二十三話 お一人にこにことお笑ひ御座なされ候
慶長五年(1600年)
豊臣五奉行も二人が失脚させられ三奉行となり、五大老の前田家が力を失ったなかで迎えられた正月。
上杉景勝は昨年の夏、越後から会津へと大幅な加増したうえで領地を移動しており、家臣が足りていない上に移領してすぐに大阪へと上京したため内政が滞っていた。
更に会津の周りには敵が多く不安定な状態であったため、自領平定をしに会津へと戻っていた。
そんななか昨年末あたり、会津から「景勝謀反の疑いあり」との知らせが次々に届くようになった。
家臣を増やし軍備を強固にしているのが根拠だという。
上杉領の状況を考えればそれは当たり前の動きだと思うのだが、家康は景勝に上洛して申し開きせよと命じ上杉家はこれを拒否した。
景勝の参謀の直江兼続も家康に手紙を送って抗議したという。
この一連の流れに世間が「前田家の次は上杉家か」とささやきだした六月。
家康は大阪城に各武将を集め、上杉家討伐のための部隊編成をした。
高次どのはこれに参軍しなかったが、弟の高知は参軍していると聞いた。
「高知どのは徳川家につき、高次さまは豊臣家につくということになるのか……?」
誰もいない部屋で独り呟く。
下手をすれば兄弟で敵どうしになるということだろうか。
家督争いで親兄弟同士が殺し合うことは多く、信長さまも弟を、高次どののお父上も兄弟どうしで、秀吉は甥の秀次を、と決して珍しいことではない。
だけど京極家は仲の良い兄弟であり、本人同士が憎み合っているわけでもないのに戦うことになればその心痛はいかほどのものか。
近江大津城には龍子どのもいる。
あくまで今回の戦は上杉討伐のみで終わってほしいと願うばかりだった。
部隊編成を速やかにすませ「上杉家は謀反を企てている」と会津討伐に攻め込むかと思いきや、大狸は狡猾だった。
このまま徳川家が上杉家を攻めれば、それは五大老どうしの私闘にしかならない。
実権を握っているとはいえあくまで家康の身分は豊臣家の家臣である。
七歳の秀頼から上杉討伐の許可をもぎとり、豊臣家から命を受けたという体裁を整えたうえで家康は大阪城を出て伏見城に入った。
軍をそろえた後に「豊臣秀頼さまから命を受けた」など、順が逆ではないのかと思うが誰もそんなこと口に出さない。上杉家の巻き添えになりたくないからだ。
六月十八日、徳川軍が会津遠征へと出立した。
そして京都を出た徳川家康は大津城に立ち寄った。
「どうぞごゆるりとおくつろぎ下さい」
俺は広間で龍子どのや侍女たちと、徳川家の家臣たちを接待していた。
家康は高次どのとわざわざ別の間を用意して二人だけで何やら話をしている。
「近江の魚もなかなかうまいものですな」
「ありがとうございます。これは『ほんもろこ』と申しまして、近江の湖にしかおらぬ魚でございます」
「ぬぉおお、これは何と臭い! だが酒がすすむ!」
「こちらはふな寿司と申しまして、人によって好き好きがございますが酒の肴としては一品でございます」
「はぁ、このシジミ汁は五臓六腑にしみわたりますなぁ……」
「近江のシジミは絶品でございます」
(あぁ面倒くせぇ……。こっちはそれどころじゃないってのに!)
くつろいで酒を呑んだり料理をつつく武将たちの相手をしながらも、二人が何を話しているのか気になってしょうがない。
まさか高次どのに会津遠征へ参軍しろとか言っているのだろうか、それとも軍資金をよこせとか言っているのだろうか。正直言ってまだ大津城は昨年の地震で壊れたままの箇所がまだいくつもあるが、朝鮮遠征なども重なり資金が足りずに追いついていないのだ。
家康にくれてやる金なんて……。
「――うえ、義姉上」
「あ……、あ!」
自分を呼ぶ声に我に返れば、徳川家の家臣に混じっていた高知が苦笑しながら俺を見ていた。
家康が高次どのにどんな無茶をふっかけているのかと上の空になり、接待がおろそかになっていることに気づいて慌てて高知のそばに行った。
「高知どの、何かおかわりでしたか? 気づかず申し訳ありません!」
「いえいえ義姉上どの、徳川どのは兄上を高くかっております。そのようにご心配なさいますな」
高次どのをもう少し若くして丸くした高知の笑顔を見ていると、いろいろな心配で凝り固まった心が少しほぐされるような気になる。
高次どのと龍子どのが上品でどこか感情を見せない笑みを浮かべるのにたいし、この素直な弟君の笑みは純朴でどこか人をほっとさせるものがあった。
少し余裕をとりもどした俺は、ふと高知どのの近況を思い出した。
「あぁ、高知どの。昨年は男児が産まれたそうで、真におめでとうございます」
「これはこれは。その節は見事な贈り物の数々ありがとうございました」
実は高知の長男は産まれてすぐに亡くなっており、昨年ようやく次男が産まれたのだ。
年を越して半年となるが、今度の子はすくすくと育っているようでうちの熊麿とそろって京極家の跡継ぎは安泰と安堵したものだ。
しばし緊張を忘れ、高知と身内話に花を咲かせていると。
「奥方さま、お屋形様がお呼びにございます」
高次どの付の小姓が呼びに来た。
途端に全身が緊張でこわばる。
高次どのの元に行くということは、客である家康に引き合わせるということだ。
先の江の件もある。家康が憎いし怖いし、大広間で他の家臣たちと一緒に挨拶をするならまだしも限られた数人で顔を合わせるとなれば……。
自分を保っていられる自信がはっきり言ってない。
しかし俺は京極家の正室。泣き言を言ってもはじまらない。
「わかりました。参りましょう」
血の気が引き冷たくなった手をぐっと握りしめ、広間の武将たちに挨拶をすると家康と高次どのが待つ部屋へと向かった。
「初さま、大丈夫。大丈夫ですからね」
よっぽど悲壮な顔をしていたのか、俺と一緒に呼ばれた龍子どのが歩きながら背中をさすってくれる。
「龍子どのが一緒にいてくれるなら、心強いです……」
気を緩めれば涙がにじみそうになるのを必死にこらえ、小姓の案内で部屋の中へと招かれた。
久しぶりに見る家康は、小物のなりをひそめ齢を重ねたこともあって貫禄があった。
(確か五十八だったか、いつ寿命がきてもおかしくないというのによくもここまで派手に立ち回るものだ)
家康に頭を下げたまま心の中で毒づく。
できればこのまま頭を下げ続けていたい。目を合わせれば笑顔を取り繕うことができるかわからない。
「そのような堅苦しい挨拶は抜きにいたしましょう。初さまはかつての主君織田の血を引くお方。田舎大将のそれがしなどとるにならぬものでしょう」
「まぁ、恐れ多いことでございます」
(けっ、よくもしゃあしゃあと抜かしよるわ)
笑顔で返事ができたと思うのだが、こめかみが痙攣してしょうがない。
「ときに妹君のことであるが――」
家康が江のことを口にした途端、全身の毛が逆立つような怒りを覚えたが必死でこらえる。知らず歯をかみしめたようで、口の中に鉄臭い味が広がった。
「頼りない我が息子秀忠を支え、よく尽くしてくれておりますぞ」
「そうでございますか、それは安心いたしました」
(お前さえいなければもっと良い夫婦だがな!)
「だが先の姫が産まれた際、わしがふともらしたことが人伝いに歪められて伝わったようでな。女児であったかと呟いただけであったのに、尾ひれはひれがついたあげく何やらお市さままで侮辱したようなことになっておるらしい。そのような恐れ多い事わしにはとてもできぬよ」
そこで家康はかかっと笑ってみせた。
内容が内容なだけにお追従で笑いかえすわけにもいかず、俺は家康の続きをうかがった。
奴は愛想のよい笑顔を浮かべると、何のてらいもなく俺に頭を下げてみせた。
「そこで初どのに頼みがあるのだが、妹ぎみに誤解であることを伝えてもらえぬかの」
「……わたくしが、ですか?」
「うむ。妹ぎみは烈火のごとくお怒りでの、特にお市さまと側室云々のことでは鬼神母神もかくやという様子でとりつく島もない。秀忠なんぞは江どのの怒りように怯えてしもうて役にたたん。さすがは織田の血をひく姫君といったところかのう……。わしが直接言うよりも、初さまからのほうが納得いくであろうて」
「はぁ……」
家康からの頼み事なんて絶対聞きたくない!
だけど家康の話が本当かは知らないが、誤解であり家康が謝っていたことを知らせれば江の荒れ狂った心も落ち着くだろう。
そうだ、これは家康のためにするんじゃない。江のためにするんだからな!
ぜっったい家康の頼みごとなんか聞くもんか!
内心舌を出していると、話に一区切りがついたと控えていた高次どのが口を開いた。
「初よ。家康さまはこの大津城の修繕にと、白銀三十貫文をくださったのだ」
「え!? そ、それは真にありがとうございます」
てっきり軍資金をよこせと言ってきたとばかり思っていたのに、逆にくれたことに驚いた。しかも家康の江戸城はまだ築城の途中でほうりだされた形となっており、天守閣もない城の周りは野生の梅林や竹やぶに囲まれていると聞く。
正直よその大津城を気にかけるより自分の江戸城をどうにかしろよ、と思った。
まさかこの白銀三十貫文に恩を売って京極家に無理難題を焚きつけてきたのではと疑いもしたが、高次どのの様子からして特に問題はなさそうだ。
その後も古だぬきを前に緊張しきりではあったが、部屋の中は和やかな感じで話がすすんでいた。
家康と高次どのの密談の内容に頭をまわす余裕なんて、俺にはなかった。
副題は、家康の侍医・板坂卜斎が記した『慶中卜斎記』の一節です。
会津出兵が予定通りすすみだした十七日の家康の様子を
『千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌よく四囲を御ながめ、座敷に立たせられ、御一人にこにことお笑ひ御座なされ候(お一人でにこにことお笑いになっておられました)』と記しています。
上杉討伐を目的とした会津出兵は家康の天下への布石の一つでしかないのですが、予定通りに事をすすめた狸爺が、豊臣家の権力の象徴のひとつである千敷畳の間を眺め、ふと会心の笑みをもらしたということです。
これを読んだときぞぞっと寒気がしました。
まさに「計画どおり……っ!(ニヤリ)」のあの笑みではないですか! こえぇぇ……。