11.異界言語の授業
「ねぇ、今日も数学研究会の活動があるの?」
「いえ、今日はありません」
「あらそう。じゃあ今日は一緒に帰れそうね」
私の笑顔につられるように、ルイも微かに口角を上げる。
教室の朝はいつも通り。
だけど、ルイの声が聞こえるだけで不思議と温かい。
昨日は色々あった。
暴行事件による退学処分に、ルイの無実の証明。
それらの件が噂で広まっているのか、多少の視線は感じるものの、ルイはあまり気にしていないようだ。
そう言えば昨日は、聖女であるマリアにも会ったわね。
彼女は『異界言語を話せる人間が少ない』と嘆いていたけど、異界言語が得意なルイなら彼女と友達になれそうだわ。
そんなことを考えている内に、今日の授業が始まった。
1限目は異界言語。
得意科目からのスタートだからか、ルイは少しのびのびとしているように見えた。
異界言語の担任教師は、凛々しい顔つきの中年女性だ。
教師が教壇に立つと、手に持った名簿を確認してから口を開く。
「さて、本日の授業ですが……特別講師をお招きしています」
その一言に、生徒達の間にざわめきが広がる。
そして扉が静かに開き、現れた人物に教室中が沸き立った。
「嘘……!」
「本物の聖女様だ!」
特別講師は聖女様、もといマリアだった。
『みなさん、はじめまして。マリア・クラウチです。よろしく、おねがいします』
マリアがゆっくりと丁寧に異界言語で挨拶をすると、教室全体が彼女を歓迎する雰囲気になった。
教室中の注目を集めた彼女は、緊張で強張った笑みを私達へ向けた。
教師はざわめく生徒達に「静かに」と注意した後、マリアを連れてきた理由を説明し始める。
「異界言語は、聖女様のいらした世界の言葉です。文字の読み書きは学べても、正しい発音を聞ける機会は滅多にありません。今日はその発音を中心に練習しましょう」
その言葉に、生徒達の士気が一気に高まった。
『聖女様直伝の発音練習』というのが、それだけで特別に感じるのだろう。
教師は教科書を開き、順に生徒たちを指名していく。
生徒一人ひとりが順番に前に出て教科書の一節を読み、教師は発音や抑揚、区切り方をチェックする。
マリアは時折、生徒の代わりに一節を読み、模範解答を示した。
朗読するのは『転移前日記』。
約千年前に現れた勇者ハンセンが書いた自伝だ。
勇者ハンセンの自伝は他にも『転移後日記』『世界救済旅日記』『結婚後日記』など色々ある。
その中でも特に読解が難しいとされているのが、この転移前日記だ。
転移前日記は、この世界に来る前の出来事を記録した物だ。
そのため、ただ単に異界言語が読めるだけでなく、異界の文化風習に対する理解も高くないと書いている内容が理解できない。
転移前日記を順番に読み進めると、やがて私の番が回ってきた。
ページをめくり、私は少し息を整えてから口を開く。
異界言語の発音に問題ないことは、昨日のマリアとの会話で確認済みだ。
淡々と教科書の一節を朗読すると、教室にいる誰もが、尊敬の眼差しを私に向けた。
否、イラベラと彼女の取り巻きだけは、冷めた瞳で私を見つめていた。
読み終えた瞬間、教室がしんと静まり返る。
次いで、マリアがふわりと笑った。
『言うことなし、です! キャシーちゃん、本当に完璧でした!』
「素晴らしいです、ベルモント嬢。皆さんも彼女を見習いましょう!」
教師が褒め称えると拍手の音がいくつも響き、数人の生徒が「さすがキャサリン様」と囁いた。
「それでは、次の段落を……ルイ・クロスさんに読んでいただきましょう」
教師がルイを指名すると、教室の空気が一瞬変わった。生徒達の視線は、一斉にルイへと向く。
そしてイザベラの口元が、わずかに吊り上がった。
彼女の朗らかな笑みは、まるで罠にかかった獲物を見る獣のようだった。
彼女はまだ、ルイを「異界の言葉など理解できるはずのない元奴隷」だと思っているようだ。
そう思っているのは彼女だけではなく、クラスの生徒のほとんどがルイに冷たい目を向けていた。
ルイは教科書を胸に持つと、深呼吸をひとつしてから朗読を始める。
『僕はこの日、アンナの母親から受けた連絡が忘れられなかった。なぜもっと彼女に会いに行かなかったのだろう? なぜ、この想いを素直に伝えなかったのだろう? 僕の心は後悔しか残らない。永遠に伝えることのできないこの想いは、一体どうすれば良いのだろう……』
教室の空気が静まり、教師もイザベラも、そしてマリアも驚きを隠せない様子でルイを見つめる。
朗読が終わっても、教室にはしばらく沈黙が続いた。
『凄いです! キャシーちゃん以外でも完璧に喋れる人がいるなんて、思いもしませんでした!』
「クロスさんの発音も文句なしです。聖女様も大絶賛されています」
その瞬間、クラスの評価は一挙に変わった。
「アイツは異界言語もできるのか!」「もしかしてキャサリン様と釣り合うレベルの天才なのでは?」と囁く声が聞こえてくる。
一方のルイは、教師と聖女様に褒められ、耳まで赤くして小さく頭を下げた。
「それでは、素晴らしい朗読をしてくれたクロスさんに、追加の問題を出しましょう」
教師は朗らかな笑顔で、期待を込めるようにルイに問いかけた。
「このシーンの少し前に、アンナさんのお母様は『娘は鬼籍に入りました』と言っていましたね。さて、アンナさんはどうなったのでしょうか?」
ルイは一瞬きょとんとした。
けれどすぐに真面目な顔で答える。
「はい。……死んだのだと思います」
次の瞬間、教室中が笑いの渦に包まれた。
ざわめき、お腹を抱え、手を叩く者もいた。
イザベラは勝ち誇ったように口元を押さえて笑い、その取り巻きが肩を震わせる。
私は、そんな彼らの方が滑稽で少し笑いそうになった。
「『鬼籍に入る』って文章のどこに死ぬ要素が入ってんだよ」
「いきなり死んだことにされたら、アンナさんが可哀想だろ」
「奴隷上がりの考えることは意味不明だな」
大勢からの嘲笑に、ルイは萎縮して顔を伏せた。
教師もルイの回答に、目を丸くして苦笑いしている。
そんな中、マリアだけは状況を理解できず、眉間に皺を寄せていた。
「はいはい、静かに! クロスさん。残念ですが、それは不正解です。正解は『鬼族に嫁いだ』です。他の方々が朗読した部分で、ハンセン様がアンナさんのことを『鬼嫁になりそうだ』と考えているシーンがありましたよね? 異界言語の『籍』という字は『集団などの一員として所属していること』を指します。なので鬼の籍に入るということは、鬼に嫁いだことを暗に示唆しているのです」
『あのぉ……すみません』
痺れを切らしたマリアは、恐る恐る教師に話しかけた。
『はい、マリア様。何でしょうか?』
『先程はなぜ、大きな笑いが起きていたのでしょうか?』
教師が先程出した問題とルイの回答を説明すると、今度はマリアがクスクスと笑い出した。
『あははは。それ、死んだで合ってますよ。私のいた世界……というより国では、死ぬことを鬼籍に入るって言ったりもするんです』
『まさか! 本当ですか?』
教師は新しく知った表現に、目を丸くして感心する。
イザベラを含む殆どの生徒達は、教師とマリアの会話を聞き取れず怪訝な顔をしていた。
「クロスさん、すみませんでした。『鬼籍に入る』は『死んだ』の隠語です。よくご存知でしたね」
教師がルイに感心して微笑みかけると、生徒たちの間にざわめきが走った。
ついさっきまで笑っていた者たちの顔が、気まずそうに凍りついていく。
そして態度を一変して、今度は「彼は天才だ」「教師も知らない隠語を知っているなんて凄い!」などと騒ぎ立てる。
先程までご満悦だったイザベラ達は、悔しそうに歯を食いしばっていた。
ルイはそんな視線を浴びて、頬を少し赤くしながら戸惑っている。
「……よくやったわ、ルイ」
私がそう呟くと、彼は気づいたようにこちらを見て、小さく笑った。




