泥濘(ぬかるみ)の獣道と、歩く荷物
泥が、足首までねっとりとまとわりつく。
一歩踏み出すごとに「ズチュリ」といやらしい音が鳴り、体力を削り取っていく。
「……ひどい道だ。水はけの概念がまるでない。これじゃあ、ただの泥の沼だ」
降りしきる土砂降りの雨の中、男は低く呟き、額に張り付いた濡れた前髪を無造作に拭った。
男の背中には、彼自身の背丈ほどもある巨大な木製の背負子しょいこが何重もの革ベルトで固定されており、そこには防水布に厳重に包まれた鈍く光る巨岩――村を魔物から守るための『結界石』が鎮座している。
総重量は、ゆうに100キロを超えていた。
常人なら持ち上げるどころか、背負った瞬間に膝の軟骨が悲鳴を上げて潰れる重さだ。しかし男は、太い丸太のような両脚を泥に沈ませながらも、決して歩みを止めなかった。
「おいボッカ! 何ブツブツ言ってやがる! さっさと歩け!」
数メートル前方を歩く軽装の護衛剣士が、雨音に負けじと苛立たしげに怒鳴りつけてきた。
ボッカ。本名は別にあるが、どんな重い荷物でも黙々と運ぶその姿から、同業者たちは彼を「歩く荷物」と呼んだ。
筋骨隆々とした体躯と、無精髭の生えた無骨な顔つき。彼は魔法も使えなければ、特別な剣の腕があるわけでもない。ただのしがない平民の「運び屋ポーター」だった。
そして彼自身も、前世の記憶にある『歩荷』という、過酷な山道を自らの足だけで荷を運ぶ職人の名前に親近感を覚え、その通り名を名乗っていた。
「……いや、ペースを落とす。これ以上速度を上げると危険だと言っているんだ」
ボッカは足元の泥を、登山靴のようなどっしりとした分厚い革ブーツで踏み固めながら、静かに、だが確かな声で返した。
「この土質にこの雨量だ。地盤が限界まで水を吸ってる。おまけに、無計画に通った馬車の轍のせいで、斜面の強度が完全に死んでるぞ。いつ崩れてもおかしくない」
「うるせえ! 素人が知ったような口を利くな! この先はオーガの縄張りなんだ、暗くなる前にさっさとこの山を越え――」
「素人じゃない」
護衛の言葉をピシャリと遮り、ボッカは目を細めた。
雨の冷たさとは違う、冷徹な分析の光がその眼には宿っていた。
前世――前世の彼は、インフラ整備の現場で土とコンクリートに塗れて働く、生粋のプロフェッショナルだった。
都市開発、トンネル工事、橋梁の架設。どんな過酷な現場でも、図面を引き、地質を読み、重機を操り、人々の生活の基盤となる『安全な道』を造り続けてきた。
そして皮肉にも、海外の山岳地帯で重機材を運搬中、基準を全く満たしていない「手抜き工事」の道路が崩落し、トラックごと谷底へ落ちて命を落としたのだ。
落下する車内で感じた、あの強烈な無念。
『俺が作ってさえいえば…。荷物の積み方も完璧だった。道さえ……道さえまともなら、絶対に届けられたのに』という、職人としての底知れぬ怒り。
だからこそ、ボッカにはわかる。
魔法が存在し、魔物が闊歩するこの剣と魔法のファンタジー世界において、人々が当たり前のように「道」と呼んでいるこの獣道が、どれほど致命的な欠陥を抱えているかが。
路盤の基礎となる砕石も敷かれておらず、雨水を逃す側溝の計算もデタラメ。ただ人が歩いて草がハゲただけの土の表面を、重い荷馬車が無理やり通ることで深く抉れ、そこに水が溜まり、さらに地盤を腐らせていく。
こんなものは道ではない。ただ死と隣り合わせのギャンブルだ。
「いいか、若いの。この道の右側、山肌の方をよく見てみろ。泥水が赤く濁り始めてるだろう。あれは地中の粘土層が限界を超えて溶け出してる証拠だ。完全に『液状化』が始まってる」
「えき、じょう……? 何を訳の分からねえ呪文みたいなことを! いいからその重石を運べ! 間に合わねえなら置いていくぞ!」
「荷物は絶対に捨てない」
ボッカは即座に言い放ち、結界石の重みを腰と太ももの巨大な筋肉に分散させるように、さらに体勢を低くした。
「山の向こうじゃ、古い魔物除けの結界が消えかかって、村人たちが震えながらこいつを待ってるんだ。……俺は『運ぶ』と契約したプロだ。荷物に罪はない」
「だが、ルートは変える。お前はそのまま行け。俺は少し遠回りになるが、尾根の岩盤が露出してる斜面沿いを進む。あっちならまだ土砂崩れのリスクは低い」
ボッカが頑丈なブーツの爪先を、辛うじて草木が根を張る岩場の方へ向けようとした、まさにその時だった。
ズズンッ……!!
腹の底、いや、山そのものの内臓から響くような、重く不気味な音が湿った空気を震わせた。
「え……?」
数メートル前方を歩いていた護衛剣士が、間抜けな声を漏らして足元を見た。
彼が立っていた「道」――ただのぬかるんだ土の表面が、嫌な音を立てて蜘蛛の巣のように大きくひび割れたのだ。
「なっ、なんだこれ!?」
ただの泥濘みではない。山肌そのものが、長年の雨と劣悪な環境、そして無秩序に踏み荒らされたダメージに耐えきれず、深さ数十メートルの谷底へ向かって、巨大な一枚のカーペットのように滑り落ちようとしていた。
ボッカが危惧していた最悪の事態。大規模な斜面崩壊ランドスライドの発生だ。
「う、うわあああああっ!!? た、助け――」
足場を完全に失い、護衛の体が泥の激流とともに宙に浮く。
地鳴りが山の悲鳴となって周囲を包み込んだ。
そしてボッカの立っている位置も、すでに崩落の巻き添えになる範囲に完全に呑み込まれていた。
常人なら、あるいはただの金目当ての荷運びなら、ここで即座に100キロの荷物を繋ぐ革ベルトをナイフで切り裂き、身軽になって安全な岩場へ飛び移ろうとしただろう。自分の命には代えられない。
だが、ボッカは違った。
『これを失えば、待ってる村人は全滅する』
彼の脳裏をよぎったのは、自己保身ではなく、荷物の安全だった。
ボッカは咄嗟に、背中の巨大な『結界石』を庇うように体を丸め、両手でしっかりと背負子の太いベルトを握り込んだ。
結界石をクッションにするのではない。自らの頑強な肉体と背負子の木枠を、結界石を守るための『緩衝材』にするための、運び屋としての本能的な防御姿勢。
「……クソッ、また『道』に殺されるのか……っ!!」
前世と同じ死の恐怖よりも、未熟なインフラに対する強烈な怒りと歯痒さが胸を支配する。
轟音。
視界が反転し、叩きつけるような雨粒が下から上へと吹き抜けていく。
崩壊する泥の大地とともに、ボッカの巨体は100キロの荷物を背負ったまま、底知れぬ暗い谷底へと一気に飲み込まれていった――
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