十三話 豊臣の若君と織田の馬鹿殿
茶々がお世継ぎを産んで幾日か後、俺は数人の侍女を連れて淀城へ見舞に行った。
話しには聞いていたのだが、淀城は大溝城よりも立派だった。
まだ床上げのすんでいない茶々は、布団に横になった状態で俺たちを迎えてくれた。
産後の体力が戻っていないせいか顔色は悪かったが、いつも張りつめたような空気をまとっていた茶々は、柔らかくてどこか満ち足りたような母の顔になっていた。
「なんだか、子供を産んでますます母上に似てきた気がする」
「……そうだとしたら、子を持つ幸せを知ったからでしょう」
そう言って茶々は微笑んだ。
あの秀吉の子だとか、豊臣家の跡継ぎだとか、他の者が騒ぎ立てるそんなものは今の茶々には関係なかった。
そこにはただ幸せに包まれている母と子の姿があった。
「母になるということは、あんなにも穏やかになれるものなのですね。あの茶々があんなになれるなんて、わたしは驚きました」
俺は大溝城に帰ると、夫婦二人きりの時に高次どのに報告した。
茶々の幸せをおすそわけしてもらったみたいで気分はぽやぽやしている。
頬が緩みっぱなしの俺の横で、俺の話を肴にして高次どのは酒を飲んでいた。
腕にはまだ、茶々の産んだ赤ちゃんを抱っこさせてもらった感触が残っている。
柔らかくて暖かくて、小さいのにずっしりと命の重みがあった。
「早く側室を呼んで跡継ぎを産んでもらって、ややを抱かせてもらいたいな……」
「夫はいらぬが子は欲しいというやつか……!」
茶々が産んだ赤子は、鶴松と名付けられた。
産まれて三月ほどして、鶴松は豊臣家の跡継ぎ様として豪華絢爛な行列を従えて大阪城へと入城した。
が、鶴松は茶々から引き離されて正室の北政所に預けられた。
跡継ぎの男児は正室の元で育てるのが世の習い。
どんなに秀吉の寵愛を受けた茶々であっても、それは変わりなかった。
大阪城に出仕する高次どのから聞くには、茶々の荒れようはいろいろと噂になっているという。
江からは、
『こんな扱いを受けねばならないのなら、わたくしは絶対に側室になんぞなりとうございませぬ。母上様や初姉さまやのように正室となり、ただ夫に愛されとうございます』
などと書かれた手紙が届いた。
今回のことは、一番側で見ていた江の結婚観に影響を与えたようだ。
天正十八年(1590)
天下統一の総仕上げとして、北条氏の小田原城攻めが始まった。
高次どのも参じており、あいかわらず大溝城は主のいない日々を送っている。
秀吉は小田原城を見下ろせる石垣山に一夜城を築かせ、そこに茶々を呼び寄せた。
「えぇ!? 戦におなごを連れて行ったのですか!?」
大阪から届いた話に俺は仰天した。
戦では女は不浄といわれ、戦中は女に触れる事は不吉とされている。
だから戦に出るための身支度などは全て小姓の仕事。
もちろん夜のお相手も……というところだ。
だが秀吉は武将として当たり前であった衆道の気が全くなく、その分無類の女好きであった。
確かに長丁場となる戦場で夜の相手となれば、女を呼び寄せるしかないのだろう。
女を抱きたければその場に妓楼をつくるなどすればよいのだが、わざわざ自分の側室を呼び寄せ敵方に余裕を見せつけたかったのかもしれない。
しかし秀吉のこの行為は、今までの常識を大きく覆す出来事だった。
しかも茶々を呼び寄せるための書状がまた凄い。
側室を束ねるのは正室の仕事。
だから秀吉が茶々を呼び寄せるには北政所さまに書状をおくる。
その内容が凄かった。
『寂しくってしょうがないよう。一番好きなのはおねだけど、お前は大阪城を守ってもらわないといけないもんね。だからしょうがないけど、二番目に好きな茶々をこっちによこしてください』
そんな文章だった。
人々は「関白殿下もかかあ殿下にはかなわない」と大いに笑ったそうだ。
本来であれば天下人の醜聞なんて口に出すのも恐ろしいことだが、大坂は商人の街。
あいさつ代わりにこの話が出て、どんどん面白おかしく広がっているという。
それに。
「茶々もそれで行っちゃうんだ……」
茶々は鶴松を引き離されたことで、秀吉にも機嫌を悪くしていると聞いていた。
天下人秀吉の要請を断れる人間などいないだろうが、それでも茶々が秀吉の元へ行ったことが、何となく釈然としない。
それに戦場での女の仕事といえば、敗将たちの首を切り取って血を洗い流して死に化粧をほどこしてやることだ。
茶々がそんな仕事をするとは思えない。
なら茶々の仕事とは……。
それ以上は生々しい想像になるので、頭をふって考えるのをやめた。
秀吉は更に家臣達にも妻や側室を連れてくるように勧めているという。
俺は正室として大溝城を守る立場にあるので身動きはとれないが、高次どのが側室を戦場に連れて行くなら、やや子ができやすくなっていいかもなぁとちょっと思ってしまった。
ほら、戦のあとは昂ぶるというし……。
あの人そっち方面は何かずれているというか、自身がお父上が六十近くのときにできた子供なため「まだそんなに焦らなくともよい」なんて考えている。
この時代、子供ができなかったり早世したりで、跡継ぎに養子をもらうことなんてざらだ。
だけど俺は嫁として跡継ぎをつくることができないからこそ、養子をとるよりも高次どのの血を継いだ子をその腕に抱かせてあげたいと願っていた。
秀吉は圧倒的な兵力差をもって、北条の小田原城を陥落させた。
豊臣秀吉による天下統一である。
あの信長さまですら至ることのできなかった高みに、とうとう農民出の男が登りつめたのであった。
その後、家康殿を旧北条領へ移動させた。
秀吉はさびれた町であった江戸を居城にするように命じ、家臣たちの配置まで事細やかに指定したという。
そして織田信雄を旧家康領へ移転するように命じた。
織田信雄は信長さまのご子息で、本能寺の変の直後に打たれた信忠さまの弟だ。
信忠さまはとてもご聡明な方だったが、この信雄は……はっきり言って才能も度胸もない馬鹿とのだった。
今まで、ちょこちょこ秀吉に反旗をひるがえしては負け、そのたびに信長さまの息子というお立場から許されているという状況だった。
俺たちに関わり深いのは、徳川家康どのと組んで小牧長久出の戦いを起こしたことか。
しかし信雄は秀吉に垂らしこまれて戦線を離脱。
梯子を外されたかたちになった家康どのが逃げる際、船を出して助けたのが当時江の夫であった佐治一成どの。
江と一成どのの離縁は馬鹿との信雄に巻き込まれた結果といえるので、俺たち三姉妹は身内ながら彼へ良い感情は持っていなかった。
秀吉が信雄に命じた配置替えでは、領地が大幅に増えることになり破格の扱いだった。
しかし信雄はこれを拒否し、更に美濃領まで欲した。
北条攻めの間も信雄が離反するのではという噂があったにもかかわらず、信雄は信頼を取り戻すために働くでもなく更におねだりをしたことになる。
さすがにこれは秀吉の激怒をかい、改易を命じられ織田家は離散した。
これに関しては誰も『主君織田家に何という事を!!』なんて怒るものはおらず、「うん、まぁしょうがないよね……」と苦笑いするしかなかった。
それに殿は馬鹿だったが家臣は有能な者が多く、秀吉の手配もあり織田旧臣の大名のところへ引き取られていった。
ただこの時点では織田家の血を継ぐ鶴松が豊臣家の跡継ぎになることが決まっていたので、俺も茶々も特に織田家が無くなったとは気にしなかった。
それに信長さまの孫の三法師さまも、昨年九歳で元服して織田三郎秀信となり活躍されていることもあった。
他の武将たちも移動が相次ぎ、秀吉の甥の秀次が近江八幡山城から清州城城主へと命じられた。
そして秀次が尾張にうつったあと、俺の夫である京極高次が八幡山城へ抜擢された。
名門京極家は近江の地を治めるのに適していることもあるのだが、うちの旦那様はどこかのバカ殿と違って頑張っていますからね!