二十二話 家康包囲網、瓦解
中立派であり家康の監視役であった前田利家どのが亡くなってから、事態は予想以上に早く動いた。
何と利家どのが亡くなったその次の日、加藤清正や福島正則を始め七人の豊臣家臣が石田三成を襲撃したのだ。
しかし三成も切れ者、事前に襲撃を察知しており伏見の自分の屋敷に逃げていた。
そのまま三成は大胆にも敵対していた家康に助けを求め、家康もこれを受け入れた。
派閥の長ともいえる家康に諫められればそれ以上強行することもできず、三成襲撃事件は終息した。
だがこの事件の責任をとり、三成は一旦自分の城である佐和山城へ蟄居となった。
この件で家康とともに仲裁に入った北政所さまは大いに悲しんだという。
片や秀吉が才を見込んで政を任せた武将、片や自分たちが子供の時から育ててきた武将たち。その双方がまさか命を狙うほどに憎しみ合うとは。
北政所さまはこの事件をきっかけに半年後には大阪城を出て、京都の新城へと移った。
夫は死に、息子として可愛がっていた者たちの暴走に疲れ果て、祀られている秀吉の側にいたかったのだろう。
彼女が京都に移ってすぐ、福島正則・加藤清正・浅野長政らが「おね様へ」と高台寺を建てたが、そこに住みだしてからも秀吉の眠る豊国神社へ毎日のように通っていたという。
そして北政所さまが出て行った大阪城西の丸には、徳川家康が入城した。
家康は三成失脚後に京都でも伏見城本丸へと移っている。
政の全てを掌握したも同然だった。
この件に関して、側室でありながら豊臣家の実権を握る茶々が北政所さまを邪険に扱ったため、北政所さまは茶々に対抗するために家康を大阪城に呼んだなどというでたらめな噂が流れた。
もはやすべての悪いことは茶々にかぶせる状況になっており、逆らえない大きな流れとなって全てを飲み込んでいた。
あまりに大きな流れであったため、それを裏で利用している者がいることを誰も気づけないでいた。
利家が亡くなり空いた大老の座には利家の嫡男、利長が就いた。
更に利長は秀吉の遺言に従い、利家が就いていた秀頼の養育係も継ぐことになった。
このとき利長三十七歳。
戦国時代に息をひそめて生き抜いた大狸の前では、赤子も同然だった。
亡き父利家から三年は秀頼の側を離れないように言われていたのに、利長は家康のすすめで長く当主不在となっていた金沢に一旦戻った。
そして大阪不在の間に、家康暗殺を企てていたと主犯として糾弾された。
「いやいやいや、何で金沢にいるのに暗殺なんて企てられるの? 言いがかりにもほどがあるでしょう!」
俺は周りの侍女や家臣に同意を求めたが、彼らの反応はいまいちだった。
世間ではいまや家康こそ正しく、彼のすることを批判するものこそ悪という風潮なのだ。
ましてや京極家は、元は近江の寺小姓であった三成を毛嫌いしている。
豊臣と縁も深く家康が個人的に嫌いな俺は、この京極家で孤立していた。
そんな俺を見かねたのか龍子どのがそっと寄り添ってきた。
「初さま、お気持ちはよくわかります。わたくしも豊臣の室、徳川どのの一連の動きには眉をひそめるものがあります。しかし今徳川どのを声高に批判すれば、この京極家に危害が及ぶかもしれません。徳川には忍びの者も多くいるようで、どこに耳があるかわかりませぬゆえ……」
「龍子さま……」
そこまで言われればぐっと押し黙るしかない。
思い返せば身近な人たちとの距離を感じ、少し冷静さを失っていたかもしれない。
なんだかんだ言いつつ今までは、俺の後ろ盾は天下の豊臣家であったために自覚せずにおごっていたかもしれない。
自分の失言でお家が危険にさらされるかもとは考えもしていなかった。
「……申し訳ありません。京極家の室として、あまりにも自覚が足りませんでした」
そう龍子どのに頭を下げれば、龍子どのは目を見開いた後ふわりと笑って俺を抱きしめた。
「いいえ。大阪に残る茶々どののことを考えれば、初さまが憤慨されるのも当たり前のこと。茶々どのも、初さまや江さまのことをそれは想っておられました。このように想いあう姉妹ですもの、わたくしはとてもうらやましゅうございます」
龍子どのの柔らかい声と優しく包み込むような上品な香りに、俺のささくれだった心がちょっと癒される。
だがそれが龍子どのの香の匂いだと気が付き、いくら女人の恰好をしていようが男の俺がよその人妻と身を寄せるのはよろしくないと身体をそっと離した。
龍子どのは身体を離した俺の顔を覗きこみ、再び微笑んで見せた。
「大丈夫ですよ初さま。豊臣家を支える家臣はたくさんいますとも。茶々どのの周りも頼もしい者たちばかりですよ」
「ありがとうございます」
龍子どのも茶々や秀頼のことを心配してくれてるとわかって、なんだかほっとした。
考えないようにはしていたが、一時期は龍子どのが「秀吉の寵愛を奪い、家柄が自分より低いにも関わらず側室の頂点に立った茶々を憎んでいる」という噂が流れていたこともあり、同じ大津城にいながら何となく顔を合わせづらかったのだ。
俺と同じく豊臣家をこの近江から支えようとしているとわかり、彼女を見習ってどしっと構えて状況を見守ろうと決意した。
糾弾された利長は仰天し金沢で一旦兵をそろえたが、生母である前田まつ殿が自ら徳川へ人質として赴くことで事なきをえた。
家康の思い通りにはならないとほっとしたのもつかの間、この件により「家康の監視役」であった前田家は家康の配下となってしまった。
更に家康暗殺計画の共犯として、五奉行の一人であった浅野長政が失脚させられた。
徳川家康に敵意を示せば潰される。
短い間にこんなにも家康包囲網は簡単にくずされた。
龍子どのにいさめられてなければ、俺の失言ひとつで京極家が睨まれていたかもしれない。
俺は茶々と秀頼を支持する豊臣派だが、同時に徳川家の嫁である江の姉でもある。
徳川家と縁のある俺のおかげで京極家は安心だ、と最近家臣たちからの安堵の視線が痛い。
それがますます俺と京極家家臣たちとの温度差を広げていくのだった。
さかのぼる事六月、江が秀忠の二人目の子を産んだ。
女の子で幼名を子々姫と名付けられた。
俺としてはまず母子ともに無事であったことを喜んだ。お産が命がけであるのはもちろんのこと、江は完子を入れれば三度目の出産となる。
お産をするたびに女人の身体というものは衰えるため、出産を重ねるごとに危険は増すのだ。そのため妻一人につき一子という家も多かった。
だが周りはまたも江が跡継ぎの男児ではなく、女児を産んだことに落胆を隠さなかった。
しかも江からの手紙には、家康が我らの母上さまのことまで持ち出して「女腹の家柄か」と口にし「女児しか産めないのであれば、秀忠に側室をめとらせる」とまで吐き捨てたとあった。
何という侮辱か! 何という屈辱か!
江の手紙は感情の乱れをあらわすように、ところどころ滲み歪んでいた。
今すぐ江の元へかけつけたいが、この状況で江戸城へ行けば京極家の人質にされてもおかしくない。
ならばせめて手紙に感情のすべてをぶつけたいが、家康への罵詈雑言を書いた手紙が誰の目にさらされるかもわからない。
何度も何度も書き直したあげく「茶々姉さまは男児を二人もお産みになったのだ。江だって立派な男児を産める。だが無理はいけないよ、とにかく今は身体を休めてください」などと無難なことを書き連ねて送った。
茶々のことを引き合いに出したが、十二月になってこの男児のことで不名誉なうわさが流れだした。
曰く「淀どのが産んだ二人の男児は太閤殿下のお子にあらず。これらは淀どのの不義の子である」と。
これについては一人目の鶴松の時から密かに囁かれているのは知っていた。
秀吉は北政所さまをはじめ幾人もの側室がいたにもかかわらず、一人も子ができなかったのに茶々がいきなり男児を産むのはおかしいと。
だがあまり世間に知られていないが、秀吉が出世する前に側室との間に男児が一人産まれているのだ。この男児は幼いうちに亡くなりその母親も後を追うように儚くなってしまったが、確かに二人の墓が実在している。
だから茶々が男児を産んだことは何もおかしくないし、そもそも秀吉が生きている頃はその狂気じみた嫉妬を恐れて誰もが口をつぐんでいた。
それなのに大っぴらに流れ出したこの醜聞。
しかも相手はあの石田三成だとか、茶々の乳兄弟である大野治長だとかまで噂された。
秀吉がいない今は誰もお咎めを受けることもない、ただの噂。
誰が言い出したかもわからない、根拠のないいい加減な噂。
だがこんなうわさが流れること自体が、豊臣家の衰退を大きく世間に知らしめることとなった。