供えるということ
夜の神社は、昼とはまるで顔が違った。
昼間は子どもや買い物帰りの人が行き交う場所なのに、日が落ちると、音が一段深くなる。
千代は、小さな包みを両手で抱えて、石段を上っていた。
中にあるのは、今日作ったおはぎ。
「毎日、持ってくる必要はないぞ」
隣を歩くお稲荷様が言う。
「……でも」
「分かっておる。今日は、聞きたいことがある顔だ」
図星だった。
千代は一段上るごとに、胸の奥がきゅっとするのを感じていた。
拝殿の前に立ち、包みを供える。
手を合わせようとして、千代は一瞬、迷った。
「……何を祈ればいいんですか」
その問いに、お稲荷様はすぐ答えなかった。
「祈らなくていい」
「え」
「供える、というのはな」
お稲荷様は、供えられたおはぎを見下ろす。
「願いを押しつけることではない」
「じゃあ、意味って……」
「在ることを、認めることだ」
千代は、言葉を反芻した。
「今日は、こういう味になりました。
こういう一日でした。
それを、そのまま差し出す」
お稲荷様は、静かに続ける。
「神はな、努力も苦労も、全部知っておる。
だから、説明はいらん」
風が、拝殿の鈴を小さく鳴らした。
「……祖母も、こうしてたんですか」
千代の声は、少し震えていた。
「ああ」
短い返事。
「あやつは、売れ残りは供えなかった」
「……やっぱり」
「売れなかったから、ではない」
お稲荷様は、はっきり言う。
「その日の味を、その日のうちに区切るためだ」
千代は、祖母の後ろ姿を思い出した。
夜、誰もいない店で、静かにおはぎを包んでいた姿。
「あの人はな」
お稲荷様は、少しだけ目を伏せた。
「おはぎを、神に捧げていたのではない」
「……え」
「人に出す覚悟を、神に見せていた」
千代の胸が、どくんと鳴った。
「売れようが、売れまいが。
今日の味は、これだ、と」
だから、祖母のおはぎは、強かった。
誰に媚びるでもなく、流されるでもなく。
「……私は」
千代は、小さく言った。
「ずっと、怒られない味を作ろうとしてました」
「だろうな」
お稲荷様は、否定しない。
「だが、それでは供えられん」
「……はい」
「供えるというのは、逃げ場をなくすことだ」
厳しい言葉だった。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
「明日から」
お稲荷様は、境内を見渡しながら言う。
「お主の店は、少しだけ変わる」
「何が、ですか」
「お主自身が、だ」
帰り道、千代は振り返った。
拝殿に置かれたおはぎは、闇の中でも、確かにそこにあった。
誰にも見られなくても。
評価されなくても。
「……私、明日も作れます」
ぽつりと呟く。
「うむ」
お稲荷様は満足そうに頷いた。
「それが、供えたということだ」
潰れかけのおはぎ屋は、
この夜、ようやく「続ける理由」を手に入れた。




