コーヒーメモリアル
「昔、コーヒーは薬として飲まれていたのよ」
淹れ立てのコーヒーを一口含んで顔を顰める僕を見て、姉は口元を綻ばす。
「無理しないで。いーちゃんには、まだ早いわね、コーヒーの味は」
僕は砂糖とミルクを差し出す姉の手を退けて、もう一度コーヒーの口に含む。
苦い。
口の中に広がる苦味で、先程から込み上げる寂しさを打ち消していく。
姉は今日、恋人の元へ嫁いでいく。
こんな風に一緒に過ごすのも、これが最後だ。
いつもと変わらない朝の風景。
だけど父は、リビングで背を向けさっきから押し黙ったままで、僕は飲み慣れないコーヒーに顔を歪めている。
姉と僕とは十歳違い。母を早くに亡くした僕らは、男手一つで育てあげられてきた。
父は普段から寡黙な人で、姉は家の中でムードメーカーだった。
時には母のように僕を叱り、僕は泣きながらも母に甘えるように姉を慕った。
もう、それも出来なくなる。
「いーちゃんも来年は高校卒業かあ。早いなあ」
コーヒーカップを両掌で包み込むように持ち、朝の明るい日差しに目を細める姉は、この上なく綺麗だと思った。
外で迎えの車が鳴らす、クラクションの音が聞こえた。
姉は立ち上がり、徐に白いエプソンを外す。
その姿は、おぼろげな記憶の中にある母の姿と重なって見えた。
「姉ちゃん、幸せになれよ」
姉の背中にそう言って、苦いコーヒーを喉に流し込む。
苦しくて、
切なくて、
涙が出た。
「ありがとう、いーちゃん」
振り返らず、姉は言う。語尾が震え掠れていた。
「行ってきます」
その声に、父の背中が揺らぐ。
「幸せになれ」
背中越しに父の声が聞こえた。
秋晴れの良日。
コーヒーの匂いを嗅ぐ度に、あの日を思い出し姉の幸せを願う。
今は僕の傍らにいる妻が、かつての姉と同じようにコーヒーを淹れている。
相変わらず顔を歪めてコーヒーを飲む僕に、妻は姉に似た笑みを浮かべ優しい目をして僕を見ていた。