3
今日も、月のない夜だった。
ダリアは、部屋を抜け出すときは新月の日と決めている。
誰もいない廊下を足音を立てないように、ひたひたと歩く。寝巻きにガウンという無防備な格好で、豊かな黒髪を惜しげもなく晒していた。誰かに見つかったときに、『寝つけなくて散歩していた』という言い訳ができるからだ。
部屋を抜け出すのに新月を選ぶのは、修道院に来る前に――母が死にダリアが一人で生きている時に身につけた知識だった。食うに困って盗みを働く中で、子どもながらに月のない夜の方が暗闇に溶け込めると学んだのだ。
修道院に来てからは、贅沢ではないものの寝床と食事の心配をすることもなく幸せな日々だった、と振り返る。
何より、サイモンがいた。
ダリアは、きれいなものが好きだ。野原に咲く花、宝石、朝日に輝く朝露のつけた葉っぱ……そしてうんと美しい幼馴染が。
ダリアより繊細で、不器用で、心根もきれいだ。両親への恨みも、ダリアならもっとひねくれまくっていると思う。
そう考えていると、院長の執務室までたどり着いた。
この中にある金庫が、ダリアの今夜の目的地だった。
あの日、馬車で引き受けたオーウェンの頼みは二つあった。
一つ目は、迎え入れる前にサイモンの出自を確認するために、修道院の資料を持ってきてほしい、というものだ。
戸籍上の子である確証がほしい、と言うのだ。恐らくそれだけではなくて、他の庶子の情報も得て事業の取引相手との交渉に活かすのだろうな、と思った。
当たり前だが、ダリアのような下っ端は重要な資料を見る権限はない。
盗み出せという意味だとダリアは理解した。修道院に引き取られる前は盗みもやっていたのだから、大して抵抗もなく受け入れた。
二つ目の男爵の頼みは、近いうちにダリアがサイモンの前から姿を消すことだった。
ダリアは男爵に頼まれたとき、少し迷って、結局首を縦に振った。
サイモンは、オーウェン男爵になるのだ。
貴族の妻には貴族があてがわれる。なんの役にも立たない修道女など論外だ。
ダリアがサイモンと思いを交わすには、愛人になるしかない。サイモンのような哀れな庶子が生まれては可哀想だ。
(そうだ、せっかくサイモンの出世するという願いが叶うのだもの。わたしが邪魔しちゃいけないわ)
――それに、サイモンはわたしがいなくなっても別に悲しまないでしょう。
切ないことに、彼はダリアを見てもいつも顔をしかめるのだ。
幼馴染で嫌われてはいないと自惚れているけれど、特別好かれてはいないのだ。
だから、ダリアはサイモンの家にはもう行けない。
ワインを勝手に飲み注意されることも、もうないのだ。
院長室のドアノブを見つめて、ダリアは少しだけぼうっとした。
しばらくしてダリアは、のろのろと髪からピンを抜いた。院長室の扉の鍵穴を探ると、カチリ、と音がする。
ゆっくりと扉が開くと、そこには、冴えざえとした美貌の男が待っていた。ダリアが固まっていると、夜闇に光る星のような幼馴染が口を開いた。
「早かったな、ダリア」
「……どうして、ここにいるの、サイモン」
まるでダリアがサイモンの家で彼を迎えたときのような言葉で、サイモンはダリアを見据えた。
違うのは、表情だ。サイモンは固く厳しい表情で、私から視線を逸らさない。
「『どうして』だと? こちらの台詞だ、ダリア。お前がここに入ってきた理由を言え」
――ああ、全部バレている。
金庫の前でサイモンが待っていたのが、その証だ。
しかし、彼がなぜ怒っているのかはわからなかった。
ダリアは、サイモンのためにやっているのだ。
「……オーウェン男爵から話を聞いたの。あなたを男爵家に迎えると。そのためにあなたが男爵夫人の子である記録が欲しいのですって」
「男爵の養子の話なら断った」
「は……?」
「聞こえなかったのか? 断ったと言っている」
ダリアは、耳を疑った。なぜだ、と目を見開いて男に詰め寄った。
「なぜ? あなたは出世して、騎士団長になって、国王に謁見できる地位が欲しいのでしょう?」
「……ああ」
「それなら、なぜ?」
「……」
黙り込むサイモンに、子どもの頃のサイモンを思い出した。昔はよく自分の感情に合う言葉が見つからなくて、考え込んでいた。
ダリアが焦れて、なぜ、と詰め寄ると、壁に追いやられたサイモンはダリアの腕を掴んで体勢を逆転させた。
ダリアがゆるやかに壁に押しつけられる。
「……俺の方から一つ聞いてもいいか? なぜオーウェンから頼みを引き受けた」
サイモンが、ダリアを鋭い視線で睨みつけている。ダリアは気圧されないように彼の顔を見上げた。
「ええと、サイモンのためにしたことよ。あなたが出世したいというから、手伝いたかったの」
そうだ。ダリアはサイモンの力になりたかったのだ。壁に押しつけられて詰問されるのは割に合わない、とダリアは不条理さを感じた。
「オーウェンに他に何か頼まれなかったか」
「そうね、あなたの前から消えるように言われたわね。少し悲しかったけれど、でもサイモンはわたしのことが別に好きではないでしょう? だから別にいいかと思って」
ダリアがそう言うと、サイモンは顔をしかめた。ああ、まただ、とダリアは悲しくなる。
ダリアの献身は、サイモンに届かないのだ。
「……不快だったのなら、謝るわ。でも、サイモンは喜ぶと思ったのよ。本当よ。だってあなた、出世したいって言ったじゃない」
「……ああ、そうだよな。俺は喜ぶべきなんだ」
そう言うと彼は唇を吊り上げた。ダリアは安堵してふわりと笑う。それなのに、ダリアが「ええ、そうよ」と同意すると、彼は笑みを消してしまった。
「喜ぶべきなんだ、俺は……。それなのになんで、こんなに苛立つんだろうな」
ダリアが彼の顔をじっと見ているのに気づくと、サイモンは顔を隠すかのようにダリアの首元に顔を伏せた。
こんなに距離が近いのは初めてで、そんな場合ではないのだが、ダリアはドキドキした。
サイモンはまだ、ダリアの質問に何も答えていない。
言葉が見つからない彼に、仲直りのきっかけをあげるのはいつもダリアの方だった。
ダリアは右手で、自分の肩に埋まっているサイモンの髪を撫でる。
サイモンの声が、ダリアの耳元で響く。
「なあ、ダリア。俺はオーウェンから同じ提案を受けたんだ。男爵家に引き取られる話を聞いたときは悪くない提案だと思った」
どうやらオーウェンはダリアに接触する前に、サイモンに話を持ちかけたらしい。たぬきじじいめ、とダリアは心の中で罵った。
しかし、悪くない提案だと思ったなら、なぜ断ったのだろう、とダリアは首を捻る。
その動きが伝わったのか、サイモンはダリアを捕まえる腕を強めた。まるで抱きしめられているみたいで、ダリアの心臓の音はより強くなった。
「男爵家に引き取る条件として、『ダリアと縁を切れ』と言われたときに、俺はこの提案をのめないと思った」
「……どうして?」
「どうしてだろうな。あんなに、地位が欲しいと思っていたのに……。そのためには、貴族に成り上がって、貴族の妻をもらった方がいいとわかっているんだ」
「ええ、そうね。わたしがいてもなんの役にも立たないと思うわ」
その通りだったので、ダリアが同意すると、盛大なため息が聞こえてくる。
「ダリアが役に立たないことくらいわかっている。それでも、なぜかはわからないけど、俺はダリアがいないと駄目なんだ」
ダリアは目を瞬かせた。理由はわからないらしいが、サイモンはダリアが必要らしい。
「奇遇ね。わたしもサイモンがいないとダメなのよ」
うれしくなって、ダリアはサイモンを抱きしめた。肩が湿っている気配がしたので、もしかすると彼は泣いているかもしれないと思った。
抱きしめながら、背中をとんとんと優しく叩く。
「ねえ、サイモン。先日あなたが言ったことを覚えている? あなたはわたしのように『誰の子かは関係ない』とは思えないと言ったの。自分は『何者でもない』と」
「……ああ、覚えている」
――『俺はお前のように『誰の子かは関係ない』とは思えない。俺を何者でもないものにした者達を憎く、恨めしく思う。それだけだ』
「わたしが、あなたが何者か教えてあげるわ。あなたは、ただのサイモンで、わたしの好きな人。努力家で繊細で、泣き虫。……ね、どうかしら? わたしがあなたをただのサイモンとして大事にするわ」
――だからもう、泥の中で悩むのはやめましょうよ。
わたしのそばにいてくれたなら、恨みも憎しみも寂しさも全部忘れさせてあげるから。
「あなたを愛しているの」
そう囁いてダリアはサイモンを強く抱きしめた。彼もダリアを抱きしめ返す。
「……ああ、ありがとう。ダリア」
顔を上げたサイモンの頬にはやはり涙が光っていて「やっぱり泣き虫ね」とダリアは笑った。
◇
翌日、サイモンとダリアは、オーウェン男爵家の屋敷にやって来た。応接間に通されて、オーウェン男爵と対峙する。
「ほう、やはり断るか」
サイモンとダリアが現れるや否や、オーウェンは唇を弧に描いてそう言った。
どうせサイモンが断るとわかっていて、ダリアに盗みを働かせたのだ。とんでもない男である。あるいは、ダリアの罪を盾にサイモンとダリアを脅すつもりだったのかもしれなかった。
「旨みのある話だと思うがなあ、サイモンよ」
「何度持ちかけても無駄ですよ。私は、ダリアと結婚します」
「ほお」
「あら、そうなの?」
ダリアは驚いてサイモンを見ると、サイモンは気まずそうに顔を背けた。代わりに、男爵が愉快そうにこちらを見ている。
「プロポーズはまだ受けていないのかね、ダリア嬢」
「ええ、まだですわ。ねえ、サイモン、わたしと結婚してくれるの?」
「……ああ」
「まあうれしい。でも、愛の言葉をもらってないわ。わたしは言ったのに」
「待て。ダリアがいないと駄目だとは言っただろう」
「愛していると言ってほしいのよ」
眉根を下げて目を伏せるサイモンに、とうとう男爵は声を上げて笑い始めた。
「くくっ、お前達は愉快だな。当代一の実力と言われる聖騎士が愛も囁けぬ男とは情けない。なるほど、貴族の腹の探り合いは向いてなかろう」
オーウェン男爵はサイモンを養子にすることを諦めたようだった。ほっとしたダリアと男爵の目が合う。彼はにやりと面白いおもちゃを見つけたような笑みを浮かべた。
「愉快な茶番を見せてくれた礼に、サイモンが実力通りの待遇が受けられるようには、援助してやろう」
サイモンとダリアは顔を見合わせ、厳しい表情でサイモンが前に出た。
「……援助してくださる目的はなんでしょうか。私達は、何も差し出せません」
「無粋なことを言うな。金なら腐るほどあるのだ。無能な親戚どもに喰われるくらいなら、未来の聖騎士団長に投資した方がマシなだけだ」
男爵はそう言うと、葉巻に火をつけて大きく煙を吸い込んだ。ふう……と長く息を吐いている。
これ以上は言うな、ということだろう。
「……では、ありがたくちょうだいします」
オーウェン男爵に騎士の礼をするサイモンの横で、ダリアも深く頭を下げた。
◇
オーウェン男爵の屋敷を出て、サイモンとダリアは連れ立って歩く。
どこかダリアの足元はおぼつかない。なにせ、さまざまなことがありすぎた。男爵に取引きを持ちかけられて、サイモンに泥棒未遂がバレた。オーウェン男爵がサイモンの後見を約束し、ダリアはサイモンと結婚するらしい。
(そうよ、結婚するのよ……!)
じわじわとダリアの脳に幸せな事実が染み渡っていく。同時に何から用意すればいいか目算を立てる。
夢中になって突然立ち止まったダリアをいぶかしげにサイモンが見つめた。
「ダリア、どうしたんだ?」
「サイモン、休んでる暇はないわ。還俗して、結婚して、サイモンのおうちに引っ越さないと……。やることがいっぱいあるわ!」
ダリアがサイモンに詰め寄ると、彼はおかしそうに笑う。
「ああ、そうだな。だけど、今日くらいはゆっくりしたい。よかったら俺の家でワインでもどうだ?」
ダリアは目を瞬かせると、彼が不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「……サイモンから誘われたのは初めてだわ」
サイモンが修道院を出て五年。その間サイモンに会いに行くのはいつもダリアの方だった。
サイモンを凝視していると、彼は気恥ずかしげに目を伏せた。
「俺は俺の家のソファでくつろいでいるダリアを見るのがけっこう好きなんだ」
「早く帰れとしか言わなかったじゃない」
「深夜に修道院を抜け出してくる不良修道女を帰そうとするのは普通だろう」
なるほど、少しだけ納得してしまった。つまり、昼に押しかければ追い出されないらしい。ダリアは嬉しくなってサイモンに抱きついた。
「サイモン、好きよ。あなたは?」
愛の言葉をせがむと、サイモンが目を伏せた。ああ、まだ恥ずかしいかしら、と不器用な幼馴染を思って離れようとすると、ダリアの体が持ち上がる。
サイモンがダリアを抱き上げて、正面から目線を合わせた。彼の形の良い唇が開く。
「愛している」
不意打ちは心臓に悪い、とダリアは胸を抑える。サイモンは悪戯が成功した少年のように笑っていた。
満足気な笑みを浮かべる彼は、やっぱりきらきら輝く宝石みたいだ、とダリアは思った。