四話 母の再婚相手
あの信長さまが亡くなったと知らせがあっても、すぐには皆信じられなかった。
そんな混乱の中、俺たちの命を脅かす脅威が迫っていた。
明智光秀による織田一族の殲滅である。
信長様のご子息信忠さまも、明智軍との戦いにより二条城で自害された。
とても有能な御子息であっただけに、信長さまと信忠さまの死は織田家の衰退の始まりともいえた。
大人たちが慌てて逃げる支度をしている中、俺は穏やかに過ごした清州城を離れるのが寂しくてたまらなかった。
小谷のように敵が目の前まで来ているわけでもなく、命の危機という実感がわかなかった。
清州城を出てからの決死の逃走劇は、予想以上に早く終わった。
中国地方に遠征していた羽柴秀吉が強行軍で飛び帰り、明智光秀を破ったのである。
明智の天下は一月ももたなかった。
明智軍が崩れ、大将の明智光秀が落ち武者狩りにより命を落としたことで、俺たちはやっと安全な日々が戻って来た。
だというのに、母と茶々の顔はすぐれなかった。
小谷城を破壊し父を死に追いやったのも羽柴秀吉なら、寺にかくまわれていた兄万福丸を見つけ出して串刺しの刑を執行したのも羽柴秀吉だ。
俺はてっきり小谷城は燃えて無くなったと思っていたのだが、実は燃えたのはほんの一部でほとんどが残存していたという。
なら残った屋敷などはどうなったのか。
秀吉は残っていた門や櫨を運び出し、自分の長浜城の一部にしたという。
「このような真似をされるなら、いっそのこと全て燃えてしまえばよかった」
吐き捨てるように茶々が言う。小谷城の記憶が残っている茶々からすれば、大事な思い出を辱められたようなものだろう。
母上も茶々に負けないくらい秀吉を嫌悪していた。
秀吉は農民の出でありながら、織田の姫である母に懸想しているという噂がある。
世が世なら、農民であった秀吉は大名の姫である母の姿を見るのも恐れ多いことであったのに。
その噂の真偽はどうであれ、そんな噂があること自体が母にとっては汚らわしかったのではないだろうか。
しかも。
「秀吉って、背丈は子供みたいにちんちくりんで、お顔は猿のようで、しかも信長さまから『ハゲネズミ』って呼ばれていたそうよ!」
侍女たちから秀吉の噂を聞いた江が、俺にこっそりと教えてくれた。
まだ小さい江の耳に入れないようにはしていたが、更に女好きで浮気症で女房泣かせだとも俺は聞いている。
チビでハゲで女好きな浮気者。
身分云々の前に、こんなのに好かれていると噂を立てられればそりゃ誰だって嫌だろうよと、男の俺でも思う。
そんな秀吉に攻められ自刃した我が父長政は、長身の母上が並んでも全く見劣りしない偉丈夫であり、しかも上品で優しい雰囲気も併せ持ち、身内びいきを抜いても容姿は大変よろしかったそうだ(母上談)。
なまじっか織田一族が皆、背が高くて美形だらけなために、俺たちも容姿に対する評価は自然と厳しくなっていた。
信長さまの死後、後継者の問題が勃発した。
信長さまの仇をとった秀吉が、織田家家臣の中で一番権力をもつようになりはじめていると聞く。
秀吉はわずか三歳の三法師さま、信長さまのお孫様であり、信忠さまのお子を次の織田家当主としてかつぎだしてきた。
わずか三歳の当主。
秀吉が実権を握るのは、幼い江ですらわかるほど明らかだった。
「これが恩義ある織田家にする仕打ちか! 農民ながら信長さまに見いだされて、城持ちにまでしていただいたというのにっ!」
子供らしい義憤で江が怒る。
だが俺と茶々は言葉もなく顔を見合わせた。
浅井家も俺たちの曾祖父が、300年以上も近江を治めてきた主君京極家に下剋上をして奪ったいきさつがある。
だから秀吉のこの件に関しては、織田家としては許せないものの、浅井家としてはあまり言えない立場であった……。
「どうして姉さまたちは何も言わないのですか! 悔しくないのですかっ!!」
「……あの、江さん。気持ちはわかるけど、そのことはあまり大きな声では……」
天真爛漫な江が怒るとけっこう手がつけられない。
江をなだめながら母上や茶々にちらりと助けを求めるも、母上たちは他に気になる事があり俺たちの喧騒に気が付かない。
清州城の会議では、母上の再婚も議題に挙げられた。
「まさか、秀吉が母上さまを娶るのでは……。秀吉は母上さまに懸想しているのでしょう? もう誰にも秀吉を止められるものはいないのかしら……」
会議が着々とすすむなか、俺たちの不安を代表するように江がつぶやく。
「いや、江よそれは絶対にない。秀吉はすでに正室がおる。もし母上が秀吉に嫁げば、側室扱いとなるのだぞ! 身分の低い正室の下に母上がつくなどありえぬ」
茶々は秀吉への嫌悪もあらわに語気を強める。
「…………」
俺も茶々に賛成して江を安心させてやりたいのだが、状況的に母上の嫁ぎ先が秀吉になるように思えてしょうがない。
今の状況は、秀吉が母上に懸想しているとか身分がどうとかそんな甘いものではない。
織田家の旧臣たちに反発をくらう秀吉が己の立場を確固たるものにするなら、織田の姫である母上は何が何でも手に入れておきたい駒となるのだ。
しかし母上を重要な駒として欲しているのは、もちろん秀吉だけではなかった。
織田家の家督を継ごうとする信長さまのお子、信孝さまが母上の縁談を斡旋した。
相手は柴田勝家、秀吉に対抗する派閥の一の権力者である。
このとき母お市三十六、柴田勝家は……なんと六十一だった。
茶々からの説明に、俺は思わず絶句した。
信長さまの好きだった敦盛にもある、「人間五十年」をとうに越している。
勝家どのは珍しいことに、一人目の正室を早くに亡くしてからずっと次の正室を娶らなかった。
普通正室の座というものは、空けばすぐに次の者をあてるのが常識である。
側室はいるのだから不思議なものだが、このおかげで母上は正室として嫁入りすることになる。
織田の姫としての体裁を保つことが出来るわけだが、秀吉に対抗するためなら、母上は側室の座でも受け入れただろうか。
茶々は『秀吉憎し』のためか、勝家どのびいきだった。
江にいたっては、
「母上様が浅井に嫁ぐ前から、勝家どのは母上のことを想い続けていたのよ。次の正室を迎えなかったのも、母上様を想い続けていたからよ!」
と侍女たちと盛り上がっていた。
どうして女は何事も色恋沙汰にからめたがるのか、そもそも十ほどの小娘に四十にもなる武将が懸想するなどとんでもない幼女趣味ではないかと呆れた。
しかしそれを口に出せば強烈なしっぺ返しをくらうので、賢明な俺はただ黙って聞くだけに徹していた。
ともあれ様々な思惑がからむなか、母と俺たちは柴田勝家どのの越前北の庄城へと移り住むことになる。
茶々十五、俺十四、江十一になっていた。