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デクノボー考(一) 斎藤宗次郎を巡って

全四回連載の一回目です。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」には、実在のモデルがいるという説がある。斎藤宗次郎(1877年~1968年)というクリスチャンで、山折哲雄が著書「デクノボーになりたい」で論じている。 

 宗次郎は内村鑑三の高弟で、「花巻のトルストイ」とも呼ばれた。花巻の曹洞宗の寺に生まれたが、内村の思想に傾倒。花巻小学校の訓導をしていた頃、日露戦争に反対し、教壇で反戦を説いたため、学校をくびになってしまう。

 その後、宗次郎は生計を立てるため、内村の勧めもあって新聞取次をかねた書店を始めるのだが、その新聞配達のやり方が一風変わっていて、当時の人々に強い印象を与えたようだ。

 新聞を配りながら、十歩走っては神に祈り、また十歩進んでは祈るということを繰り返し、ポケットにはいつもあめ玉と小銭をしのばせ、出会った子どもたちにあめ玉を配り、貧者には施しをし、病いの人がいると病床まで行って慰めの言葉をかけ、また配達を続ける、というやり方で、雨の日も風の日も町中を走り回ったという。この姿が「デクノボー」のモデルになったのではというのだ。宗次郎に近かった人たちにそのような心証を残している。

 宗次郎は宮沢家とも親交があり、農学校教師時代の賢治と親しくつきあった。賢治はしばしば宗次郎を教員室に招き入れ、この20歳近く年長の友人とレコードを聴いたり、文学や童話の話を楽しんだばかりでなく、「春と修羅」のゲラ刷りまで見せたという。互いの宗派を尊重し、信仰の話はしなかったそうだが、この“疾駆するキリスト者”と“過激な法華行者”とはひどく馬が合ったことは間違いないようだ。

 奇しくも二人は同じ1926年、人生の転機を迎える。宗次郎は50歳を前にして、内村のもとで伝道の仕事に従事するため上京を決意。多くの弟子が内村から離れていった中で、宗次郎は内村に最後まで忠実に仕え、その死を看取とったことなどは同じ山折哲雄の「教えること、裏切られること」に詳しい。同じ年の3月、賢治は農学校を退職し、8月、農業の実践と農村文化の創造のため「羅須地人協会」を設立。二人が最後に会って話をしたのは宗次郎が東京に出発する前の同年9月3日だ。一方、「雨ニモマケズ」が病床で書かれたのは、その五年も後のこと、賢治の死の二年前の1931年11月3日。こうした時系列的な問題もあり、「モデル説」は多くの支持を得ているとは言い難く、また、直接的なモデルの詮索自体、本質を矮小化してしまうきらいもある。ただ、考え方としては、とても魅力的だと思う。


 賢治の随筆風の「イギリス海岸」(1923年)はなんということのない小品なのかもしれないが、私には賢治の想像力が遠く太古へ、異国へ、自由に飛翔するとてもチャーミングなテキストに思える。みちのくの短い夏の日の、優しい陽光に包まれた、至福感でいっぱいの散文作品だ。

 イギリス海岸とは北上川の河岸に賢治がつけた愛称だ。「イギリス海岸」は夏休みの農業実習の合間に、生徒たちをここに遊びに連れて来た時の体験がもとになっている。作品のプロローグで、青白い泥岩層がイギリスの白亜の海岸を思わせ、地質学的にもかつて渚だったという命名の由来や、地層の分布や地史への考察などが詳細に述べられる。水遊びの様子や、騎兵隊の渡河訓練の見学などのエピソードを交え、軽快なテンポで話は進む。


 「あゝ、いゝな。」私どもは一度に叫びました。(……)私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、その冷た  い少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚なもんでした。(……)一人の生徒はスヰミングワルツの口笛を吹きました。私たちのなかでは、ほんたうのオーケストラを、見たものも聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋の蓄音器から来たのですけれども、恰度そのやうに冷い水は流れたのです。 「イギリス海岸」


 うきうきと弾けそうな高揚感、川面や雲やそこら中に乱反射する光、青空に吸い込まれる歓声――賢治の多くのテキストと同じように、とても音楽的な響きを感じる。私などは読みながら、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」でも口ずさみたくなる。

 しかし、物語の快活な流れは一つの小さな出来事をきっかけに、少し変わってくる。水難救助係に出会うのだ。

 赤い腕章を巻き、鉄梃を担いだ男が、大きな石を一生懸命動かそうとしている。暇ですることもないので、無意味なことをしているのに違いないと賢治は考える。男が近付くと、子どもたちは逃げる。賢治たちは「ははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らが鬼のやうにこはがってゐるのだと思って遠くから笑って見てゐました」。

 次の日もイギリス海岸に行った賢治は男に話しかけてみた。すると、その男が自分たちのことをとても心配していたこと、子どもたちが溺れないよう、たった一人で広い範囲を見回っていること、今年も既に二人の水難者を救助したことなどを知る。賢治はそうしたことも知らず、救助係を馬鹿にしていた自分を強く責め、「からだを刺されるやうにさへ思ひました」。

 ここまで明朗で澄明な響きに満ちていたテキストは、ここで一瞬にして転調し、生きることの本源的な悲哀感といった、何かそんなもので彩られることになる。


 実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び 込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。 「イギリス海岸」                               


 さらっと書いているが、それは賢治の根本的な思想ともいえるもので、この時の深い思いはやがて、「銀河鉄道の夜」のテーマへと、時間をかけてさらに深化してゆく。

 溺れる子どもたちを必死で捕まえる、<The catcher in the river>とでも呼びたい、名もない救助係――誰にも知られず、人に馬鹿にされながら、世界の片隅で、世界が悪くならないよう、捨て身で奔走する男――この救助係であったり、斎藤宗次郎であったり、賢治が出会った、そうしたすべての「デクノボー」たち、彼らの記憶が賢治の無意識の地層に堆積し、長い時間をかけて輝く鉱物に置換され、「デクノボー」という化石として、病床の賢治の心象に結晶した――そんなふうにも考えてみたくなる。

 物語はくるみや「第三紀偶蹄類の足跡」の発見をきっかけに再度転調し、朗らかに、化石発掘というフィナーレへと向かう。くるみは日本では未発表だった「バタグルミ」という学名の絶滅種で、後に学会誌に発表される。足跡は「シカマシフゾウ」という大型のシカのものであるとされている。この時のイギリス海岸での体験、遥か鮮新世への思いは、やはり胸の奥深く堆積し、「銀河鉄道の夜」でジョバンニとカムパネルラがくるみの化石を採集し、牛の祖先の足跡の発掘を見学する「プリオシン海岸」へと結晶していくこととなる。プリオシンは鮮新世の原名。「イギリス海岸の夏の一刻」は賢治にとって特権的な時間だったに違いない。


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