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十九話  豊臣の若君と徳川の姫

地震の記述がありますので苦手な方はご注意ください

 


 文禄五年、秀吉と拾松が皇室に初入内した。

 各大名たちが勇壮な騎馬隊をつくり、お付きの者たちも地の果てまで続くのではないかというほどずらりと並んで歩く中、秀吉と拾松はまるで殿上人のように優雅に牛車に乗って参内した。

 それはそれは後世に語り継がれるような見事な行列だったという。


 秀次の件からまだ一年も経っていない。

 わずか四歳の世継ぎ人の行列に、人々はどのような思いで頭を下げていたのだろうか。




 華々しい入内から二ヶ月後のこと。

 近江大津城は今まで経験したこともない大地震にみまわれた。 


 子の刻(深夜0時)のことで、眠っていたところをものすごい揺れで叩き起こされた。

 幸いなことに熊麿は無事だったが、城の一部が破損、屋敷のいくつかが倒壊しけが人も多く出た。

 城下でも多くの家が倒壊したと報告を受けたが、深夜だったこともあり火事の被害はほぼなかった。

 高次どのは大阪の屋敷におり安否が気遣われたが、とにかく大溝城を取り仕切る正室として、城内や城下のけが人の救出や避難の指揮をとりながら夜を明かした。


 一夜明けて、大津から大阪の様子を確かめに早馬が出た。

 朝日に照らされた城や城下のありさまはひどいもので、壊れた瓦礫の撤去や、寺院に身を寄せた町民への食料提供など、震災後の対応に数日はかかりきりとなった。


 数日後に戻って来た早馬の使者により、今回の地震が予想以上の大きいものであったことが判明した。

 今回の地震は京都伏見を中心に起こっており、大阪、兵庫、近江にも被害がでるほどの大きいものだった。


 地震の中心である伏見城の被害は大津の比ではなく、堅牢なつくりの天守閣は倒壊、武家屋敷も城下の建物もほとんどが倒れるなど壊滅状態となった。

 元々伏見の地は城を建設する以前より地震が頻発しており、秀吉は地震にそなえて伏見城をつくらせたはずだった。

 だが今回の地震はそれすらも上回る大規模なものとなった。


 秀吉をはじめ茶々や拾松は伏見城内にいたが、多くの死者が出る中奇跡的に無事だった。

 夜が明けてすぐに伏見の木幡という土地に仮の屋敷を建てさせ、そこでしばらく過ごしたという。


 伏見の大地震の前日には豊後、その二日前には伊与で大地震が起きており、日本各地で地震被害が相次いでいた。

 そして地震被害からの復興も進まぬなか大きな嵐が各地を襲い、特に伏見は河川が氾濫して更なる被害にみまわれた。


 この度重なる天災に人々は、『関白殿下秀次さまの祟りだ』と恐れおののいた。

 奇しくも伏見の大地震が起きたのが七月十二日、秀次が切腹したのが七月十五日であり、偶然と笑い飛ばせるような剛の者はなかなかいなかった。

 秀次の祟りを恐れたのか否か、度重なる天変地異のために朝廷は元号を『慶長』と改めた。



 秀吉は仮の屋敷として暮らしていた木幡に再度伏見城を建築するように命じ、同時に大阪城に千畳敷きという広間を作らせた。

 実は大地震の時、伏見城には明からの使者が講和の交渉をするため滞在していた。

 使者たちは無事だったが、謁見の場となる伏見城はそれどころではなくなったため、改めて九月に大阪城で行われた。

 大舞台を用意して行われた交渉は、そもそも講和する気がないのかというほど秀吉が無茶な要求を行い決裂。

 再出兵が決まった。


 この再出兵が決まったとき、高次どのの顔は渋いものだった。


「此度の地震で城や城下の修復にあてる資金も厳しいというのに、更に出兵に備えるにはかなり厳しいものがある。我が軍は大陸に渡らず備前名古屋城で留守をしていたからまだいいが、大陸に渡って戦った他の軍では更に難しいのではなかろうか……」


 それでも秀吉に出兵を諫めるものは出なかった。

 いや、漏れ聞こえなかっただけで実際にはいたのかもしれないが、二度目の出兵は度重なる天災に疲労した諸将を更に追い詰めることとなる。




 同月、長崎で耶蘇(キリスト)教の宣教師や信者二十六名が処刑され、耶蘇教禁教令が発令された。

 以前から耶蘇教信者が寺院を焼き払ったり僧侶を迫害したり、なかには民を奴隷として海外へ連れ出されていたことも発覚し、そのたびに秀吉は耶蘇教を取り締まるように命を発していた。

 だが南蛮貿易の利を欲した秀吉はそこまで厳しく取り締まってはいなかったのだが、今回は違った。


 自領で耶蘇教の布教を許可し、自身も耶蘇教の信者である切支丹(きりしたん)大名たちも厳しく罰せられることとなった。


 実は京極家、高次どののお母上がマリアという洗礼名で熱心に布教活動をされているのをはじめとし、鬼籍の父高吉さま、弟高知、妹マグダレナ、そしてもう一人の妹と切支丹一家だったりする。

 一体妹たちがお義父上のいくつの時の子かなんて、もう気にしない……。

 今までお母上の布教活動を見て見ぬふりをしてきた高次どのだったが、今回はまずいとばかりにお母上に大人しくするように手紙を送った。

 布教活動で大阪や京を転々と回っておられるお母上の居所を、高次どのが把握できていたことに俺は驚いた。

 高知も自分の領地での耶蘇教を禁止し、自らも切支丹をやめて改宗したという。

 これにより京極家にお咎めはなかった。


「あのお母上が、いつまで大人しくできるかわからない……」


 高次どのが何か不穏なことを呟いていたような気がするが、とりあえず聞こえないふりをして胸を撫で下ろしたのだった。


 


 九月、拾松と茶々が大阪城に移り、翌月の十月。

 拾松の元服(成人)の儀が行われ、秀頼の名が授けられた。

 しかし元服とは本来十二から十六の間で行うものだが、秀吉は拾松をわずか四つで元服させた。

 あまりにも早い元服に、周りの者はこれほどまでに秀吉が焦っているのかと思い知らされた。


 早いと言えば、秀吉が伏見の木幡に作らせた伏見城の本丸がもう完成したという。

 最初の伏見城は地震被害にあったものの幸い火事による被害はなく、無事だった資材を用いて再建したのだそうだ。

 行軍の速さといい一夜城といい、秀吉は実は天狗なのではないかと驚かされてばかりだった。




 慶長二年(1597年)

 春の日も暖かくなった四月、江と秀忠の間に子供が産まれた。

 女の子で名前は千姫と名付けられた。


 秀忠に嫁ぐ前、江には秀勝どのとの子で完子(さだこ)という女の子がいた。

 江が徳川家に正室として嫁ぐ際、完子は茶々の養子となり江の元から離された。

 周りの者は徳川秀忠の長子が男児でないことに落胆したが、手放した完子の代わりに千姫に愛情を注ぐことで江の喪失感を埋められればと思う。


 嫁ぐときには何だかんだ言われた江だったが、年下の秀忠どのと相性が良かったのか仲睦まじくやっていた。


 秀忠のご生母は彼が十の時に亡くなっており、長兄信康は赤子のときに処刑され、次兄は豊臣家に行き、父はあの偉大な家康どの。

 気を張らずに頼れる相手がいなかったなか、年上の余裕で、ありのままの自分を受け入れてくれる江は彼の癒しとなったようだ。

 今度こそ、今度こそ江の婚姻生活が落ち着けばよいと切に願うばかりだ。


 秀吉は産まれたばかりの千姫を、いずれ秀頼の正室として迎えたいと申し出た。

 茶々の息子と江の娘が夫婦となれば織田浅井の血も縁もより強いものとなり、本当に姉妹手を取り合って天下を支えることができる。

 赤子と四つの子供の婚約は、俺たちにとってとても喜ばしく誇らしいものとなった。




 十月のこと、伏見城下の京極屋敷に秀吉が訪れると報せがあり、俺は正室として急いでかけつけた。

 豪華な宴を用意し高次どのと俺、そして家臣一同でもてなしたのもつかの間、秀吉は途中で体調が悪くなり早々に帰ってしまった。

 京極家にとって名誉であるはずの秀吉の訪問は、天下人の老いと衰えという不安を植え付けるだけとなった。



 九月、再度の大陸出兵が始まった。

 どこの武将も資金繰りの難はあったようだが、血気盛んな武将たちは「この戦で武功を上げ、その報奨を充てれば事足りる」とよけい活気づいたという。


 男たちの戦が外ならば、女の戦は内にある。

 もうすぐ冬を迎えるにあたりまだ地震の爪痕がのこる大津城や城下で、備蓄などの確認を行い冬越しの支度をするのだった。


 


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