きい人は特に。触られるのも、とても怖い。
知らない音や、大きい音も、怖い。
自分の夢すら、怖い。
夜の暗闇と静寂も怖い。
ネズミ。正気を失うほど……。
知ってた。気づいてた。
だって、ミミックだって誰だって、怖いものがあるから。
―――あんなに臆病者だったクセに。
―――どうして、あの時に限って勇気なんか出すんだよ。
……せめて、銃声に驚いて……あの時みたいに……。
*
『いってらっしゃい!』
そう言って手を振る子供の脚は、剥き出しの素肌だった。
けれど、ミミックの記憶にそれは無い。
無いのだ。
誰が知って、どのタイミングで、どんな感情なら、どんな選択なら―――。
足場は無情で、とても脆い。