13.不快感
マリアに対する不快感は、翌朝になっても微塵も薄れなかった。
寝ても覚めても、胸の奥にどろりとした澱のように残っている。
あの日を境に、マリアは頻繁にルイのもとを訪れるようになった。
まるで放課後の鐘が鳴る音を合図にしたみたいに、きっかり決まった時刻に姿を現し、屈託のない笑顔でルイを呼びにくる。
その光景を何度見ても、どうしても胸の中に黒い波が立つ。
彼女が放課後に現れる理由はわかっている。
アルフレッドが生徒会の活動で忙しい時間帯だからだ。
マリアにとっては好都合なのだろう。
彼女は必ずその隙を狙って教室に現れ、当然のようにルイを連れ出した。
数学研究会がある日は流石に会えない……のかと思いきや、彼女はルイと会うためにわざわざ数学研究会に入ったらしい。
モーリスを始めとした他の会員達が異界言語を喋れないのをいいことに、ルイと異界言語で語り合っているのだとか。
ルイに友達ができるのは、良いことじゃないか。
そう何度も頭の中で唱えてみた。
だが、唱えるたびにその言葉が喉に詰まり、苦いものが込み上げてくる。
ルイがモーリスと楽しげに議論している時は、むしろ微笑ましいと思えるのに。
どうしてマリアが相手になると、あんなにも神経が逆立つのだろう?
もしかして私は、マリアという人間が生理的に無理なのか?
そう考えもした。
だがすぐに、それも違うと気づく。
最初に会った時、マリアに対して嫌悪なんて欠片もなかった。
明るく愛嬌があって、普通に好感を持てる子だった。
その印象は今も変わっていない。
彼女は何も悪いことをしていない。
ただ、私の中のどこかが勝手に軋んでいるだけ。
ならば、この不快感の原因は私自身にあるのだろう。
彼女は悪くない。
そう思うほどに、胸の痛みが強くなる。
最近はルイにも気づかれてしまったらしい。
私の苛立ちを察して「マリア様と会うのをやめましょうか」と言った時、頭の中が真っ白になった。
それは駄目だ。
私の不可解な感情のせいで、ルイから友人を奪うなんてあってはならない。
私は笑って、「そんなことを言わないで」と返したけれど、その笑みはたぶん、少し引きつっていた。
こんなにも感情の扱いが下手になるなんて、自分でも驚く。
私はいつも冷静で、理性的であるはずだった。
なのにマリアがルイの隣に立つたび、頭の中がノイズでいっぱいになる。
今日もまた、そんな自分を律しようと心の中で深呼吸していた時だった。
教室の扉が開く。
扉の前にいるのは、マリアだった。
彼女はイザベラの姿がないことを確認すると、安心したように教室の中へ足を踏み入れる。
きっと、イザベラがアルフレッドに告げ口することを恐れて警戒しているのだろう。
『ヤッホー! キャシーちゃん、クロスくん!』
マリアの明るい声が弾むように通り抜けた。
彼女は扉の前で軽く手を振り、私たちに満面の笑みを向ける。
『ふふふ。クロスくん、今日は前に話したあの件、手伝ってもらうよ!』
マリアがルイの目の前に顔を寄せると、ルイは少し目を瞬かせた。
『構いませんが、僕は器用ではないので、お力になれるかどうか……』
『大丈夫大丈夫! 私も最初は全然上手くなかったけど、何度もやることで、そこそこ成長したから。クロスくんなら、きっとできる!』
二人は私にだけ分からない話で盛り上がる。
まるで二人だけの世界が、そこにできているかのようだった。
なにを、そんなに楽しそうに話しているの?
胃の奥に、ゆっくりと熱いものが溜まっていくのがわかった。
『ですが……』
ルイは、ほんの少し頬を赤らめる。
『少々、恥ずかしい感じがします』
『恥ずかしがることないよ! なんせ人と人との営みは、私達人類が繁栄するために必要な行為なんだから!』
……は?
一瞬、思考が停止した。
教室の時間が止まったかのように感じた。
マリアの軽やかな声が、残響のように私の耳から離れない。
人と人との営み?
今、彼女は何と言った?
ルイが困ったように眉間に皺を寄せ、愛想笑いをする。
私の頭の中は、もはやその単語を理解する余裕すらなかった。
──マリアは一体、ルイに何をさせようというの?
その言葉は、喉の奥でかすれ、声にならず消えた。
それでも内側で膨れ上がる感情は止めようがない。
胸の中心が、焼けた鉄で押されるみたいに痛む。
目の奥が熱い。
視界がわずかに滲んだ。
私の中で湧き上がる、この不可解な感情は何なのか?
マリアの言う『人と人との営み』って、もしかして…?
思考と感情がぐちゃぐちゃに混ざり、境界がわからなくなる。
するとマリアがこちらを振り向き、屈託のない笑顔を見せた。
『そういうことで、キャシーちゃん、今日も……』
だが私の顔を見た瞬間、彼女の声が止まった。
表情が凍りつき、ほんの一瞬、息を呑む音がした。
『……あら? どうしたの?』
『キャシーちゃん、もしかして……怒ってる?』
『え?』
言われて、初めて自分の顔の筋肉が引きつっていることに気づく。
いつも通りの笑顔を取り繕っていたつもりだったが、うまく笑えていなかったのだろう。
その歪な笑みに、マリアの目が怯えたように揺れた。
『怒ってないわよ』
咄嗟に否定するが、自分でも驚くほど声が硬い。
そのせいか、マリアは信じていないようだった。
眉を寄せ、不安そうに覗き込んでくる。
『本当に?』
隣でルイも口を開いた。
『キャサリン様、無理なさっているのではないでしょうか?』
二人の視線が同時に刺さる。
もう誤魔化せない。
なら、いっそ正直に話した方がいいのかもしれない。
胸の奥に溜まった苦い空気を吐き出すように、私はゆっくりと口を開いた。
『……実はね。私、なぜか気分が優れないの。誤解しないで欲しいのだけれど、マリアは優しくて良い子だと思うわ。だけどね…』
マリアに今の気持ちを伝えようとした時。
自分の声が、怒りで震えているのを感じた。
『ここ最近、貴女の顔を見ると、なぜだか無性に腹が立ってしまうの』
途端に、場の空気が凍りついた。
鉛のように重い沈黙が続く。
やがてマリアの下瞼に溜まった涙が溢れると、堰を切ったように泣き崩れた。
『う、うわぁぁぁ……っ!』
目薬を指したのか、と疑いたくなるほどの滂沱。
わざとらしいくらい、大きくしゃくり上げる声。
そんなマリアを心配するように、その場にいた生徒たちが皆いっせいに振り返る。
すると、騒ぎを聞きつけたかのようにイザベラがタイミングよく教室に入ってきた。
『ドシマシタ! マリアサマ!』
イザベラは息を弾ませ、マリアの傍らへ駆け寄る。
『私、キャシーちゃんに……』
マリアが泣きながら言いかけた瞬間、言葉が嗚咽で途切れた。
『キャシチャン?』
単語の意味が理解できなかったイザベラは、眉間に皺を寄せて聞き直す。
『…キャサリン様に……うわぁぁ!』
するとマリアの泣き声が、鼓膜を突き刺すほど大きくなった。
肩を震わせて咽び泣くマリアを見たイザベラは、表情が氷のように固まった。
「ベルモント様」
彼女の声は低く落ち着いていて、棘がある。
「マリア様と一体、何があったのでしょうか? お優しいマリア様が号泣されるなんて、余程のことだと思いますが」
イザベラは一歩も引かず、冷静で中立的な口調を装いながら、はっきりと敵意を滲ませている。
その視線は、まるで私が悪者だと言わんばかりだ。
──まぁ、今回に限っては客観的に考えて私が悪いのだが。
ここで彼女に反論しても無意味だろう。
私は小さく息を吐き、言葉を探した。
「マリア様に対して思っていることを正直に述べただけです。ですが、言い方が悪く、彼女に泣かれてしまいました」
自分でも驚くほど淡々とした声だった。
ルイが心配そうにこちらを見ている。
その視線がまた、胸に刺さった。
私はゆっくりとマリアに歩み寄り、異界言語で話しかけた。
『マリア、ごめんなさいね。言い方が悪かったわ』
けれど、その声は届かない。
マリアの泣き声が大きすぎて、私の言葉など飲み込まれてしまった。
嗚咽が波のように打ち寄せ、言葉の隙間を埋め尽くす。
私はそれでも近づこうと一歩踏み出した。
だけどそこへ、イザベラがすっと私の前に立ち塞がる。
「ベルモント様。今日は一度、マリア様と距離を置かれて冷静になられてはいかがでしょうか? ベルモント様に悪意が無くとも、これ以上マリア様と関わるのはマリア様にとって負担になるのではないでしょうか?」
諭すように微笑みかけるイザベラ。
しかしその瞳は、刺すように鋭い。
周囲の生徒たちは、ざわめくこともなく、ただ沈黙して成り行きを見守っていた。
今の状況じゃ、どう弁明しても無意味ね。
「……確かに、一理ありますね」
それだけ言って、私は微笑を作る。
自分の頬がひきつる感覚を、もはや修正する余裕もなかった。
「では今日はこれにて失礼します」
背中に無数の視線を感じながら、私はルイを連れて教室の出口へ向かった。
その日、ベルモント邸までの帰り道が、これまでになく長く感じられた。




