婚約者よりも病弱な友人が心配と言うので、全力で乗ってみた。
マリヴェル・ローデンは、ごく普通の伯爵令嬢である。
二歳上の兄が一人、三歳下の妹が一人。髪は少し赤みを帯びた茶色で、瞳は緑。背丈は同年代の令嬢たちの中ほどで、顔立ちも決して悪くはないものの、一度見たら忘れられないほど華やかな美人というわけでもない。
勉学についても似たようなものだった。学院では上位三割ほどには入り、刺繍をさせれば人前へ出せる程度には仕上がる。ピアノを弾けば小さな茶会で披露しても恥ずかしくなく、ダンスも乗馬も社交も、教えられれば大抵のことはそつなくこなした。
ただし、どれも一番にはなれなかった。
特別な欠点がない代わりに、特別秀でたものもない。
「お前は本当に器用だなあ。」
兄からそう言われれば褒め言葉として受け取り、母から「マリヴェルなら、どこへ嫁いでも困らないでしょう」と言われれば、それもそうかもしれないと笑う。
本人も特に不満はなかった。
何か一つに人生を賭けたいと思ったこともなければ、何者かになりたいと強く願ったこともない。伯爵令嬢としてそれなりの教育を受け、適齢期になれば家格の釣り合う相手と結婚し、それなりに穏やかな家庭を作るのだろう。
自分とは、そういう人間なのだと思っていた。
だから十五歳になった春、三歳年上の侯爵令息から正式な婚約の申し込みが届いた時には、家族と一緒になって驚いた。
エドガルド・アルヴェーン侯爵令息。十八歳。
濃い金色の髪に、深い海を思わせる青い瞳。すらりと背が高く、学院での成績も優秀で、次期侯爵としてすでに父親の補佐まで始めているという。
社交界でも評判の青年だった。
家格だけを見ても、伯爵家の次女であるマリヴェルには少々上過ぎる。
しかも、申し出は先方からだった。
「……人違いでは?」
最初に父へ尋ねると、父は難しい顔で婚約の申し込み状をもう一度読み直した。
「私も少しそう思ったが、名前は間違いなくお前だな。」
「マリヴェル・ローデンと?」
「マリヴェル・ローデンと。」
「同姓同名では?」
「我が国にローデン伯爵家は一つしかない。」
それは確かにそうだった。
何か事情があるのだろうとは思ったものの、侯爵家から正式に申し込まれた縁談を、理由もなく断るほどの問題も見つからない。何度か顔合わせをしてみると、エドガルドは多少堅いところこそあるものの、礼儀正しく教養もあり、マリヴェルを見下す様子もなかった。
恋に落ちたわけではない。
けれど、これなら悪くないのではないか。
そう思い始めた頃だった。
「君には、最初に理解しておいてほしいことがある。」
正式に婚約が決まってから一月ほど経ったある日、エドガルドは侯爵家の屋敷を訪れたマリヴェルを、普段使っている応接間とは別の棟へ案内した。
華やかな本邸から渡り廊下を抜けた先にある、静かな離れだった。
「私には、何よりも優先しなければならない人がいるんだ。」
随分と思い詰めた様子で言われ、マリヴェルは一瞬だけ身構えた。
婚約したばかりの男から、「君より大切な人がいる」と告げられて喜ぶ女は、恐らくそう多くない。
けれど怒るより先に、エドガルドが開いた扉の向こうへ視線が向いた。
そこには、一人の少年がいた。
大きな寝台へ半身を埋めるようにして横たわっている。透けるように白い肌に、銀色にも見えるほど淡い金髪。瞳は夜明け前の空のような薄い青で、驚くほど整った顔立ちをしていたが、頬は痩せ、手首は細く、寝台の上で身体を起こしているだけでも辛そうだった。
年齢を聞かなければ、十歳そこそこに見えたかもしれない。
「王家から療養のためにお預かりしている、シリウス第二王子殿下だ。先月十三歳になられた。」
マリヴェルは少年を見た。
次に、婚約者を見た。
もう一度、少年を見た。
エドガルドは容姿の整った十八歳の青年であり、シリウスは病弱さを差し引いても目を奪われるほど美しい十三歳の少年である。
そして婚約者は、先ほど自分には何より優先しなければならない人がいると言った。
マリヴェルは、ぎぎぎ、と首から異音がしそうなほど緩慢に頷いた。
ああ。
なるほど。
なるほどな。
そういう。
そ、う、い、う、ことか。
「殿下は幼い頃からお身体が弱くてね。王宮は人の出入りも多く療養には向かないということで、数年前から当家でお預かりしている。私はこれからも殿下のお身体を何より優先するつもりだ。君との約束があったとしても、殿下の体調が悪ければそちらを優先することもある。それは理解してほしい。」
「ええ……そういうことでしたら。」
「分かってくれるか。」
「もちろん。合点がいきました。」
心の中で、パァン、と盛大に膝を叩きたい気分だった。
実際には扉の前へ立っているし、スカートなので叩ける膝もない。
叩くなら目の前の青年の背中くらいだが、どうせそこまでやるならスリッパを手に取り、その金色の頭を思い切りスパーンとやってやりたい。
マリヴェルが横目でスリッパを探し始めたことにも気付かず、どことなく安堵した様子のエドガルドを見て、疑いはほとんど確信へ変わった。
だから自分だったのか。
家柄はそこそこで、飛び抜けた美人でもなく、社交界に巨大な人脈を持っているわけでもない。悪く言えば目立たず、良く言えば扱いやすい。
侯爵家の嫡男には表向きの妻が必要になる。
けれど、本当に大切なのは別の相手。
だから差し障りのなさそうな伯爵令嬢へ、先方から縁談を持ち込んだ。
少年愛なのか男色なのか、その辺りの細かな分類まではマリヴェルにも分からない。
ただ、相手は十三歳。
未成年。
しかも見るからに具合が悪い。
若干どころではなく、犯罪の臭いがしないでもないではないか。
事情はおおむね理解した。
だが、承服できるかどうかは別である。
こちらは普通の男と普通に結婚するつもりだったのだから当然だ。
ただ、結婚して子供までできた後で「実は心に決めた相手がいる」と告白されるよりは、婚約直後に打ち明けただけ誠実だと、逆に、何とか逆に考えることもできる。
人生とは、なかなか思うようにはいかない。
世は無常。
十五歳にして妙な諦観を覚えながら、スリッパがないなら今履いている靴を脱いで一発かましてしまおうかと考えた、その時だった。
「ごほっ……ごほっ、ごほっ……!」
寝台の少年が、突然苦しそうに咳き込んだ。
「殿下!」
エドガルドが慌てて傍へ寄り、背を撫でる。
しかし咳は止まらない。
乾いた咳だった。
繰り返すたびに呼吸が浅くなり、息を吐く時には、狭くなった気道を空気が通り抜けるような高い音が混ざった。
その瞬間。
マリヴェルの頭から、それまでの雑念がすべて消えた。
呼気性喘鳴。
呼気延長。
頻呼吸。
胸郭の動きは――。
マリヴェルの視線が、瞬時に少年の顔から胸元へ移る。
陥没呼吸までは目立たない。
口唇の色は悪くない。
会話は可能。
少なくとも今この瞬間、意識障害や重度の低酸素を疑う所見はなさそうだ。
けれど、これは。
――喘息様の発作。
あるいは、この世界固有の別の呼吸器疾患。
マリヴェルの意識が、完全に切り替わった。
彼女には前世の記憶があった。
現代日本という国で生まれ、医学部を卒業し、医師国家試験を通り、総合病院の小児科病棟で働いていた女の記憶である。
発熱。
喘息。
肺炎。
胃腸炎。
けいれん。
慢性疾患。
先天性疾患。
病棟へ入院してくる子供たちは、決して一つの病気だけを抱えているわけではなかった。
小児科医として、呼吸器だけを診ればいいわけでも、感染症だけを診ればいいわけでもない。食事、睡眠、発達、家族関係、学校生活、その子が家へ戻った後まで考えなければならない。
夜勤中、急変した子供の枕元へ走ったこともある。
家族へ悪い知らせを伝えたこともある。
自分の判断が遅かったのではないかと、一人で何度も症例を振り返った夜もある。
救えなかった命もあった。
それでも。
元気になった子供が退院していく後ろ姿を見送るたび、この仕事を選んで良かったと思った。
だが、転生したこの世界で、前世の知識を使って医師の真似事をしようとは思わなかった。
魔力がある。
治癒魔法がある。
薬草の作用も違う。
そもそも人体そのものが前世と完全に同じ構造かどうかすら分からない。
前世で医師だったからこそ、中途半端な知識で「分かったつもり」になる危険性も知っていた。
だから十五年間、医療へ口を挟まなかった。
しかし。
目の前に、苦しそうに息をする子供がいる。
それを見て何もしないほど、医師だった頃の自分を捨てたつもりもなかった。
「殿下。少し失礼します。」
「え……?」
マリヴェルは少年の傍へ寄った。
「今から幾つか質問します。答えられる範囲で構いません。苦しければ頷くだけでも結構です。」
シリウスが、驚いたように目を瞬いた。
「この咳は、いつ頃からありますか?」
「……小さい頃、から。」
「夜に悪くなることは?」
「あります。」
「走った後は?」
「走ったことが……あまり。」
「季節によって変わりますか?」
「春と……冬は、少し。」
「動物は? 埃っぽい場所へ行くと?」
「マリヴェル?」
エドガルドが怪訝そうに名を呼んだ。
マリヴェルは振り返らなかった。
「発熱を伴うことは多いですか?」
「熱は……あまり。」
「痰は?」
「ほとんど……。」
なるほど。
少なくとも慢性的な感染症だけで説明するには、少し違和感がある。
もちろん、前世の喘息と同じ病気だと決めつけることはできない。
けれど。
マリヴェルは改めて部屋を見回した。
重たいカーテン。
閉じ切った窓。
毛足の長い絨毯。
寝台下の埃。
寝台脇では、強い香が煙を上げている。
「……普段もずっと、この部屋でお過ごしなのですか?」
「何?」
「窓は?」
「冷気がお身体に障ると医師から言われている。あまり開けない。」
「香は?」
「身体に良いものだ。」
「誰の指示です?」
「侯爵家付きの医師が――」
「その医師と、今すぐ話せますか?」
「待て。君は何を――」
そこで初めて、マリヴェルはエドガルドを見た。
「あなたは、この方が何より大切なのですよね?」
「あ、ああ。」
「私よりも?」
エドガルドは一瞬躊躇い、それでもやがて頷いた。
「……そうだ。」
「でしたら私も、この方を最優先にします。婚約者であるあなたのためにも。」
「……何?」
エドガルドが固まる。
しかしマリヴェルの興味は、すでに別のところへ移っていた。
「医師を呼んでください。できれば今まで殿下を診てきた方全員。診療記録があるなら、それも。」
「診療、記録?」
「病状の経過を書いたものです。薬をいつ、何の目的で使ったのか。効いたのか。悪くなったのか。発作の頻度がどう変わったのか。」
「そこまで細かなものは……。」
「なら、これから作りましょう。」
マリヴェルは再び少年へ向き直った。
「殿下。」
「……はい。」
「少々大掛かりになるかもしれません。」
「何が……です?」
「あなたを元気にします。」
はっきりと言った。
シリウスの薄青い瞳が大きくなる。
「もちろん、私一人では無理です。この世界の医学について知らないことも多い。だから、ここにいるお医師様たちにも手伝っていただきます。」
マリヴェルは、寝台の傍へ屈んだ。
「ですが、少なくとも『病弱だから一生寝ていましょう』で終わらせるつもりはありません。」
シリウスは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……本当に?」
小さな声だった。
「元気に……なれるんですか?」
医師だった頃。
何度も聞かれた言葉だった。
だから、軽々しく断言してはいけないことも知っている。
「分かりません。」
マリヴェルは正直に答えた。
シリウスの表情が僅かに曇る。
「ただ。」
続ける。
「今より元気になれる方法がないかは、徹底的に調べます。」
それなら約束できる。
マリヴェルは笑った。
「ですから、一緒に頑張りましょう。」
◇
それからのマリヴェルは、婚約前とは別人のようだった。
最初にしたのは、治療ではない。
情報収集だった。
侯爵家へ出入りしている医師を呼び、これまでの病歴を聞いた。
幼少期から繰り返す咳。
発熱は少ない。
春と冬に悪化しやすい。
夜間と明け方に咳が増える。
強い香を焚いた後に悪化したこともある。
一方で、何年も寝台中心の生活を続けていたため、脚の筋力は著しく落ちていた。食事量も少なく、成長曲線という概念はこの世界にはなかったが、年齢に対する身長・体重は明らかに小さい。
さらに。
「この薬は?」
マリヴェルは、過去の処方内容を書き写した紙を指した。
「咳を抑え、身体を休ませる薬です。」
「使うと眠くなりますか?」
「多少は。」
「発作のたびに?」
「はい。」
「こちらは?」
「身体を温める薬です。」
「飲んだ後、咳が増えた記録があります。」
医師が黙った。
「責めているわけではありません。」
マリヴェルは淡々と言った。
「薬を止めろとも言いません。私の知らない作用があるでしょう。ただ、何を使った時にどうなったのかが分からなければ、効いているかどうか判断できません。」
「……ご令嬢は、どこでそのような知識を。」
「少々事情がありまして。」
そこは誤魔化した。
診療記録を作る。
体温。
脈拍。
呼吸数。
咳の回数。
睡眠。
食事量。
活動量。
発作が起きる前に何をしていたか。
薬を使った後にどうなったか。
前世なら血液検査も胸部画像も肺機能検査もしたい。
酸素飽和度も測りたい。
アレルギー検査も欲しい。
しかし、ないものを嘆いても仕方がない。
この世界にあるものを調べた。
すると、面白いものが見つかった。
魔力の流れを可視化する魔導具。
血液中の一部成分を色の変化で判定する薬液。
胸部へ魔力を流し、内部で流れが滞っている場所を探す診察法。
完全に同じではない。
けれど、使える。
マリヴェルは医師たちと一緒に、一つずつ組み合わせた。
その結果、確定診断などという便利な答えには辿り着かなかったものの、少なくとも感染症を繰り返しているだけではなさそうだという点では意見が一致した。
気道が刺激へ過敏に反応する病態。
そこへ、長期臥床による筋力低下と栄養不良が重なっている。
ならば。
まず環境を変える。
強い香を止める。
埃を減らす。
寝具を定期的に洗浄する。
気候と体調を見ながら換気する。
同時に、発作時に効果のあった薬と悪化した薬を整理する。
この世界では「風の魔力を気道へ通し、呼吸を補助する」治癒術も存在した。
「これ、発作時だけではなく、症状の強い時期に定期的に使えませんか?」
「毎日?」
「安全性次第ですが。」
「その発想はありませんでした。」
「なら、一緒に調べましょう。」
食事も見直した。
滋養があるからと脂の多い肉や菓子を無理に食べさせるのではなく、食べられる量を把握し、必要な栄養を分けて摂らせる。
そして、呼吸状態がある程度安定したところで。
「では、今日は寝台から降りましょう。」
シリウスは目を見開いた。
「……降りる?」
「はい。」
「どうして?」
「歩くためです。」
「……僕は病人ですよ。」
「知っています。」
「病人は安静にするものでは?」
「必要な時には。」
「今は?」
「今日の状態なら、少し動けます。」
「……嫌です。」
「そうですか。」
マリヴェルは頷いた。
「では、五分後に始めます。」
「僕の話を聞いていました?」
「聞きました。」
「嫌だと。」
「はい。医学的な反論ではないので却下です。」
「横暴です。」
「医師は時々そう言われます。」
「あなた医師ではないでしょう。」
「今世では。」
「今世?」
「こちらの話です。」
最初は寝台の横へ立つだけで脚が震えた。
三歩。
翌日は五歩。
その次は部屋の端まで。
体調を確認しながら、少しずつ距離を増やす。
無理はさせない。
だが、本人が「疲れた」と言っただけで即座に中止もしない。
「もう歩けません……。」
廊下の途中で壁へ手をつき、シリウスが息を切らした。
マリヴェルは呼吸の状態を見た。
まだ会話できる。
顔色も悪くない。
「あと十歩です。」
「マリヴェル様は鬼です……。」
「それだけ喋れるなら大丈夫ですね。」
「え?」
「あと二十歩。」
「増えた……。」
絶望したような顔で、それでもシリウスは歩いた。
その日の午後、マリヴェルは記録へ、
『歩行距離、前日比増加。本人の愚痴も増加。全身状態改善傾向。』
と書いた。
後から読んだシリウスに、
「最後の項目は医学的に必要ですか?」
と抗議された。
「大切です。文句を言う体力が戻っています。」
「鬼です。」
「はいはい。」
最初の頃、エドガルドはその様子を好意的に眺めていた。
「殿下がこれほど人の言うことを聞かれるとは思わなかった。君には意外な才能があるんだな。」
「才能ではありません。」
マリヴェルは答えた。
前世では医師だった。
だが、今世の医学は知らない。
だから学んだ。
侯爵家の医学書を読む。
薬師へ会う。
治癒術師へ話を聞く。
魔力が人体へ及ぼす影響を研究する学者がいると聞けば、紹介状を書いてもらう。
そこでマリヴェルは、生まれて初めて思った。
分からない。
だから、面白い。
十五年間、大抵のことはそこそこできた。
けれど、できないことを見つけて嬉しいと思ったのは初めてだった。
知らないことを翌日まで放置できない。
一冊読み終えれば、その引用元が読みたくなる。
一人の医師へ質問すれば、別の専門家の意見も聞きたくなる。
前世で学んだ医学と、今世の魔力医学。
二つを比べるたび、まだ誰も繋いでいないものが見えてくる。
気付けば、婚約者であるエドガルドよりも、シリウスや担当医たちと話している時間の方が遥かに長くなっていた。
もっとも。
当初は自分を形式上の妻にするつもりなのだろうと思っていたので、それ自体に特に疑問は抱かなかった。
むしろ都合がいい。
エドガルドにはエドガルドの大切な人がいて、自分には何としても元気になってもらいたい患者がいる。
非常に合理的な婚約関係ではないか。
マリヴェルは本気でそう考えていた。
◇
変化が現れ始めたのは、それから一年ほど経った頃だった。
十四歳になったシリウスは、以前とは明らかに違っていた。
病気そのものが消えたわけではない。
春先には咳が増える。
寒い日は発作が出ることもある。
風邪をひけば他人より回復に時間が掛かる。
けれど、一日のほとんどを寝台で過ごすことはなくなった。
庭を歩く。
食堂まで自分で来る。
家庭教師による授業も再開し、体力に合わせて剣術の基礎訓練まで始めた。
何より。
「殿下、薬を。」
「苦いんですよね。」
「飲んでください。」
「嫌です。」
「十三歳の頃より幼児化していませんか?」
「元気になると人間は我儘になるんです。」
「医学書に書いておきましょうか。」
「やめてください。」
よく喋るようになった。
よく笑うようになった。
それを見ていると、マリヴェルは妙に満足した。
「最近、少しやり過ぎではないか。」
ある日、エドガルドがそう言った。
マリヴェルは診療記録から顔を上げる。
「何がです?」
「殿下のことだ。散歩だけならまだしも、勉強や剣術まで再開させる必要があるのか?」
「本人が望んでいます。」
「だが、お身体に障るかもしれない。」
「主治医とも相談しています。疲労の状態も記録していますし、悪化すれば中止します。」
「以前のように、静かに療養していただいた方が安心ではないか。」
マリヴェルは眉を寄せた。
「何に対して安心なのです?」
「何?」
「殿下の身体にとってですか。それとも、別の何かに対して?」
エドガルドが一瞬黙った。
「殿下は王族です。健康状態が改善すれば、いずれ王宮へ戻り、公務へ参加される可能性もある。その準備をすることに何か問題がありますか?」
ほんの僅かだった。
エドガルドの表情が固まった。
医師だった頃、家族へ病状説明をする機会は多かった。
何を聞いて安心するか。
何を聞いた時に目を逸らすか。
平静を装っていても、人間の表情は意外と正直である。
マリヴェルは、その小さな変化を見逃さなかった。
そして一度気付けば、妙なことはいくつも見つかった。
シリウスの散歩予定が、エドガルドの指示で取り消されている。
医師が処方した薬が、「殿下には負担が強いのでは」と使用を止められている。
側妃であるシリウスの母から届いた手紙が、本人へ渡るまで何日もかかっている。
王宮から派遣された教師との面会も、体調を理由に延期される。
一つ一つなら偶然かもしれない。
しかし、同じ方向へ積み重なれば意味が変わる。
「エドガルド様。」
マリヴェルは、ある日真正面から尋ねた。
「殿下がお元気になると、何か不都合があるのですか?」
エドガルドは答えなかった。
それで十分だった。
調べた。
第一王子と第二王子。
王位継承順位。
シリウスの母である側妃の実家。
第一王子派へ近づいているアルヴェーン侯爵家。
そして。
何故、王族であるシリウスが王宮ではなく、わざわざ侯爵家で長期療養していたのか。
すべて繋がった。
エドガルドはシリウスを殺したいわけではない。
むしろ、大切にしている。
衣食住には何不自由させない。
危険なことはさせない。
具合が悪ければ医師を呼ぶ。
ただし、ずっと病弱なままでいてほしい。
公務へ出ず、派閥も持たず。
王位争いに関われないほど弱く。
安全な部屋で、一生穏やかに療養していてほしい。
マリヴェルはようやく理解した。
この人は、シリウスを大切にしていたのではない。
――病弱な第二王子という状態を、大切に保存していたのだ。
そして自分は恐らく、侯爵家へ嫁いでも余計な政治へ口を挟まず、言われた役割をそれなりにこなしてくれそうな女として選ばれた。
確かに、マリヴェルは普通だった。
十五歳になるまでは。
「なるほど。」
事情を理解した時、最初に感じたのは何故か安堵だった。
少なくとも、あやつはショタコンではなかったらしい。
そこだけは良かった。
これなら月のない夜に自分が成敗する必要はない。
そして、その次。
猛烈に腹が立った。
婚約の理由に、ではない。
自分を利用しようとしたことでもない。
「……あなたは、私の患者の治療に介入しましたね?」
「マリヴェル、今はそういう話では――」
「私は、その話しかしていません。」
「これは国の問題なんだ。君には分からないだろうが。」
「はい。心底どうでもいいです。」
「どうでもいい?」
「王位継承については、王家で話し合ってください。」
マリヴェルの声は静かだった。
静かだったからこそ、エドガルドの顔が強張った。
「ただし、健康になりたいと願う十三歳の子供に、政治上の都合で治療を受けさせない。処方された薬を勝手に止める。王宮との連絡を遮断する。それは政治ではありません。」
「君には事情が――」
「知りません。」
「マリヴェル!」
「医療上の判断へ介入するなら、少なくとも医学的根拠を出してください。」
「……。」
「出せませんね?」
答えはない。
「なら、私の前では二度と患者の治療を政治の道具にしないでください。」
「君は自分が誰の婚約者なのか分かっているのか?」
「あなたです。」
「なら少しは私の立場も――」
「私より殿下を優先すると仰ったのは、あなたですよ。」
エドガルドが黙る。
「だから私も、全力で殿下を優先しました。」
「これは想定になかった!」
「では、人知を超える天命でしょう。」
マリヴェルはそれ以上話さなかった。
シリウスの母である側妃の実家は伯爵家だが、その母方には北部の有力な辺境伯家との縁がある。
マリヴェルは手紙を書いた。
これまでの病状。
治療経過。
現在の身体状況。
侯爵家によって治療計画へ介入された事実。
王宮からの連絡を妨げられている可能性。
感情は書かなかった。
医師だった頃から、記録とはそういうものだ。
推測と事実を分ける。
確認したことだけを書く。
やがて王宮から人が来た。
シリウスは王家の管理下へ戻されることになった。
同時に、マリヴェルとエドガルドの婚約も、解消された。
別に悲しくはなかった。
婚約者より大切な相手がいると告げられた時点で、彼との未来については半ば諦めていた。
それよりも、重大な問題がある。
シリウスが王宮へ戻ってしまう。
「……治療途中なのですがね。」
マリヴェルが呟くと、第二王子本人が何とも言えない顔をした。
「マリヴェル様。」
「はい。」
「王宮にも医師はいます。」
「存じています。」
「なら大丈夫でしょう。」
「でも、あなたはすぐ怠けるでしょう。」
「……。」
「散歩を一日休むと、翌日も休もうとする。」
「体調管理です。」
「三日前、雨だから休みたいと仰いましたよね。」
「雨の日に外を歩く人はいません。」
「室内で歩けます。」
シリウスは、さっと目を逸らした。
結局。
マリヴェルは王宮へ通うことになった。
◇
それから四年。
マリヴェルは勉強を続けた。
婚約がなくなったことで、むしろ自由になった。
王都の医療研究施設へ正式に出入りするようになり、基礎医学、薬学、魔力生理学、治癒魔法が人体へ与える影響について学んだ。
前世で医師だったからこそ、知れば知るほど分からないことが増えた。
前世では同じ病名に分類したであろう症状でも、この世界では魔力の流れによって経過が違う。
逆に「魔力不全」と一括りにされてきた症状の中に、まるで別の病態が混在していることもある。
面白かった。
同じ症状を診た医師同士で意見が割れる。
仮説を立てる。
記録する。
治療してみる。
結果を比べる。
間違っていれば修正する。
前世で当然と思っていた医学知識が、こちらでは通用しないこともある。
逆に、この世界で迷信扱いされていた古い治療法の中に、魔力を介する合理的な作用が見つかることもあった。
分からない。
だから、もっと知りたい。
マリヴェルは、生まれて初めて一つのことへ夢中になった。
「お前がそこまで何かへ執着するとは思わなかった。」
兄にそう言われた。
本人もそう思う。
刺繍も音楽も勉強も、できないことはなかった。
だが、寝る時間を惜しいと思ったことはなかった。
一つ疑問が出れば、その答えが見つかるまで何冊も本を読みたいと思ったこともなかった。
十五歳までのマリヴェルには、得意なものはいくつもあった。
けれど、好きなものがなかった。
ようやく見つけた。
そして二十歳になる頃には、かつて「何でもそれなりにできる伯爵令嬢」だった少女は、若手ながら国内でも名を知られる医療研究者の一人になっていた。
◇
「マリヴェル、遅いですよ。」
「待ってください……!」
朝の王宮。
広い庭園を走りながら、マリヴェルは前方の青年へ声を上げた。
「以前は僕に『あと十歩です』と言っていたでしょう。」
「あなたと私では脚の長さが違います!」
「言い訳ですね。」
「誰のおかげでそこまで大きくなったと思っているんですか!」
「成長期のおかげです。」
腹が立つ。
十三歳の頃は、寝台から降りて十歩歩くだけで涙目になり、「鬼」と呼んできた少年である。
それが十八歳になった今では、背丈はマリヴェルをとうに追い越し、細身ではあるものの、病弱だった頃の面影がほとんどない程度には身体つきもしっかりした。
銀にも見える淡い金髪と、明るい青い瞳だけは昔と変わらない。
美貌は成長とともにさらに磨かれ、今では夜会へ出れば令嬢たちの視線を一身に集めているらしい。
本人は気にしていなかった。
ランニングを終えると、息を切らしたマリヴェルへシリウスが水を差し出した。
「もう少し運動した方がいいのでは?」
「あなたにだけは言われたくありません。」
「僕は毎朝走っています。」
「私が走らせ始めたんです。」
「なら、責任を持ってついてきてください。」
「患者の運動能力を永遠に上回り続けることまで、治療計画には含まれていません。」
「また患者。」
シリウスが小さく呟いた。
「何です?」
「何でもありません。」
マリヴェルは気にせず水を飲んだ。
治療は上手くいった。
研究者として進みたい道も見つけた。
エドガルドとの婚約もとうに過去の話で、今は自分の仕事をしている。
ここまで来れば、人生はかなり上手くいっていると言ってよいだろう。
そう思っていた数日後。
王宮の一室へ呼ばれたマリヴェルは、向かいに座るシリウスから突然言われた。
「僕と結婚してください。」
「……なぜです?」
あまりにも予想外で、素直に聞き返した。
シリウスの表情が引き攣った。
「なぜ?」
「はい。」
「本気で聞いています?」
「本気です。」
「五年間、誰よりも僕の傍にいたでしょう。」
「患者でしたので。」
「毎朝、一緒に歩いた。」
「リハビリです。」
「僕の食事まで考えてくれた。」
「治療の一環です。」
「熱を出した夜は、朝まで傍にいたでしょう。」
「医師ですので。」
「今世では医師ではないと、昔自分で言っていませんでしたか?」
「細かいですね。」
「五年間聞かされていますから!」
シリウスは額を押さえた。
「……王宮へ戻った後も、何年も通ってきた。」
「治療途中でしたから。」
「誕生日には毎年贈り物をくれた。」
「長期療養中の児童には心理的な支援も必要です。」
「僕が十八歳になった時は、『ここまで大きくなりましたか』と言って泣いたでしょう!」
「あれは感慨深かったんです。十三歳の頃は本当に小さくて、成長速度にも不安があって――」
「だから、それです!」
突然声を張り上げられ、マリヴェルは目を瞬いた。
「何です?」
「僕はもう十八歳ですよ!」
「知っています。」
「王族として公務にも出ています。馬にも乗れます。剣も使えます。あなたより速く走れます。」
「随分立派になりましたね。素晴らしい。」
「褒めてほしいわけではありません!」
昔はこんな大声を出す子ではなかった。
初めて聞いた掠れた声を思い出して、マリヴェルはしみじみする。
元気になったものだ。
「では、何が言いたいのです?」
シリウスは長く息を吐いた。
そして、正面からマリヴェルを見た。
「僕は、あなたが好きです。」
今度こそ。
マリヴェルの思考が止まった。
「……いつから?」
「気付いた時には、もう。」
「ですが私は。」
「二歳年上です。伯爵令嬢です。医療の話になると周囲が見えなくなって、食事を忘れて研究室に籠もるような人です。」
「最後は悪口では?」
「五年間見ていますから。」
シリウスが、そっとマリヴェルの手を取った。
五年前とは違う。
小さくも、細くもない。
マリヴェルより大きく、剣を握るせいで少しかさついた、若い男の手だった。
「五年間です。あなたが僕を診ていたように、僕もずっとあなたを見ていました。」
「……診ていた。」
「そこだけ拾わないでください。」
「はい。」
「もう僕は、寝台から降りるだけで脚が震える十三歳ではありません。」
握られた手に、少し力が入る。
「患者という理由だけで、あなたの傍にいることも難しくなる。」
「別に診察なら――」
「診察では足りないんです。」
はっきり言われた。
「ですから次は、一人の男として傍に置いてください。」
一度言葉を切って。
「できれば、夫として。」
マリヴェルは考えた。
シリウスが咳払いをすれば、今でも反射的に顔を見る。
食事を残せば理由を聞く。
冬が近づけば、今年の予防方針を考える。
無理をすれば腹が立つ。
体調を崩せば心配になる。
頭のどこかに、どうしても十三歳の少年が残っている。
「なぜそんなに胡乱な顔をしているんですか。」
「いえ。夫も患者も、それほど変わらないのではと。」
「全然違います。」
「具体的には?」
シリウスの頬が赤くなった。
「一緒に出掛けたり。」
「毎朝走っていますね。」
「手を繋いだり。」
「診察で手首にはよく触れます。」
「それは脈を測っているだけです!」
「接触という意味では同じでは?」
「違います。」
「そうですか。」
「同じ寝室で眠ったり。」
「病状が悪かった頃は、夜間も何度か付き添いました。」
「……。」
シリウスの眉間へ深い皺が刻まれた。
しばらく顔を伏せる。
そして、再び上げた時には、妙に決然とした顔になっていた。
「マリヴェル。」
「はい。」
「もう言葉で説明しても伝わらないなら、方法を変えます。」
「何を――」
両手で頬を包まれた。
次の瞬間。
唇へ、柔らかなものが触れた。
マリヴェルの頭が真っ白になった。
一度だけ。
そう思ったのに。
離れかけた唇が、少し角度を変えてもう一度重なる。
今度は先ほどよりも長い。
確かめるように、しかし急かさず、柔らかく食むような口付けだった。
近い。
睫毛が長い。
こんなに長かっただろうか。
いや、知っている。
昔から長かった。
しかし、その時は睫毛を見ても「長いな」で終わっていた。
今は。
何故か。
近過ぎる。
胸がうるさい。
脈拍が速い。
交感神経優位。
いや違う、診断するな。
五年前。
婚約者から、
「君よりも優先しなければならない人がいる。」
と言われた。
だから自分も、その人を最優先にした。
ただ、それだけだったはずなのだ。
ところが気付けば。
婚約者はいなくなった。
何でもそこそこだった自分には、一生研究したいと思える仕事ができた。
寝台の上で苦しそうに咳をしていた少年は、美しい青年へ成長した。
そして現在。
その青年が、自分へ口付けしている。
ようやく唇が離れた。
「……分かってもらえましたか。」
「……はい。」
さすがに、これは患者にはしない。
シリウスが、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった。」
「何がです?」
「ここで『口腔内細菌について考慮すると』とか言い出されたら、どうしようかと思っていました。」
「……。」
「考えたんですね?」
「一瞬だけ。」
「考えたんですね!?」
「口には出さなかったでしょう。」
「そこを評価しなければならないんですか?」
失礼な青年である。
その失礼な青年は、今度は診察のためではなく、マリヴェルの手へ自分の指を絡めた。
「……これは?」
「恋人がする方の手繋ぎです。」
「なるほど。」
「診察しないでください。」
「していません。」
「今、親指で脈を探しませんでした?」
「癖です。」
「直してください。」
マリヴェルは、改めて隣の青年を見た。
十三歳ではない。
寝台にもいない。
頬には健康的な血色があり、自分より背が高く、肩も広くなった。
握られた手も大きい。
そうか。確かに、もう、この青年を「患者」の一言だけで片付けるのは難しい。
では、夫。
いや、まだ婚約もしていない。
まずは恋人なのだろうか。
そう考えた途端。
今まで何とも思わなかった整った顔が、急に妙な意味を帯びた。
近い。非常に近い。
マリヴェルの頬が熱くなる。
反射的に視線を逸らした。
「マリヴェル。」
「何です。」
「もう一度、口付けしても?」
「……元気になった途端、随分ぐいぐい来るようになりましたね。」
「また患者へ戻される前に、少しでも実績を積んでおかなければ。」
「経験的根拠に基づく方策ですか。」
「あなたが、証拠と実績を重視するよう教えたんでしょう。」
シリウスが笑った。
随分と、生意気になった。十三歳の彼なら、こんな顔では笑わなかった。
それが、何故か嬉しい。
確かに実績は大切だ。
マリヴェルは少しだけ身を寄せると、今度は自分から、シリウスの唇へそっと口付けた。
目を見開いた青年を見て、少しだけ満足する。
婚約者の自分より大切な存在だと言われたので、こちらも全力でその人を優先しただけだったのだが。
どうやら、少々、優先し過ぎたらしい。
再度合わさった唇の柔らかさを感じながら、マリヴェルは今度こそ静かに目を閉じた。




