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他の女と子供を作ってきて「愛している」はないでしょう

作者: ピラビタ

 レイナ・ヴァルディアは、朝の光に包まれた学園の庭園を、いつもよりゆっくりと歩いていた。

 花壇の縁をなぞるように、なるべく人目につかない道を選ぶのは、長年の癖だ。


 控えめであること。

 出過ぎないこと。

 それがヴァルディア家の娘として教え込まれてきた振る舞いだった。


 ――だから、こんな視線を向けられる日が来るなんて。


 ひそひそとした声が、背後から耳に届く。


 「……本当かしら」

 「ええ、フェルク家の次男が、子供を……」


 言葉の続きを聞く前に、レイナはぎゅっと手を握りしめた。

 噂はもう、学園中に回っている。


 婚約者であるアルヴィン・フェルクが、別の女性との間に子を儲けた――その事実が。


 しかも、その相手は。


 「……マリエ、様……」


 喉の奥がひくりと引きつる。

 思い出されるのは、数日前の放課後。偶然見かけてしまった、二人の姿だった。


 腕を絡めるマリエ・ルフォール。

 当然のようにそれを受け入れ、周囲を気にも留めないアルヴィン。


 まるで――自分の方が、場違いな存在であるかのように。


 「……違う、考えちゃだめ」


 レイナは小さく首を振り、呼吸を整えようとする。

 だが胸の内側は、落ち着くどころかざわつく一方だった。


 そこへ。


 「レイナ」


 呼び止める声に、びくりと肩が跳ねる。

 振り向いた先にいたのは、噂の中心人物――アルヴィンだった。


 どこか疲れたような、それでいて計算の色を隠しきれていない表情。

 彼は周囲をちらりと見回してから、声を落とす。


 「誤解だ。全部、君が思っているような話じゃない」


 ――最初の言葉が、それなのだ、と。

 レイナの胸に、冷たいものが沈んだ。


 「で、ですが……噂では……」


 思わず弱々しい声が漏れる。

 アルヴィンは、その反応を待っていたかのように、安堵した顔を浮かべた。


 「だから噂だと言っているだろう。君はいつも、人の話を真に受けすぎる」

 「マリエは……少し、事情があって世話をしていただけだ」


 事情。

 世話。

 どれも、責任から逃げるための言葉にしか聞こえない。


 それでもレイナは、すぐに言い返せなかった。

 育ちが、性格が、そうさせなかった。


 「……そう、なのですね」


 俯きながら答えると、アルヴィンは満足そうに息を吐く。


 「分かってくれればいい。君は大人しいから、余計な波風を立てないでくれ。愛しているよ」


 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥で、何かが静かに切り替わった。


 ――何が「愛している」なのか。

 それは魔法の言葉では決してない。

 ああ、この人は……

 最初から、私を守るつもりなどなかったのだ。



 その日の昼休み。

 レイナは図書館の隅で、一人静かに座っていた。


 耳に入るのは、断片的な会話。


 「フェルク家、大丈夫なの?」

 「相手、ルフォール家でしょう?でも婚約してたのは……」


 噂は、誰かが意図的に流さなくても、自然に広がっていく。

 家柄と家柄。

 責任と立場。

 それらが絡めば、沈黙はむしろ不自然だった。


 レイナは、本を閉じる。


 ――感情的になっても、何も変わらない。

 ――泣いて縋っても、軽んじられるだけ。


 そう理解した瞬間、胸の奥にあった震えは、少しずつ形を変え始めていた。


 怖い。

 不安だ。

 それでも。


 「……ちゃんと、見極めないと」


 誰が、何を守ろうとしているのか。

 誰が、責任から逃げているのか。


 おどおどと伏せていた視線が、静かに前を向く。

 まだ小さく、まだ不完全だが――確かな変化だった。


 レイナ・ヴァルディアは、知らぬ間に決めていた。

 もう、何も分からないふりをするのはやめよう、と。


 翌日から、学園の空気は明らかに変わった。


 レイナ・ヴァルディアが廊下を歩くと、会話が一瞬止まり、そしてまた小さく再開される。

 好奇の視線、同情、そして――値踏み。


 それでも彼女は、以前と同じように静かに振る舞った。

 背筋を伸ばし、歩幅を乱さず、何も聞こえていないふりをする。


 だが、何も起きていないわけではなかった。


 「ヴァルディア嬢」


 昼前、貴族科の教室で声をかけてきたのは、同じ伯爵家の令嬢だった。

 気遣うような微笑みの裏に、探る色がある。


 「大変ですわね……その……フェルク家の件」


 レイナは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とし、それから小さく首を振った。


 「……私も、詳しいことは存じませんの」


 それだけを告げる。

 否定も肯定もせず、誰かを責めることもしない。


 その曖昧さが、かえって噂に重みを与えた。


 ――フェルク家は、説明をしていない。

 ――ヴァルディア家は、沈黙している。


 貴族社会において、その二つは「不利」の兆しだった。


 その日の放課後。

 レイナは呼び出され、応接用の小部屋に足を運んでいた。


 そこにいたのは、婚約者であるアルヴィン・フェルクと――マリエ・ルフォール。


 「……あら、レイナ様」


 マリエは腹部を庇うように手を添え、わざとらしく微笑んだ。

 その仕草だけで、周囲に何を主張したいのかが分かる。


 「お身体は……大丈夫なのですか」


 レイナが控えめにそう尋ねると、マリエは一瞬だけ眉をひそめ、すぐに勝ち誇ったような表情に変えた。


 「ええ、もちろん。アルヴィン様が、ずっと支えてくださっていますもの」


 隣でアルヴィンが、わずかに肩を強張らせる。


 「マリエ、その言い方は――」


 「だって事実でしょう?」


 マリエは言い切った。

 その声音は柔らかだが、明確にレイナを見下している。


 「私とこの子は、フェルク家の未来に必要なのですもの。

 ……あなたも、分かってくださいますわよね?」


 空気が、張りつめた。


 レイナはすぐには答えなかった。

 以前の彼女なら、慌てて否定し、場を取り繕おうとしただろう。


 だが今は、違った。


 「……未来、ですか」


 小さく、しかしはっきりとした声だった。


 「フェルク家の未来については、当主同士でお話しになることかと存じます」


 マリエの笑みが、わずかに歪む。


 「私は、あくまで婚約者という立場でしたので」


 “でした”

 その過去形に、アルヴィンがぴくりと反応した。


 「レイナ、待ってくれ。まだ、正式に決まったわけじゃない」


 焦ったように言い訳を重ねるアルヴィン。

 その姿は、学園で噂されている“頼れる貴族子息”とは程遠い。


 「責任は取るつもりだ。だが、家の判断もあるし……君だって、分かっているだろう?」


 分かっているだろう、という言葉。

 それは理解を求めるふりをした、押し付けだった。


 マリエはそれを好機と見たのか、さらに一歩踏み込む。


 「そうですわ。レイナ様は控えめでお優しい方。

 きっと、身を引くことが“正しい選択”だと――」


 「ルフォール様」


 レイナは、初めてマリエの言葉を遮った。


 声は震えていない。

 視線も逸らさない。


 「正しさを決めるのは、私ではありません」


 マリエは目を見開いた。

 反論されることに慣れていない顔だった。


 「それに」


 一拍置き、レイナは続ける。


 「貴族にとって大切なのは、感情よりも責任ですわ」


 その言葉は、柔らかだが鋭かった。


 アルヴィンの顔色が、目に見えて悪くなる。

 マリエは唇を噛み、苛立ちを隠そうともしなくなった。


 「……ずいぶん、強気になられましたのね」


 「いいえ」


 レイナは静かに首を振る。


 「今までが、何も言わなすぎただけです」


 その場を支配していたのは、もはやマリエでもアルヴィンでもなかった。

 説明も、弁明もできない二人が、ただ追い詰められていく空気。


 数日後。

 フェルク家とルフォール家に関する話は、学園の外――社交界にまで届き始める。


 婚約を結んだまま、別の女性を妊娠させた子息。

 それを正当化し、当然の権利のように振る舞う相手。


 そして、沈黙を保ちながらも一切取り乱さないヴァルディア家令嬢。


 評価が、静かに逆転していった。


 レイナはその流れを、驚くほど冷静に見つめていた。


 ――これは、誰かを貶めた結果ではない。

 ――ただ、彼ら自身の言動が、形になっただけ。


 自分の足元が、少しだけ確かになるのを感じながら。


 学園に正式な通達が届いたのは、それから一週間後のことだった。


 フェルク家とヴァルディア家の婚約は、双方合意のもとで解消された――

 表向きは、そう記されている。


 だが、事情を知る者は皆分かっていた。

 これは“穏便な形を取った断罪”だと。


 アルヴィン・フェルクは、教室で完全に孤立していた。


 これまで彼を取り巻いていた友人たちは、いつの間にか距離を取り、話しかける者もいない。

 かつて誇らしげに語っていた家柄も、今では重荷でしかなかった。


 「……違うんだ」


 すれ違いざま、彼はレイナに縋るような声を投げかけた。


 「全部、俺が悪いわけじゃない。家が、周りが……」


 レイナは足を止めた。


 一瞬、胸の奥にかすかな痛みが走る。

 けれどそれは、情ではなく、過去への名残だった。


 「アルヴィン様」


 静かに振り返り、はっきりと告げる。


 「誰のせいかを考える前に、向き合うべきことがございますでしょう」


 それ以上、言葉はなかった。


 彼女はもう、説明を求めていない。

 理解も、期待も、すでに手放していた。


 一方、マリエ・ルフォールの転落は、より鮮烈だった。


 「どういうことですの!? 話が違うではありませんか!」


 学園の談話室で声を荒げる姿を、多くの生徒が目撃している。


 「私はフェルク家に迎えられるはずだった!

 この子だって――」


 だが、周囲の視線は冷ややかだった。


 彼女が“選ばれた存在”ではなく、

 “問題の象徴”として見られていることに、マリエ自身が気づいていない。


 貴族社会は残酷だ。

 同情よりも、評価を優先する。


 未婚で身籠ったこと。

 それを誇示し、他者を踏みつけるように振る舞ったこと。


 そのすべてが、彼女自身の首を絞めていた。


 「……ルフォール家は、当面社交を控えるそうですわ」


 囁かれる噂に、レイナは表情を変えなかった。


 ただ、静かに受け止める。


 そして迎えた、最後の場面。


 婚約解消後の正式な挨拶の場で、レイナはフェルク家当主と向き合っていた。


 「……息子の不始末、誠に申し訳ない」


 深く頭を下げられ、彼女は一瞬戸惑う。


 だが、すぐに背筋を伸ばした。


 「いえ」


 凛とした声で、はっきりと。


 「学ばせていただきました。

 自分の立場と、守るべきものを」


 その言葉に、当主は静かに目を伏せた。


 帰り道、学園の庭園を歩きながら、レイナは空を見上げた。


 朝と同じ場所。

 けれど、感じる空気はまるで違う。


 もう視線を避ける必要はない。

 花壇の脇を選ばずとも、堂々と歩ける。


 「……大丈夫」


 小さく呟いた言葉は、自分自身へのものだった。


 控えめであることは、弱さではない。

 黙っていたからといって、何も考えていなかったわけではない。


 ただ、声を上げるべき時を、待っていただけ。


 レイナ・ヴァルディアは、ゆっくりと前を向いた。


 失ったものよりも、

 これから選び取る未来のほうが、ずっと大切だと知ったから。


 朝の光は、変わらず彼女を照らしている。


 けれど今度は、

 その中を、胸を張って歩いていける――。



 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 派手に声を荒げるのではなく、

 静かに立場が逆転していく物語を書きたいと思い、このお話を形にしました。


 控えめであることと、弱いことは同じではありません。

 言葉にしなかった分、胸の内で積み重ねてきた想いが、

 ある日きちんと形になる――そんな瞬間を感じていただけたら嬉しいです。


 少しでも「読んでよかった」と思っていただけましたら、

 評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


※本作は連載版として続編を投稿しています。

先の話も書いていきますので宜しければそちらも是非ご覧に下さい。

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