水しぶきの裏側
7/20 鈴谷夏樹
入道雲を見ると夏だな、と実感する。じっとしていると汗ばんでくる程度には暑い。これからは暑くなる一方だろう。日差しが痛いくらい降り注ぐけれど、吹き込む風は冷たくて心地いい。
関東のセミは控えめだ。地元のは容赦なかったな、ということに離れてから気がついた。ただ何となく、夏の暑さはこちらの方が堪える気がする。実際の気温は分からないけれど、どこか息苦しい暑さだ。建物が多い分、視覚的な問題だろうか。とはいってもこっちに来てから既に一年ちょっと経っているし、いつまでも新参ぶってはいられない。山のない関東の風景にもいい加減慣れてきた頃だ。
期末試験は今日で終わり。先生の話をBGMに、夏休みは何をしようかな、と考えていた。帰省以外は特に用事がないし、バイトにでも精を出そうかな。平時は日曜日しか働けないし。
ご飯に誘われたから二つ返事で了承したかったのに、今日は掃除当番だった。ふたりは待ってくれているから急いで終わらせないと、と思ったのだが、こういう時に限ってゴミ捨てじゃんけんに負けてしまう。
ゴミ捨ての道すがら、変なものを見た。
屋外プールの飛び込み台に人が座っている。色素の薄い髪と日に焼けた肌。水着ではなく制服を着たままで、ぼんやりとプールの水面を見つめている。
知っている顔だ。トノの友達の一年生で、リンネと呼ばれている。変わったあだ名だと思っていたら本名らしい、ということは最近知った。
どうしてあんなところに、と何となく眺めていたら、不意にリンネがプールに落ちた。足からすとんと落下した身体を飲み込んで、水面は飛沫を上げる。
大丈夫かな、と心配しかけたところで、タイミング悪く道を訊かれてしまった。他校の女子生徒だ。サッカー部の練習場所なんて帰宅部の俺に知る由もない。グラウンドの場所だけ説明して、あとはそこで訊いて下さい、と伝えた。
彼女がグラウンドへ向かうのを見届けて、再びプールの方を見遣る。リンネはまだ水の中。ゴミ置き場にゴミ袋を置いて帰って来ても、プールサイドには人影がなかった。流石に長すぎやしないか。もしかして溺れているんじゃないか? 俺は慌ててプールに駆け込んだ。普段は施錠されているプールの入口が今日は開いている。元々開いていたのか、或いはリンネが開けたのだろうか。
プールサイドから水面を覗き込むと、リンネは飛び込み台のすぐ側に沈んでいた。時折ぶくぶくと気泡が水面に浮かび上がってくるだけで、身動きする気配すらしない。
「リンネ、大丈夫!? 上がれる!?」
俺は水面に手を差し込んで呼びかける。ほとんど話したことのない相手に気安いかな、と人見知りっぽい葛藤はあったが、もし溺れているならそれどころじゃないだろう。
リンネは身動きひとつしない。これはまずいんじゃないか。
今すぐ飛び込んで救助出来るだろうか、いや先に大人の助けを呼ぶべきだろうか……焦る頭で葛藤を始めたところで、眼下の影がゆらりと動いた気がした。
そして。
「うわあ!?」
僅かな浮遊感。水面に叩きつけられる衝撃と、遅れて聞こえるばしゃーん、という水飛沫の音。
突然水中から伸びてきた腕に手を引っ張られて、俺は間抜けな悲鳴を上げながらプールに落ちた。
何とか藻掻いて水面へと顔を出す。シャツの中に水が入ってきて重たい。小学生の頃にやった着衣泳を思い出した。あの時はプールに落とされたりはしなかったけれど。
俺を水に引きずり落とした張本人が、隣で目を丸くしている。
「えっ、誰!?」
反射的にリンネの頭を引っぱたいた。
「いたっ」
「誰っちゃ何ね! 知らん人をプールに落としださんな!」
「うわっ!? ごめんなさい! てっきりケイトだと思って……」
ケイト? と一瞬戸惑って、すぐにその名前を記憶から呼び起こす。トノのことだ。外岡圭人。下の名前で呼ぶことはないから忘れがちになってしまう。
「あ、なんだ。鈴谷さんかあ。髪の毛濡れてたら分かんないですね」
「なんだって言うなよ。つーかこれからトノ達と飯行く予定だったのに、どうするんだよこれ」
「えっ、何それ楽しそう! 俺も行っていいですか? ダメって言われても着いてくけど!」
「ダメって言われたら着いてくるなよ」
どうせ誰もダメとは言わないんだけど。リンネの人懐っこい笑顔にはどうにも気が抜けてしまう。
「リンネ!」
プールの外から怒鳴り声がして、反射的に振り返る。
声の主はトノだ。走ってくるトノの後を追うように、田中も小走りでこちらに向かってくる。
待ち合わせをしていた友人たちを放っておいて後輩と遊んでいるみたいな図になって、俺は内心頭を抱えた。
どうも今日は厄日らしい。試験の回答欄がズレていないことを祈るしかない。
***
「鈴谷さん、さっきはすみませんでした! ケガしてないですか? 風邪引いたら看病行くんで呼んでくださいね!」
「大丈夫だよ」
先程の態度とは打って変わって、リンネは申し訳なさそうにしている。一応反省しているらしい。看病に来てもらっても困るのでやんわりと辞退した。
教室からジャージを持ってきてもらい、取り急ぎそれに着替えることになった。地元では制服を着ていた時間の方が短いくらいジャージで過ごしていたけれど、こっちにはそういう人が全然いない。だからジャージで街を歩くのは何となく気が引ける。誰もお前の格好なんか気にしねえよとトノは言ったが、俺の気持ちの問題だ。
同じ更衣室でリンネも一緒に着替えている。こっちは既にジャージを持ってきていた。最初から飛び込むつもりだったのだろうか。背中越しに衣擦れの音と陽気な鼻歌が聞こえて、心の中でだけため息をついた。
「鈴谷さんって何か部活やってるんですか? 意外とがっしりしてますよね」
「何もしてないし……つーかこっち見るなよ」
「いいじゃないですか。減るものじゃないし」
減らないからいいってものでもないだろう。何となく気恥ずかしくて慌ててジャージに袖を通す。ちらっと背後を確認したら、リンネは既に着替え終わっていた。リンネの方がよほどしっかりした身体つきだけどな。帰宅部だって聞いたけど、中学までは何かしていたのだろうか。
濡れた制服をしまっている間に、リンネが急に切り出した。
「あの、鈴谷さん。二十六日って空いてます?」
二十六日、というと今週末だ。夏休みの予定といえば実家に帰ることくらいだが、七月中は今のところ何も予定がない。
「空いてるけど、どうしたの?」
恐る恐る答えると、リンネは嬉しそうに笑った。
「よかったら一緒に花火大会行きませんか? ケイトと田中さんもこれから誘おうと思うんですけど」
花火大会といえば、この近くである大会のことだろう。去年はトノと田中と一緒に行ったやつだ。
「別にいいけど……」
「わっ、ありがとうございます! それでなんですけど、ひとつお願いがあるんです」
「お願い?」
「途中でケイトと俺のこと、少し二人きりにさせてくれませんか」
顔を上げてリンネの方を見たら、ばっちり目が合ってしまった。
「なんで?」
「俺、ケイトに言わなきゃいけないことがあって」
キラキラした瞳が眩しくて。疚しいことはないはずなのに、何となく直視できない。
その罪滅ぼしって訳でもないけれど、俺は首を縦に振った。
「……うん、分かった。どうにかする」
「ありがとうございますっ! この借りは必ず!」
リンネが俺の手を取ってぶんぶんと上下に振り回す。大袈裟だな、と内心苦笑いしながらも、言わなきゃいけないことってなんなんだろうな、とちょっとだけ気になってしまった。幼馴染みのふたりは言いたいことなら遠慮せずに言い合っていそうなのに、たまには言いにくいこともあるんだろうか。花火大会に呼び出して言いたいことがある、なんて。
「なんか、告白でもするみたいだね」
いや、そういうことは冗談で言わない方がいいのか。自分の失言に言った側から後悔していたら、リンネがえっ、と大きな声を出した。
「なんで分かったんですか!?」
「えっ?」
「えっ……!?」
目を見開いたリンネと再び目が合って、ふたりして固まってしまう。
なんで分かった、ということは。俺が『良くない冗談』だと後悔した言葉が、そのまま真実だったということで。
つまりリンネは──
「あ、あのっ! そういうことなんでっ、ケイトには黙っててくれませんか!?」
「う、うん……言わないよ……」
「本当すみません! ありがとうございます!」
リンネは泣きそうな顔で拝むように手を合わせている。
冗談なんかじゃないと思う。こんな顔で冗談を言われたのだとしたら、俺は軽く人間不信になるだろう。
そういうこと、って、リンネがトノに告白するってことだよな?
驚いてしまったけれど、別におかしいことじゃない。リンネは学年も違うのに三日と開けずにうちの教室に遊びに来るし、廊下ですれ違っても、体育の授業中でも、いつも大きく手を振っている。その全ての視線がトノに注がれている。ふたりの関係をよく知らない俺ですら心当たりがあるくらいだ。もしどちらかが女子だったら周りが勝手に邪推していたくらいだろう。
しかし、あくまでそれはリンネの側から考えたことであって。
トノはどう思うんだろう。リンネと同じ気持ちなら何の問題もない。でもそうじゃなかったら? 友達だと思っていたリンネに告白なんかされて、ずっと友情だと思っていたものを違うものだと知らされて。
「なあ、トノは知ってるの? リンネが……」
トノのことを好きなこととか、男を好きになったこととか──言おうかどうか悩んで、躊躇する。
もしトノが知らないのなら──いや、わざわざ俺に根回ししてまで告白するくらいなんだから知らないんじゃないだろうか。急に告白されたって受け入れられないだろう。しかも同性の幼馴染みになんて。もし受け入れられなかったら、きっとふたりの関係には修復不能の傷が入る。
どうにかしてリンネを思いとどまらせられないか、なんて余計なことを考えたりしたけれど、考えてもかけるべき言葉が見つからない。
「知らないと思いますよ。って、そんな顔しないで下さいよー! 鈴谷さんは優しいなあ」
胸の奥がずきりと痛む。優しいもんか。勝手に他人の恋路に最悪の結末を思い描いているんだぞ。
「大丈夫ですよ、振られに行くだけなんで。あ、でも、よかったら新学期はケイトに優しくしてあげてくださいね。友達ひとり減っちゃうから凹んでるかもだし!」
あっけらかんと言い放つリンネにこっちが凹みそうになる。
トノを気遣ってそんなことを言うくらいなら『友達』を減らさないでやってくれよ。リンネが何も言わなければ今まで通りでいられるじゃないか。どうせ受け入れられる見込みがないのなら、せめて友達のままで──
──ああ、違う。
それじゃあリンネがいつまでも辛いだけだ。絶対に重ならない想いを抱いたまま友達のフリを続けろなんて残酷すぎる。外野が思っていいことじゃない。罪悪感でリンネから目を逸らす。
少なくとも俺は、同じ苦しみを知っているじゃないか。
視線を落としたら片付けかけていた制服が目に入って、慌てて鞄に丸め込む。
更衣室の扉がドンドンと叩かれて、外からくぐもった声がした。
「おーい! いつまで着替えてんだよ! つーか生きてる!?」
トノの声だ。あまりにも俺たちが出てこないから心配してくれているのだろう。
隣でリンネの表情がぱっと明るくなる。
「ケイトー! 俺も一緒に行くけどいいよね!?」
「は!? なんでお前まで来るんだよ」
「鈴谷さんがいいって言ったからー!」
余計なこと言うんじゃねえ、と扉の向こうでトノが笑っている。
「じゃー鈴谷さん、後でよろしくです」
リンネは小さな声でそれだけ言い残して、返事も待たずに更衣室を後にした。
ばたん、と閉まった扉の向こうで大騒ぎするトノとリンネの声。夢の中みたいだと思った。いい夢でも悪い夢でもない、干渉すら出来ずにただ展開していく夢。プールの塩素の匂いだけがやけに現実味を帯びていた。
余計なことを考えそうになるのを抑え込むように、制服を詰め込んで膨れ上がった鞄を閉じた。