第1章
いつ頃からだろうか、繊細で豪奢な女物の装束を身に纏うことが窮屈になり、軽くて動きやすい男物の衣を好むようになったのは。
その日は兄の婚礼という特別な行事だったから、普段よりも余計に派手に着飾らなくてはならず、しかも屋敷の奥でじっと静かに座り続けていたため、案の定、疲れてしまった。伊賀は宴が始まってしばらくすると、上衣だけ脱いでこっそりと中庭へ逃亡を図った。
小川の畔の大きな桃の木が婚礼を祝うように咲き誇っている。木の下に柔かい陽射しが当たっているのを見つけ、伊賀は早速腰を下ろした。
(春だわ。三輪山もいつもより神々しく見える……)
目を閉じて、今日の主役である兄・活目入彦と新婦の狭穂姫のことを思い描く。たとえ、活目入彦がこの国を統べる大王となっても、そうでなくても穏やかな性格の二人はきっと幸せな人生を歩むに違いない。
活目入彦はさらに年長の兄・豊城入彦のような武芸の達人ではないけれど、伊賀が男装し、男と同じように剣を振るい弓を射ることを受け入れてくれる数少ない理解者だった。
少しひんやりした風を感じながらうたた寝をしていると、草を踏み分ける音が聞こえた。その音はゆっくりと憚るように近付いてくる。逃げ出したのがバレてしまったのだろうか。そうだとしても、嘘寝してしまえばいい。伊賀は気配の元を確認することなく目を閉じ続けた。
三輪山から天女が舞い降りてきたに違いないと、武渟川別は信じた。自分よりも少し年下か同じ年に見える少女が、満開の桃の木の下で無防備な態勢で眠っている。
長く美しい黒髪は木漏れ日に照らされて艷やかに輝き、薄紅色の上質な衣や胸元の水晶の首飾りがこの娘を王家の関係者だと示していた。
一体この美しい娘は誰だ……。
大和の三輪山の麓に水垣宮を営む御間城入彦大王には何人も娘がいる。おまけに普段は宮殿の奥に潜んでいて、たまたま将軍の末息子として婚礼に呼ばれただけの武渟川別が名前と顔を一致させることなど不可能だった。
(可愛いな……)
単純で素直な感想を抱き、武渟川別は引き寄せられるように少女に近寄った。
そういえば、父から十市瓊入姫は美貌で淑やかで大王も自慢していると聞いたことがあった。天女のような雰囲気があるということは、もしかすると日の神を祀る豊鋤入姫かもしれない。彼女は長女だから武渟川別よりも年上になるが、神の力で幼く見えるということもあり得る。
心が甘くざわつき、武渟川別はこの少女に触れたいという衝動に駆られた。なぜか少女は至近距離になっても目を開けない。
気付いていないのか。そう思った瞬間、武渟川別は少女の唇に自分の唇を押し当てていた。
一体何が起きたのだろう。人の気配を感じつつそのまま寝たふりをしていた伊賀は、勢い良く瞳を見開いた。
すると、同じく呆然と目を開いた見知らぬ少年がこちらを見つめている。
「あなたは……?」
かすれ気味の声で訊ねると、少年は飛び退くように立ち上がって、脱兎のごとく走り去っていった。
伊賀は半分寝かけていたせいで、ぼーっと今の出来事を考えた。唇が温かかった気がする。
正装した少年に力強く真っ直ぐな視線で見つめられていたことを思い出し、伊賀は急に恥ずかしくなった。
立ち上がって周りを見回すが誰もいない。
ぽちゃりと川魚が跳ねて、小さな飛沫を上げた。
あの少年は兄の婚礼を祝いに来た小川の神の化身なのだろうかと、伊賀は結論づけ、再び寝て目覚めた後にはすっかり少年の面影を忘れてしまったのであった。