序章 少女の物語は珈琲の匂いと共に
まだ顔を出したばかりの太陽の光を背に浴びながら、人の少ない商店街をを小柄な少女がぴょこぴょことを駆けぬける。
綺麗な黒髪をふわふわと揺らしながら、顔にかすかに笑みを浮かべる少女の姿は誰が見ても心を動かされてしまうだろう。
そんな少女を見つけて、路地の屋台にいた男が声をかける。
「おはよう、コルちゃん、今日も元気だね。これ食べな!あと、あの馬鹿の分も!」
そう言って男は黄色く細長い果実を2本、くるくる回転させながらコルと呼ばれた少女に投げた。
「おはよう!いつもありがとう、おじさん!」
脚を止めず、顔だけ向けながらシュパっと両手で2本ともキャッチして少女は礼を言った。
果実を手に持ったまま少女は寂れたレンガ造りの喫茶店の横の階段を駆け昇り、2階のドアを荒く開く。
「起きろ、ムトウ君!どうせ昨日も遅くまで飲んでたんだろう。」
そう叫んだ少女の声は、整理された本やファイルがギッシリと入った本棚が緑の壁紙を隠した部屋一面に響き渡る。
その部屋の真ん中にある机とソファー、そのソファーに横たわる布の塊がもぞもぞと蠢いた。
ううんと低い唸り声が部屋に響く。
「起きろと言っているだろう!ああ、もう酒臭いなぁ」
空の酒瓶が転がる机に果実を置き、少女は窓の方へ向かう。
「ファァ、ごめんコルちゃん、もう少し寝たいんですよ……」
あくびをしながら男ーームトウは眠そうにそう言った。
「眠いじゃない、依頼人がきたらどうするんだい!それと私のことは社長と呼べといつも言っているだろう、せめて、コルティとキチンと呼びたまえ!」
そう言い切ると少女ーーコルティはバサッとカーテンを開き窓を開けた。部屋の中ぎ一気に日の光に満たされる。
ぎにゃあっ!と叫び声を上げながら、ムトウは起き上がりコルティと向かい合う。
「吸血鬼かね君は 」
「ごめんごめん、社長。でも依頼人なんかもう4日も来てないじゃないですか……もう少し寝てても別に……」
そう言うとコルティはムッとした様子で言い返した。
「バカ者!今日は来る!来るに決まってるんだ!そこのバナナでも食べてシャキッとしたまえ。そしたら早く珈琲を淹れるんだ。」
ムトウはまだ寝ぼけた様子でムシャムシャとバナナを食べる。
「昨日もそう言ってたけど来なかったじゃないですか……珈琲はいつものやつでいいですか?」
うむ、いつものやつでという声を聞きながらムトウはキッチンでお湯を沸かし始める。
珈琲を淹れながらムトウはデスクでバナナを片手に本を開いているコルティに話しかけた。
「読んでるのはいつものやつですか?」
コルティは視線を動かさず答える
「もちろんだとも、いつも通り推理小説に決まっているじゃないか君」
「へー面白いんですか?」
「愚問だよ、事件が起こると現場に颯爽と現れて、その冴えた推理で難事件を華麗に解決して犯人逮捕……くぅ〜、実にカッコいいじゃないか!あ、もちろん巻き込まれ型の探偵も好きだけどね?読みやすいのを貸すからムトウ君も読みたまえ!」
「いやぁ、何回も言ってますけど、自分は文字読むの得意じゃないので遠慮しときますよ」
「何回でも言うとも、人生の9割を損しているよ君は。このコルティ探偵社の社員にあるまじき回答だね。君の珈琲が絶品でなければクビを切っていたところだよ」
ひぇ〜と軽口を叩きながらムトウは淹れた珈琲に角砂糖を7個も入れて、ミルクと共にコルティのデスクに持っていく。
「出来上がりましたよ、いつもの」
「待っていたよ、さてさてこの珈琲と一緒に依頼人も来てくれると嬉しいのだがね」
そう言うとコルティはドアの方に目をやった。
ドアは開かない。
「やれやれ、現実は小説のようにはいかなーー」
コンコン
その台詞を見計らっていたかのように部屋にノックの音が響いた。
コルティ探偵社
父からコルティが引き継いだ探偵社である。しかし依頼はほとんど来ないので、収入の大部分は同じく父から受け継いだ不動産の家賃で賄っている。社員はムトウのみ。
喫茶店
コルティ探偵社のあるビルの下に入っている老夫婦が切り盛りする喫茶店。名前は喫茶ウチクビ。実はこのビル自体コルティのものであり、コルティはたまに紅茶をタダでご馳走してもらっている。
見た目は寂れているが固定客が多く潰れる気配はない。