小豆に謝れ!
「まず言っておく」
朝の厨房は、まだ外よりも冷たい空気を含んでいた。
炊飯釜の前で腕を組み、お稲荷様は低い声で言った。
「おはぎ作りを甘く見るな」
「……見てません」
千代は小さく反論したが、視線は釜から逸らせない。
中では、昨夜から水に浸しておいた小豆が、静かに待っている。
「見ていない者ほど、見ていないものだ」
お稲荷様は釜の蓋を開け、湯気の向こうを覗き込んだ。
「火を入れろ」
千代は言われるままにガスを点ける。
祖母から教わった通りの火加減。
何度も何度も繰り返してきた、体が覚えている動きだった。
しばらくして、豆が揺れ始める。
「止めろ」
「え? まだ――」
「止めろと言った」
慌てて火を止めると、お稲荷様は豆を一粒すくい、指で潰した。
「硬い」
「……でも、ここからが」
「言い訳は後だ」
そのまま、鍋を千代の方へ突き出す。
「今の小豆に、何と言う」
「……は?」
「言葉だ。小豆にだ」
千代は一瞬、本気で頭がおかしいのでは、と思った。
だが、昨日からの出来事を思い出し、反論する気力も削がれている。
「……えっと……」
小豆。
毎日扱ってきたはずなのに、急に他人のように感じた。
「……ごめんなさい?」
お稲荷様は眉をひそめた。
「違う」
「え」
「謝る相手を間違えるな。今のは、自分に対する言い訳だ」
そう言って、鍋を戻す。
「お主は、小豆を『使っている』」
「……はい」
「祖母は、『預かっていた』」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
「小豆は生き物だ。甘くなるにも、崩れるにも理由がある。
だが、お主は毎回同じ工程をなぞるだけで、今日はどうなのかを見ておらん」
「……そんなこと」
「では、今日の豆は、昨日と同じか?」
千代は答えられなかった。
産地も、天候も、浸水の時間も、微妙に違う。
分かってはいた。
でも、それを味として受け止める余裕は、いつの間にか失っていた。
「商売が苦しくなると、人は作業に逃げる」
お稲荷様は静かに言った。
「考えるのが怖くなるからだ」
千代は唇を噛んだ。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
「見る」
即答だった。
「触れ。嗅げ。聞け。
今日は、どんな甘さになりたいかをな」
「……小豆が?」
「そうだ」
お稲荷様は、ふっと笑った。
「分からなければ、何度でも失敗すればよい。
この店は、まだ終わっておらん」
再び火を入れる。
今度は、千代はじっと鍋を見つめ続けた。
音。
匂い。
豆が湯の中でほどけていく感触。
祖母の背中が、ふと脳裏をよぎる。
「おはぎはね、急かすと拗ねるんだよ」
あの言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
「……今日は、ゆっくりがいい?」
思わず、口に出た。
お稲荷様は、何も言わない。
ただ、その金色の目が、わずかに細くなった。
その日、出来上がった餡は、決して完璧ではなかった。
形も揃っていない。
甘さも、少し控えめだ。
けれど。
「……あ」
千代は、一口食べて声を漏らした。
「……ちゃんと、いる」
そこに、小豆がいた。
「ようやく、挨拶ができたな」
お稲荷様は、満足そうに頷いた。
「次は、米だ。
覚悟しておけ。米は、小豆より気難しい」
千代は、思わず苦笑した。
潰れかけのおはぎ屋の朝は、こうして少しずつ、変わり始めていた。




