10.聖女様
放課後の静まり返った生活指導室には、ペン先の音だけが響いていた。
紙の上を走る黒いインクの軌跡が、私の反省の証として形を成していく。
『今後、今回のような事件が起こらぬよう、学院の許可なく物理反射の魔法をかけないように致します。誠に申し訳ございませんでした』
こんな一文を書くたび、我ながら滑稽だと思う。
実際には私がルイを守っただけなのに、「停学回避のための形式」として書かされているこの反省文に、どんな意味があるというのか。
「……ふぅ。ようやく終わったわね」
私は最後の一筆を置いて、ペンを置く。
そして、書き終えた反省文を眺めながら、小さくため息をついた。
部屋の時計はすでに放課後を一刻ほど過ぎている。
ルイ、今頃どうしているかしら?
お咎めなしということで、彼は今日も数学研究会の活動に参加している。
とはいえ、昨日あんな事件があったばかりだ。
彼の様子が気になるし、数学研究会の活動を見に行こう。
私は生活指導室の扉を開け、廊下を歩き始める。
その時、背後から人の気配を感じた。
「まあ、ベルモント様。こんなところでお会いするなんて」
聞き慣れた気取った声が響く。
振り向くとそこには、見飽きた作り笑いを浮かべたイザベラが立っていた。
イザベラの隣には、ダークブラウンの髪であどけない顔立ちの小柄な少女がいた。
彼女は少し不安げな表情を浮かべて、隠れるようにイザベラの斜め後ろに立っている。
「ご機嫌よう。リュミエール様」
「ご機嫌よう。ベルモント様」
形式的な笑みを交わす。
互いに笑ってはいるが、その笑顔は氷のように冷たい。
「アルフレッド様からお聞きしましたわ。ベルモント様、番様が起こされた暴行事件の尻拭いをなさったとか」
「少し誤解があるようです。正確に言えば、ルイは暴行事件の被害者です」
「あら、そうなのですね。どちらにせよ、大変なことに巻き込まれてしまいましたね。番様が奴隷上がりだと、どうしても物騒なことに縁ができてしまうようで。心中お察ししますわ」
イザベラの唇がわずかに上がる。
その笑みは作り笑いではなく、心の底からの歓喜が含まれる、意地の悪い笑みだった。
「そういえばベルモント様。ご存知かしら? 異世界からいらした『聖女様』も、この学院に編入されたのですよ」
「ええ、存じていますわ」
数百年に一度、異世界よりこの世界へと現れる人々。
彼らは常人を遥かに凌ぐ魔力を有し、強大な魔法を繰り出すことができるという。
その者達こそが「聖女」であり、また「勇者」とも呼ばれる存在である。
およそ二ヶ月前、神殿にて新たな聖女が現れたという報せが人々の間を駆け巡ったのは、まだ記憶に新しい。
そしてその聖女様がルイと同じ時期に、同学年として王立オルフェウス魔法学院へ編入されるとは聞いていた。
「こちらにおられるのが、その聖女様であるマリア・クラウチ様ですの」
イザベラが隣の少女に目配せをする。
するとダークブラウンの髪の少女、もとい聖女様は雰囲気で状況を察し、ぎこちない動作でお辞儀をした。
「この度、マリア様の学院生活の支援は私たち生徒会が拝命いたしましたの。学院長は最初、ベルモント様にもお声をかけようとされたようですが……今は番様のお世話で手一杯でしょう? 番様の研究でお忙しいベルモント様には任せるわけにはいかない、と判断されたようですよ。そういうことで、マリア様のフォローは我々にお任せください」
イザベラの声音には、明らかな皮肉が含まれていた。
けれど、正直なところ私は気にも留めない。
聖女様の世話役など、どうでもよい役目だ。
イザベラは長々とした皮肉を言い終えると、今度は聖女に向き直った。
『マリアサマ、イッキ、マショー!』
酷くたどたどしい異界語が廊下に響く。
異界語を話そうという努力は認めるが、彼女の発音はまるで言葉を覚えたての幼児のようだ。
『はい! わかりました。イザベラさま』
聖女様はイザベラが聞き取れるように、わざとゆっくり、そしてはっきりと喋る。
そのため心なしか、少し疲れているように感じた。
私は、そんな彼女の様子を見て思わず口を開く。
『初めまして、聖女様。私はベルモント公爵家の一人娘、キャサリン・ベルモントと申します。以後お見知りおきを』
異界語で話しかけると、聖女様の表情がぱっと明るくなった。
『うわぁ、すごい! 生徒でここまで流暢に喋れる人、アルフレッドくん以外で初めて見た!』
『あら、本当ですか? それは光栄です』
『あっ、すみません。名乗るのが先でしたね。私の名前はマリア・クラウチっていいます。キャサリン様もご先祖様に勇者か聖女がいらしたのですか?』
『いいえ。 それがどうかされましたか?』
『いえ、大した話ではありません。アルフレッドくんの祖先に聖女様が何人かいたと聞いたので、もしかしたらキャサリン様も先祖に聖女様がいたから完璧に喋れるのかと思いました』
『先祖に聖女様がいなくても、喋れる人は喋れますよ』
『確かに! 異界言語の先生も流暢に喋っていましたし!』
私たちの軽いやり取りに、イザベラは唖然としていた。
彼女の語学レベルだと、私達の会話は早口すぎてうまく聞き取れないのだろう。
一方の聖女様は、先程までの憂いげな態度から一変し、花が咲いたような笑顔を見せた。
『ねぇ、キャサリン様。もしよろしければ、お友達になってくださいませんか? 私、こっちの世界に来てから、まともに会話できる人がほとんどいないんです。居候させてもらっているイザベラ様のお家でさえ、言葉の通じる相手がほとんどいないですし、喋れる人もみんな片言なので、ちょっと肩身が狭いのです』
聖女様の声は少し震えていて、勇気を振り絞っているのが伝わる。
きっと彼女は、この世界で孤独を感じているのだ。言葉も文化も違う場所に、一人で放り込まれたのだから当然だろう。
『あら。構いませんよ。こちらこそ宜しくお願いします、聖女様』
『やった! ありがとうございます! ちなみに私のことはマリアって呼んでください。聖女様はガラじゃないので。あと敬語もいりません』
『わかったわ。ならマリアも、私に敬語を使う必要はないわ。その方が貴女も気楽でしょ?』
『うん! キャサリンちゃん、これからもよろしくね!』
マリアは嬉しそうに両手を合わせて大はしゃぎした。
その無邪気な笑い声に、イザベラの眉がぴくりと動く。
きっと彼女は、聖女様がついさっき会ったばかりの私と親しそうにする現実に、納得がいかないのだろう。
「あの……ベルモント様。先ほどからマリア様と何をお話しされているのですか?」
笑顔の下にわずかな苛立ちが滲む。
私達が彼女だけ理解できない会話をしているのが、よほど面白くないらしい。
「さぁ? リュミエール様こそ、これからマリア様の学院生活の支援をされるのでしょう? なら直接、マリア様にお尋ねになればいいのではなくて?」
私の言葉に、イザベラの頬がぴくりと引きつる。
彼女は涼しい顔を取り繕いながらも、眉間にうっすらと皺を刻んだ。
『それじゃ、マリア。今日はもう帰るわ。またね』
『うん! またね、キャシーちゃん!』
私たちは互いに笑い、軽く手を振り合った。
そのやり取りを、イザベラは複雑な顔で見つめていた。
彼女の唇が何か言いかけて、けれど結局、言葉にならなかった。
私はそんな彼女を尻目に、再び廊下を歩き出し、ルイのいる数学研究会の会室へと向かった。




