憂鬱な食卓
彼岸花、桜、蕎麦の花。
ごく普通の男の子と謎めいた男の子。
美しい山間の田舎に繰り広げられる
ちょっぴり悲しい恋の話。
彼岸花は血を吸って赤くなるのだと子供の頃に教えられた。僕はそれから彼岸花に怖くて近づけなかった。
その日は部活の帰り道に自転車でちょっといつもと違う道を通った。
山の麓には蕎麦畑が広がって白い花を咲かせ、田んぼの桜の青葉が風に揺れてサラサラと音をたてている。
指定された通学路から一つ手前の角をまがって橋を渡った河原の一本道は、少し遠回りだけど秋風が涼しくて気持ち良かった。
赤とんぼが飛び交う河原の土手には彼岸花が一面咲いていて、夕陽に照らされてとても幻想的だった。
流石に中学生ともなれば僕だって彼岸花が生き血を吸う訳ないと知っていたけど、この河原の道は何となく避けていた道だった。
僕は自転車を降りて歩いていたら、少しのんびりし過ぎたようで夕陽がさらに傾き、彼岸花が一層赤くなって来ていた。
ふと桜の木の下に目をやると、彼岸花をお墓に捧げようとしている長身で同い年位の男の子が居た。
流れるような美しい所作で彼岸花を摘んでは細い指でお墓の花台に並べる。
男の子なのにその動きにガサツさは一切感じられず、僕はつい見とれてしまった。
僕が眺めていたのはほんの数秒の間だったけど、彼は僕に気づいたようだった。僕は慌てて自転車にまたがって、足早にそこを立ち去った。
口元に笑みを浮かべて、伏し目がちに僕を見た彼の流し目が僕の脳裏に焼き付いた。
翌日も、その翌日も彼はそこに居た。
僕が横を通るとちらりとこちらを見ている。僕はその度にドキッとしていた。
その次の日は秋分の日で休みだったけど、散歩に行くと言って出てきたら、やっぱり彼は居た。
僕は思い切って声をかけた。
そこで彼の名前を知り、遠くに住んでいるので次に会えるのが来年の春休みだと言うことを知った。
ほんの数分話しただけだったけど、その低くて豊かな音色の声もまた僕の耳に焼き付いた。
その次の日から彼は居なかった。
僕の胸の中からぽっかり何かが抜け落ちたような気分だった。
その日から彼岸花の咲き続ける間は毎日そのお墓に花を供えることにした。
彼岸花が咲き終わっても、僕は学校の帰りに毎日お墓に手を合わせては彼を思い出していた。
桜はやがて黄色く落葉して、木枯らしが吹く頃、僕は突然激しい頭痛に見舞われて病院で緊急手術をした。
手術は成功して一命をとりとめたものの、僕は全身が青あざだらけになって、ベッドから動けなくなった。
それから勉強も食事も、僕の生活の全てがベッドの上になってしまった。
日々日差しが弱まってくると、あっという間に窓の外の景色は雪に覆われてしまった。
大晦日、僕は点滴何本もぶら下げたまま車椅子で運ばれて一日だけ家に帰った。
僕の机には学校の友達が書いてくれた寄せ書きがあった。
いつも賑やかで明るかった台所のテーブルは、なんとも言えない重い空気が流れて、テレビの音楽番組だけが虚しく響いていた。
ネギ抜きの年越しそばを最後に固形物を食べられなくなった。
年明けに二度目の手術を受けた後には学校の友達も遊びに来なくなった。
僕はただ、所々土の見え始めた窓の外の雪景色を眺めながら、気づいたら彼の事ばかりを考えていた。
春になればまた彼に会えるからそれまでになんとか治さないと。焦りと裏腹に僕の身体は青白く痩せ細る。
曇り空の合間から顔を出す太陽が眩しい。窓から入る日差しが暖かくなって来た。
外では終業式を終えた小学生達の遊ぶ声が響いている。
その日、病院に彼が来た。
ずっと会いたかった彼の姿を見た僕は、心臓が止まりそうだった。
ベッドに腰掛けてどこまでも透明な視線で僕を見つめる。
「少し背が伸びたね」
「痩せただけだよ」
きっと僕は笑顔を作ろうとして変な顔をしていたに違いない。もう何ヶ月も笑うことがなかったから。
「ずっとこうして居られたらいいのに」
消え入りそうな声で絞り出した僕の本心。
「居られるよ」
彼の声が僕の耳元すぐ近くで聞こえて、ふわりとまだ咲いていないはずの桜の香りがした。
そして、僕の首もとに花が咲いた。
心臓の音が彼にも聞こえるんじゃないかと思う程に高鳴り、身体中が溶けてしまいそうだった。
嬉しくて目を閉じても涙が勝手に溢れていた。嬉しいのに涙が流れるなんて変な気分だ。
長居しては体に障るからと言って去っていく彼と入れ替えに、遠くから看護師の走る靴音が響いていた。
今年はずいぶんと遅かったけど、やっと田んぼの桜が咲き始めた。
僕は彼にもたれかかりながら、河原の土手に座って桜とお墓を遠目に眺めている。
僕は相変わらず青白いままだったけど、こんな幸せが味わえると思ってもいなかった。
僕は首元の口付け跡に触れて幸せを噛み締めながら、もう一度彼に抱きついた。
「会えて本当に良かった」
僕は彼岸花に血を吸われたんだ。