蜃気楼
7/22 田中蓮太郎
夢を見ていた。
知らない海だった。夏の海なのに誰もいない。俺と、そこにいる誰かのふたりだけが、白い砂浜に立っていた。
誰かの後ろ姿を、俺は眺めている。
絶対に知っている人のはずなのだ。名前も声も分からないけれどその確信だけがあった。その人は時折振り返るけれど、どういうわけだか顔も表情も思い出せない。見たそばから忘れてしまう。
海岸線に沿って歩く背中はだんだん小さくなっていく。こちらを振り返る回数も少なくなる。
俺は追いかけることも出来ずに、ただ海辺に立ち尽くしていた。
本当は追いかけたかった。なのに身体は言うことを聞いてくれなくて、大声を出して引き留めようとしたのに声が出ない。そもそも相手の名前が分からない。何と言って引き止めていいのかすら分からないのだ。
どのくらいそうしていたのだろう。遠ざかる背中が豆粒みたいに小さくなった頃、ふっ、とその人は蜃気楼に混じって消えてしまった。波の音とカモメの鳴き声だけが、俺と一緒に取り残された。
気がついたら俺は泣いていた。
誰もいない海で子供みたいにわんわん泣いた。止めたくても止まらなくて、息が苦しくなって、腫らした目が痛くなるまで延々と泣き続けた。
目が覚めたとき、自分が本当に泣いていたことに気がついた。
喉の奥がひりつく感じとひどく悲しい気持ちだけが残っていた。
***
テスト返却と終業式だけがあって、この日は午前中で終わり。明日からは夏休みだ。
「じゃ、次会うのは花火大会だな」
「おー、また週末ー」
トノをホームへ降ろして電車のドアが閉まる。鈴谷は二つ手前の駅で降りていった。ふたりを見送ったあとで、俺は密かにため息をついた。
別にふたりと何かあったわけではない。いや、何もなかったとも言いきれないか。昨日ゲームのお誘いが来ていたのに完全にスルーしてしまい、今朝めちゃくちゃ文句を言われたのだ。昼に起きてひとりでゲームしていたから一日スマホを見ていなかったというだけなんだけど。お前いつも連絡つかねぇじゃん、ちゃんとスマホ見ろ、と親切な指摘を受けてぐうの音も出なかった。
しかしため息の理由はそこではなく、ただただ期末の結果が悲惨だったのだ。普段から優秀な成績なんか取れていないが今回は殊更に酷い。特に最終日の世界史と生物。暗記すればいけると思って前日までノータッチでいた上に、前の日の夜に変な夢を見て全く集中出来なかった。睡眠時間を削るとろくなことにならない。
赤点の生徒は夏休みの補習に呼ばれるのだが、世界史の赤点は俺だけだったらしく、補習の代わりに大量の課題が出されてしまった。ただでさえ夏休みの宿題もアホみたいな量なのに……憂鬱でまたため息が出る。
最寄り駅で降車する。冷房に慣れた身体に蒸し暑い空気が容赦なく襲いかかる。
ちょっと涼んで帰ろうと家の近所のコンビニに立ち寄った。アイスの棚を眺めていたらいちごアイスと目が合ってしまう。新作らしい。バニラの方が好きなんだけど、たまにはいいか、と手に取った。
会計を済ませ、コンビニを出て家路につく。マンションのエレベーターを上がって、悲劇が起きたのは家の前まで着いた時だ。
「……げ」
鍵がない。そういえば一昨日は家に帰ってすぐに鍵を放り出して寝た気がする。昨日は一日引きこもってゲームしてたし。
うちは両親が共働きで夜まで帰ってこない。俺が鍵を忘れて出ると夜まで家に入れないのだ。これは非常にまずい。一縷の望みをかけて鞄を漁ってみるが、机の上に放り投げた記憶がより鮮明に蘇ってくるだけだった。
かくなる上は。鞄の中身をひっくり返し、玄関ドアの前に広げる。筆箱と、財布と、宿題やらお知らせやらのプリントの山──『夏休みのしおり』の上にぽたり、と汗が一粒落ちた。冷や汗じゃなくて暑さのせいだ。
このまま炎天下に居続けるのはよろしくない。とりあえず鍵は諦めてどこかの店に入って涼もう。痛い出費だが命には換えられない。
夏休み初っ端から散々だなあ、と項垂れながら荷物を片付けていたら、後ろから声を掛けられた。
「レン?」
のろのろと振り返る。目線の先にいた人物を認めて、思わずその名前を叫んだ。
「ミユキ!」
蜃気楼さえ見えそうな熱れの向こう側で、背の高い男がこちらを覗き込んでいた。
***
ミユキとは家がお隣さんで、生まれた時からの幼馴染みだ。
本当の名前はフミユキというのだが、小さい頃の俺は何故かミユキと呼んでいた。理由なんか俺自身ですら覚えていない。しかし今更改めるのも変な感じでそのままになっている。
都内の有名大学に通っていて、ボランティアサークルに入っていて、背が高くてバスケが得意で、超がつくほど優しくて。『何でも出来る人』と言われたら俺はとりあえずミユキを想像してしまう。親にはあんたもフミユキくんを見習ったら、と何度も言われたものだが、これほど能力に差があると見習ってどうにかなるものでもないと幼な心に理解してしまった。おかげで負けん気とか劣等感とかいう言葉とは無縁のまま生きている。
うちの両親が留守がちだから、小学校に上がる前の俺はよくミユキのうちに預けられていた。あの頃はほとんど毎日一緒に遊んでいたんじゃないだろうか。
けれどある程度大きくなったら俺もひとりで留守番するようになったし、その頃にはミユキも部活とか受験とかで忙しくて、いつの間にかあまり顔を合わせなくなった。とはいえ仲違いしたわけではないし、連絡は時々取り合っている。生まれた時からの幼馴染みもこの歳になればそんなものなんだろう。
***
この家にお邪魔するのも久しぶりだ。俺が来るときは大抵ミユキのお母さんがいたのだが、今日は誰もいないらしい。
ミユキはすぐに冷房をつけてくれて、台所から飲み物を持ってきてくれた。
「体調はどう? どのくらい外にいたの?」
「平気だよ、すぐミユキが来てくれたし」
少し頭が重いが、冷房の効いた部屋で過ごしていればすぐに回復するだろう。
心配そうに俺の顔を覗き込んでいたミユキが、ふと思い立ったように冷蔵庫の方を振り返る。
「アイスでも食べる?」
「うん! って、あ……」
アイスと聞いて思い出した。俺もコンビニでアイスを買ったのだ。
嫌な予感がして急いで鞄を開ける。案の定と言うべきか、掴んだ指先にぐにゃっとした感覚がした。手遅れか……外にいたのはそれほど長い時間じゃないが、アイスにとっては致命傷だ。
肩を落とす俺の手元を覗き込んで、ミユキが驚いたように目を見開いた。
「すごい偶然、俺も今日そのアイス買ったんだよ」
「そうなの!?」
「一個しかないけどね」
二個買えばよかったな、なんて呟くのが聞こえる。今日俺と会うことも一緒にアイスを食べることも予定にないことだから、後悔しても仕方ないことなのだが。
一個しかないアイスを渡されたから、俺はそれを返そうとする。
「ミユキが買ったんだからミユキが食べてよ」
「また買うからいいよ。レンは身体を冷やさないと」
「じゃあ半分にしよ。全部もらっちゃうのは申し訳なさすぎる」
せっかくの新作なのだ。きっとミユキだって楽しみにしていたはずだし。
じゃあそうしよう、と言って、ミユキは小さな器を二つ取り出す。元が小さいから二つに分けたら雀の涙ほどになってしまった。
半分になったアイスの片割れを前に、そういえばいちごアイスはミユキの大好物だったな、と思い出した。本人が言ったわけじゃないが、選べる時は絶対にいちごを取るのだ。もうずっと昔のことだけど、今も好きなんだな。加えてこの少量。お腹を壊すから、とアイスを全部食べさせてもらえなかった小さい頃みたいだ。もっと食べたくてこっそり冷凍庫から取り出したら、食べる前に見つかって怒られたっけ。怒られ慣れていないミユキはそれはそれは落ち込んで。大抵は俺を窘めるお兄ちゃん役だったミユキも、アイスのこととなると共犯になるのだ。
アイスひとつでノスタルジーにどっぷり浸ってしまったが、ふと思い立って切り出す。
「ミユキ」
ちまちまとアイスを食べていたミユキが顔を上げた。
「浴衣持ってたりしない?」
「浴衣? 探せばあると思うけど」
どうして? と尋ねながら、ミユキは箪笥の方に目をやった。しまった場所を思い出しているのだろうか。
リンネが『浴衣着てきてくださいね!』と言っていたのを何となく思い出したのだ。その場では適当に受け流したけれど、ミユキが持っているのなら借りて着ていこうかな、という思いつきである。
「今度の花火大会に行くから、あれば借りたいなって」
「分かった。探しておく」
「ありがと」
ところでミユキはいつ浴衣を着ていたんだろう……なんて考えていたら、ミユキは溶けかけのアイスをスプーンで集めながら言った。
「彼女とでも行くの?」
訊かれた俺は少しの間固まってしまった。
どうして彼女? いや、浴衣を着て花火大会に行く、なんて言ったら普通は彼女を連想する……のか?
「男友達だよ」
「ふーん。まあ頑張って」
「だから彼女じゃないって」
「はいはい」
ミユキは意味ありげに微笑んでいる。絶対分かってないな。かといってムキになって否定したら逆に肯定したみたいになるから、俺は言葉を飲み込むしかない。実際に彼女もいないのに虚しい誤解だ……。
彼女、という単語がミユキから出てきたから、俺は気になって訊ねた。
「ミユキは彼女さんと行かないの?」
顔を上げたミユキと目が合う。というかミユキが彼女さんと花火に行くのなら、浴衣を俺が借りて行ったら迷惑になるんじゃないか。先にこっちを訊くべきだった。
しかし、ミユキは困ったように眉を下げる。
「彼女いないよ」
「えっ、この間一緒にいた人、彼女じゃないの?」
「この間っていつ?」
いつだったかな、と頑張って思い出そうとする。春だったか夏だったか。暖かい日だったけれど、少なくともつい最近のことではない、ということは。
「……一年くらい前かも」
「一年前は『この間』じゃないと思う」
尤もな指摘をされてしまい、返す言葉がない。
一年前? 自分で言っておいて驚いてしまう。もうそんなにミユキと顔を合わせていなかったっけ? そんなことはない。帰る時間が被ったら挨拶くらいはしていたはず……つまり記憶に残るようなやり取りは全然なかったということだけど。家は隣だし、連絡はそこそこ取っていたからもっと話しているつもりでいたのだ。
って、そうじゃなくて。
「えっ、覚えてない? ミユキと女の人が家の前にいて、俺がちょうど帰ってきたところでさ……」
今はミユキの彼女(仮)の話だ。ちょうど俺が学校から帰ったところでミユキの後ろ姿を見て、声をかけたら小さくて可愛い女の人がミユキの隣にいて。悪いことしたな、と思うより先に驚いて立ち尽くしてしまった。女の人が微笑んで会釈してくれるのに俺も何とか会釈を返したけれど、それからふたりが扉の向こうに消えるのを俺はぼーっと眺めていた。
ミユキは困っているのか呆れているのかよく分からない顔をした。
「ああ、あの時ね。うん、彼女だよ。もう別れたけど」
「へー……」
自分で切り出した話題なのに、それしかリアクション出来なかった。それから何だかすごく後悔した。好奇心に負けて訊いてしまったけれど、俺は多分、ミユキと一緒にいた女の人が何者なのかを解き明かしたかった訳じゃないのだ。
ミユキの彼女かあ。自分で言ったはずなのに全然想像出来ない。どんな顔だったっけ。ちょっと顔を合わせただけだから全然思い出せなかった。
「なんか、いいなあ」
口をついて出た言葉に、自分でも何がいいのかよく分からない。振られてしまったミユキに対して、ではないと思うけど。彼女がいたミユキに対してか、ミユキと付き合っていた女の人に対してか。
「レンも彼女作ればいいのに」
ミユキは前者だと判断したらしい。
「簡単そうに言うなよ」
作ろうと思って出来るものでもないだろう。作ろうとしなければ出来ないのは確かだけれど。そして俺はその努力を丸きり放棄してしまっている。
ミユキはどうやって彼女と付き合うことになったんだろうな。或いは、元カノさんはどうやってミユキを選んだんだろう。なんでミユキのことが嫌になっちゃったんだろう。元カノさんのことを知らなさ過ぎて想像の余地がなかったから、考えるのはそこでやめた。
スマホの通知を見たミユキが、あ、と声を上げる。
「レンのお母さん早めに帰ってきてくれるって」
「なんで俺じゃなくてミユキに連絡があるの?」
「レンが既読スルーするからじゃないの」
昨日の今日で何も言い返せないな。眉を下げて笑うミユキに俺は黙ってむくれることしか出来なかった。
***
母が帰ってきたところで俺も家に帰って、ついでにミユキもうちで夕飯を食べていった。小さい頃に戻ったみたいだな、と意味もなく感傷に浸ってしまった。鞄の中から取り出した宿題の山を見遣って盛大にため息をつく。こればかりは小さい頃のようにはいかない。
元々あった宿題と、世界史の課題と。最終日に泣きながらやればいいやと放置することも出来るけれど、去年の経験を思い出してまた気持ちが沈んだ。中途半端な進学校らしく、うちの高校はアホみたいに宿題が多い。
トノに連絡しようとして、文字を打ち込む前に電話をかけた。トノは何気に数学の成績だけはいいのだ。それ以外は俺といい勝負なんだけど。
一コール目が鳴り終わる前に電話に出たトノは、しばらく声を発さなかった。大方、ゲームの攻略を見ていたら受話ボタンに触ってしまって慌ててポーズしているところだろうか。
『……もしもし? なんか急用?』
あからさまに不機嫌そうな声音に、俺は堪えきれずに吹き出した。
「ううん、文字打つのめんどくて」
『お前それでも現代人かよ』
「数学の宿題教えて」
『やってねぇよ。まだ初日だぞ?』
「じゃあ一緒にやろ。俺世界史引っかかってピンチなわけ」
電話口のトノがうわあ、と嫌な感嘆を漏らす。
『アレで赤点はさすがにヤベェよ、俺だって五十点は取ったわ』
「平均七十点のテストで五十点取ってイキるなよ」
『いーんだよ、文系は諦めてるから』
「だろうな」
数学以外は俺といい勝負、と言ったが。そういえば国語に関しては俺の圧勝だった。トノが壊滅的に出来ないだけなんだけど。合計点ならいい勝負、ってことで。
「でさあ、いつが空いてる? 俺はいつでもいいけど」
『暇人かよ。まあ俺も暇だけど……いや、悪ぃ、全然暇じゃねぇわ』
「え?」
『花火の日まで全く空いてねぇんだけど』
予定を確認しながらトノ自身も驚いている様子だった。珍しいこともあるものだ。帰る田舎もないから暇を持て余していると思っていたのに。
「何、マジで合コン行くの?」
『行かねぇよ! 先にリンネと約束してたんだよ』
なるほど、そりゃ納得だ。そういえば一年生の頃も時々『中学の友達と遊ぶから』と言って断られていたっけ。あれもきっとリンネだったんだろうな。
しかし、花火大会まで中三日あるのだ。その全部をリンネと約束しているとは考えにくい。もしかしてもしかするのか。
「まあ頑張って。俺は鈴谷と宿題やるから」
『だから合コンじゃねえっての。つーかあとで混ぜろよ、じゃないと国語が永遠に終わんねえから』
「分かってるよ」
国語の文章題なんて文章を読まなくてもある程度答えられるようになっているのだが、素直なトノにはそれが出来ないらしい。俺には数学の方が分からないからそんなもんかなあ、と思っているが。
しばらく下らない話をして、じゃあゲームの続きやるから、と言われて切られた。
彼女かあ。みんなそういうのをちゃんと頑張ってるんだよな。だからって自分も頑張ろうとはならないのが俺の長所だ。短所かもしれないけど。
あんまり必死になる気が起こらないんだよな。楽しいよりも面倒が先に来てしまう。所詮は他人である『彼女』にそこまで夢を持てないし。そもそも俺は根本的に他人に興味がないのかもしれないな。そりゃトノや鈴谷に彼女が出来たら揶揄うくらいはするけど、相手の情報にまで興味は持てないだろう。……いや、トノがどんな子を選ぶのかはちょっと気になるかも。頑張ろうとしている割には好みのタイプも分からないと言っていた。男友達とばっかり遊んでたら、なんて言いながらリンネとは遊ぶらしい。いずれトノに彼女が出来たら「私とリンネどっちが大事なの!?」なんて言われそうだし、案外あっさりリンネを選ぶんじゃないか、なんて。
宿題の山をぱらぱらめくりながら、ふと頭の片隅に、羨ましい、という言葉が浮かんだ。
仲良しなふたりが羨ましい。ただ、あんな風でいられたらな、と思う度に心の奥がちくりとする。幼馴染みなんていずれ疎遠になるものなんだろうと諦めてしまっていたのに、単に俺が一緒にいるための努力を怠っていただけだという事実を突きつけられてしまうからだ。
俺だってミユキと一歳違いだったらな。リンネみたいに廊下ですれ違う度に手を振ったり週に一度は英和辞典を借りに行ったり出来たのに。四歳離れているから同じ学校に通えたのは小学校だけだ。でなくても成績優秀なミユキと同じ学校に入るのは難しかっただろうけど……いや、俺だってミユキと一緒に通えるなら頑張ったはず。頑張ったところでミユキが既に卒業しているから頑張る気にならなかっただけだ。多分。
いい加減宿題に手をつけるか、と思いながら何となく目についた漫画を読んでいたら数十分が経過していた。今日はダメかもしれない。計画的に進めた方が楽なのは分かるのだが、それが出来ないから毎年泣いているわけで。
トノに振られたし、鈴谷にも連絡してみよう。あいつは帰省するだろうから、と思って遠慮していたけれど、少なくとも花火大会には来るんだしそれまでならいいだろう。
メッセージを入力しようとして、文面を考えるのが億劫だったのでやっぱり電話をかけた。