二十四話 誘う狸と受ける狐
徳川連合軍が大津城を出立する際、京極家家臣の老臣山田良利が付いていくことになった。実質的な人質である。
ちなみに側室山田の方と同じ氏であるが、一応そこと親戚筋ではない。
高次どのや高知が産まれる前から京極家に仕えていたご老体、戦に駆り出すわけではないが丁寧に扱っていただきたい。
俺の心配をよそに山田良利は「ほっほっほ、奥方さま心配なさいますな。行軍の間は高知さまの世話になりますゆえ。いやはや高知坊ちゃまとまたこうして共におる日が来ようとは!」と笑い飛ばしてくれた。
高知のほうが「お手柔らかに……」と苦笑いしているぐらいだったので、道中の心配はないと思いたい。
別にうちの老臣を気づかったわけではないが、徳川軍の一行はずいぶんとゆっくり東海道を下って移動した。
途中で鷹狩すら楽しみながらの行軍だったという。
七月二日にようやく江戸城へと入り、七日に諸将を召集して出陣のひどりを二十一日と定めた。
徳川軍の出立を見守った後、高次どのは大阪へと戻っていった。
ただいつもと違い「すぐに戻るゆえ、何が起きても俺が帰るまでは動かぬように」そう言い残して行った。
やはり家康と二人きりで密談したことに関係するのだろうか。
不安になり留守組の家臣に何か知っているか聞いていみたが誰も知らず、「家康公と直接言葉をお交わしになったのは奥方さまでは……」と逆に聞き返されるしまつだった。
徳川軍が上杉討伐のために会津へと出発し、京都や大坂が留守になったその時。
近江、しかも京極領の隣で「家康討つべし」と立ち上がった者がいた。
その者、石田三成。
彼は自分の城で蟄居していたが、同志を集め、逐一外の状況を把握して家康を滅ぼすときを狙っていた。
三成の居城である佐和山城では水面下でいろいろと事がすすめられていたらしいが、世間がこの三成挙兵を知るのは次の日に起きた事件がきっかけだった。
十三日、三成の兄・正澄により突如近江愛知川の関が封鎖された。
これにより徳川の会津遠征にあとから参加しようとした大名たちが足止めされることになった。
更に三成は、会津遠征で留守中の大名たちの妻子を人質にするために大阪城へ集めようとした。
遠征中の大名たちの寝返りを狙ったこの計画、確かに理にかなっている。
戦に綺麗ごとなど無用とは思うが、それでも人の心、義や仁をおろそかにするべきではなかった。
加藤清正の妻、黒田如水親子の妻らが大阪から決死の脱出をはかり帰国。
細川忠興の妻ガラシャにいたっては人質になることを拒んで自決、更に屋敷に火を放って抵抗したという。
近江大津城では、ガラシャ自決の報せに龍子どのが泣き崩れた。
ガラシャどのは明智光秀の娘、龍子どのは嫁いでいた武田家が明智家家臣であったため面識があり、更にガラシャの夫が豊臣家家臣なので大阪でも親しくしていたという。
「珠子さまは謀反人の娘として、嫁ぎ先の細川家で大変苦労をされていました。救いを求めて耶蘇教徒になったというのに、このような死をお迎えになるなんて……」
涙の止まらない龍子どのの背を撫でながら、ガラシャの最期を想う。
彼女の信仰する耶蘇教は自害を禁じているため、彼女は家臣に己の胸を槍でつかせて命を絶ったという。
このガラシャの悲劇の影響はとても大きかった。
共に大阪で過ごした大名たちの妻女は嘆き悲しみ、民から大名に至るまで人心は三成から離れていった。
寝返りを狙ったはずの遠征した大名たちは、三成のこの仕打ちに逆に結束を深めたという。
更に京極家は領地の位置に問題があった。
京極家と三成の領地は隣り合っており、更に三成に同調した長束正家・増田長盛・前田玄以の領地とも隣同士なだけでなく完全に囲まれる配置となっている。
手段を選ばない三成の魔手がいつ迫ってくるともしれず、今までの三成に対する鬱憤もあって当主不在の大津城はこれ以上ないくらい殺気立った。
三成はこれを「豊臣家のため」と声高に叫び豊臣家の後ろ盾を求めたが、この動きに茶々は驚きそして許さずこれを謀反とした。
茶々は五大老であった家康と毛利輝元に謀反を抑え込むように書状を送った。
豊臣家から「三成謀反」の報せが出たとき、幾人かの大名は違和感をもった。
どうしてあの切れ者の三成が、擁護するはずの豊臣家に許可をもらわずに挙兵してしまったのか。
肝心の豊臣家から逆臣と呼ばれている現状からすれば、三成の暴走にしかならないではないか。
実はさかのぼる事七月五日、大老中で最も豊臣擁護の宇喜多秀家が、京の豊国神社で出陣の儀式を行っている。
京と近江領が近いからこの情報はけっこう早くに入って来ていたが、当時は何のための必勝祈願なのかわからなかった。
早くから三成が宇喜多秀家に声をかけていたのなら納得はできるのだが、それにしても早すぎないか……?
しかもその二日後には北政所さまの使者を伴い、秀家の妻が神楽奉納を行っている念の入用。三成が声を上げる半月も前に北政所さまにまで声をかけているなんて……。
もしかして、打倒家康を掲げたのは宇喜多秀家?
三成はせっつかれた挙句に蟄居していた身から表に出されて、一連の計画が後手後手にまわったとか……。いやいや考え過ぎか。
家康は会津遠征の途中ですぐには戻ってこれなかったが、安芸の毛利輝元が茶々の要請に応じて十六日に大阪城へ入城した。
これで三成の謀反はすぐに収束すると安堵したのだが、実は輝元、三成から家康討伐軍の総大将なるように要請を受けていた。
毛利輝元は家康に次ぐ大名であり、茶々も三成も彼に頼るのは当然の結果ともいえた。
果たして輝元は三成方を支持した結果、なんと大阪城は三成軍の総大将がいる本陣となってしまった。
三成方が大阪城を拠点としてしまった為、世間は豊臣家が三成を建てたと勘違いした。
だが実際は逆で、豊臣家が正式に書状を出して命令を下したのは家康なのだが、目に見えぬ書状よりもわかりやすく大阪城を拠点とした三成の策ともいえた。
それに輝元が大阪城で総大将の名乗りを上げた後、茶々および豊臣家はこの占拠ともいえる行為に対し何の非難も発しなかった。
輝元たちは秀頼を擁するために立ち上がり秀頼に関しては丁重に扱ったので、別に命の危険を感じて黙っていたわけではない。
これにより豊臣家は中立派として、豊臣家臣同士の争いを見守っていく立場となる。
毛利輝元が総大将となった次の十七日、挙兵宣言をして家康の豊臣家に対する数々の罪状を列挙した「内府ちかひの条々」を上げた。
これを機に西国の大名を中心に九万五千の兵が集まった。
家康率いる東国の戦力を圧倒的に上回っており、確かに三成の計画は成功したといえる。
しかし何度も言うが、三成はあまりにも人心をおろそかにし過ぎた。
多くの兵を集めたがすべてが「家康打倒」を掲げて集まったわけではなく、たまたま大阪にいたり関で足止めをくらったのでやむなく参加した大名などさまざまだった。
総大将の毛利輝元にいたっても、毛利一族の中で家康がたと三成がたにわかれてもめている有様だった。
この頃に高次どのも大阪にいた家臣やその妻子を引き連れ、大津城へ帰って来た。
殺気立った大津城内で辟易していた俺は、久しぶりに帰って来る高次どのを内心ほっとしながら出迎えた。
「…………」
だが帰って来た高次どのは、その場にいた誰よりも殺気立っていた。
いつも俺をからかう時の飄々とした姿はどこにもなく、まるで戦場のさなかにいるよう気迫にかける言葉がなかった。
高次どのは帰ってくるなり湯浴みもせぬまま、本丸に家臣たちを集めた。
「家臣一同心を入れ城の防御を固め、戦支度を始めよ」
高次どのの言葉に、城内はついに石田三成を倒す時がきたと喜び歓声を上げた。
確かに豊臣家が今は沈黙を守っているとはいえ、一度「三成は逆賊である」と達しが出ている以上、家康につき三成を討つのは正しいと思う。
だが大津城の周りは三成方に囲まれている上、城の構造も砦としての機能はなくあまりにももろい。
挙兵したが最後潰されるのは目に見えている。何か策でもあるのか。
そこまで考え、高次どのがいつ、どこで、誰と戦うのかは口にしていないことに気が付いた。
「挙兵はせぬ」
沸き立っていた家臣たちが一斉に口をつぐみ高次どのに注目した。