三話 素直になれない、なってはいけない
「初はあいかわらず小さいのう。ちゃんと食べているのか?」
小谷城が落ちたあの日、この世のモノとは思えぬくらいに恐ろしかった信長さまは、何と母上と俺たち姉妹を気にかけて何度か様子を見にきてくれた。
「どうれ、どのくらい大きくなったか抱っこしてやろう。初、こい」
「……あぅぅう……」
上座にてくつろいだ姿で座る信長様は、俺に向かって両手を広げてみせた。
俺たちに優しくしてくれるのは頭で理解しているのだが、あの日の記憶が鮮烈な俺はどうしても信長さまを前にすると身体がすくんでしまう。
万福丸が殺されてしばらく、母上は訪ねてくる信長さまに会うことを拒絶し続けた。
だが兄弟の情に負けたのか、一年ほどしてぎこちなさがのこるものの母上は信長さまと顔を合わせるようになった。
つい震える手で隣にいる母上にしがみついた時だった。
「おじたま~、ごぉをだっこぉ!」
最近とくにおしゃべりを始めた江が、したっ足らずな声を上げながら信長さまの腕の中に飛び込んでいった。
今日も信長さまは、お菓子やおもちゃを俺たちの為に持ってきてくれた。
食の細い俺の為に、栄養のある食べ物もよく持ってきてくれる。
父上が亡くなった時にまだ赤子だった江は、信長さまのことをお菓子やおもちゃをくれる優しいおじちゃんと懐いていた。
「はっはっは! 初はあいかわらず気が小さいのう! それに比べて江は大物じゃ!」
江を両手でたかいたかいしながら、信長さまは笑われる。
あの日の魔王が嘘みたいに、そこには子供好きな親戚のおじさんがいた。
もちろん隠し切れない威厳はあるけど。
信長様のご厚意は幼い俺にもしっかりとわかったし、そして信長様はそのご厚意を無理強いなさることもなかった。
江と俺をあやしながら、信長さまは茶々についてはあまり触れない。
父上の記憶が残る茶々にとって、信長さまは父上の憎き敵でしかない
今も茶々は母上の陰に隠れながら睨み付け、そして信長さまはそれを気付かないふりして江をあやしつづけた。
信長様とお会いするのはとても怖かったけど、それでもどこか暖かいようなくすぐったいような思いもあった。
もしかしたら俺は信長様の優しさと恐ろしさから、父を求めていたのかもしれない。
そういえばある日、信長様は俺と江にままごと道具を、茶々に櫛をくれたことがあった。
茶々のは玩具ではなく、つるりとした輝きから子供ながらに高価なものだとわかった。
茶々は「こんなもの……」と顔をしかめ、その櫛を身に着ける事はなかった。
だけど一人でいるときに、大事そうに櫛を撫でながら眺めていたのを俺は知っている。
だから口には決して出さないけど、茶々も俺と同じ気持ちなんじゃないかと思っている。
信包様の屋敷で、俺たちは琴や読み書きなど姫君がうける教育をいろいろと受けさせてもらった。
浅井の残された一族として、どこぞに嫁ぐときのためなんだろう。
だけどどんなに女と偽っても男である俺がこんな練習をして、一体どうなるのだろう。
そんな思いからどうしても練習に身が入らない。
今日もお稽古の先生に怒られ、すねた俺はつい茶々にぐちった。
「男のわたしがこんなことしてどうなるっていうの。まさか本当にどこぞに嫁ぐわけにもいかないでしょう? この年にもなれば、嫁ぐってのがどういうことかわたしだってわかるもん!」
嫁に行くということは嫁ぎ先では人質、生国では情報をもたらす間者の役割がある。
いずれ信長さまの手駒として、どこぞの大名に嫁がされるのだろうか。
そうなれば嫌でも男とわかるだろうし、嫁がなくてもいずれ男とばれて処刑されるかもしれない。
いつもそんな不安を抱え、幼い俺は密かに内に溜めることもできず、その度に全てを茶々に打ち明けていた。
「初、大丈夫。認めたくはないが、信長さまは私たちのことを大事にしてくれている。そうでなければ、母上はとっくの昔にどこかに嫁がされているはず」
俺がぐちるたびに茶々は優しい姉の顔になって、俺を抱きしめた。
「初がどこにも嫁ぎたくないと言えば、きっと叔父上は願いを聞いてくれる。尼になって密かにお父上を弔っていれば、いずれかは男に戻って浅井の家を……」
「茶々」
母上の底冷えした声に俺たちが顔を上げれば、険しい顔をした母上が佇んでいた。
母上は茶々を睨むだけで何も言わなかったが、その顔は「下手なことを口に出すな」と雄弁に語っていた。
茶々はいつも俺を慰めると同時に、俺が浅井の嫡男としてお家復興させることを説いた。
その話が出るたび、俺と茶々と二人で隠れて話しているはずなのにいつも母上が現れて釘を刺す。
母上からすれば、幼い二人がこそこそとしていれば何かよからぬ話をしていると予想するのは容易だったのだろう。
茶々は母上からの叱責に唇をかみしめてうつむいてしまう。
俺はいつも茶々をかばおうとするのだが、そもそもの語彙がないために口をつぐむしかできない。
それに顔を伏せた茶々を見つめる母のまなざしは、いつも怒ったものではないのだ。
憂いと慈悲のこもったどこか悲しいものなのだ。
当時の俺はまだ人の機微がわからず、目の前で幾度と行われた茶々と母の無言のやりとりに首をかしげることが多かった。
だけど大人になってから思い返せば、茶々は幼くして物分かりが良すぎた。
父の敵としてただ織田を憎めばまだ楽だったろうに、母の境遇、信長さまのご厚意、そして俺や浅井の家の復興までも理解し、その小さな肩にいろんなものを背負い込んでしまっていた。
母はそんな茶々を哀れに思い、そして愛娘の重荷を取り除けない自分を責めていたのかもしれない。
茶々と母上の苦悩や、男とばれぬようにふるまう俺の怯えなどあったものの、間違いなく清州城にいた九年間は、俺たちの人生の中で最も平穏で穏やかな時であった。
やがてその時は終わりをつげる。
天生十年、本能寺にて明智光秀の謀反により、織田信長自刃。
後にいう本能寺の変である。
俺が十二の時だった。