反抗期予防注射
「喜多方さん、診察室へどうぞ」
看護師に呼ばれ、赤ん坊を抱きかかえた若い女性が診察室に入ってくる。女性は看護師に進められるがまま、荷物とコートをラックに起き、医者の向かい側の丸イスに腰掛けた。
「えーと、娘さんの予防注射を受けられにいらっしゃったんですよね? 乳幼児予防接種と、あとは任意予防注射もですか」
「そうなんですよ。なんか、区役所から連絡が来て~、赤ちゃんは全員受けないといけないとかなんとかで。それで、だったら一緒に他の予防注射も受けさせようかなって思って」
医者はかけていた眼鏡をくいっと持ち上げ、満足げな笑みを浮かべる。目の前のパソコン画面にいくつかの入力項目を打ちこみながら、看護師に奥に仕舞ってある予防注射リストを持ってくるようにお願いした。
「いやはや、偉いですね。最近の人は面倒臭がって、なかなか来ようとしない人も多いんですよ。あなたのようにしっかりしたお母さんがもっと増えたらいいのですがね」
赤ん坊をあやしながら、母親が照れ笑いを浮かべる。赤ん坊は無邪気に両手を上に伸ばし、母親の服の袖を握っている。
「で、任意予防接種はどんな種類のものを?」
「『反抗期予防注射』をお願いします。ママ友とかSNSで聞いてきたんですけど、やっぱり反抗期とかとかって、いくら大事だって言われてても、親としてはできる限り自分の思い通りに子育てしたいじゃないですか~。お医者さんもそう思いません?」
「おっしゃる通りですね。やはり、その予防注射は最近の若いお母さん方に人気なんですよ」
看護師が持ってきた分厚いファイルを受け取り、机の上でそれを開いた。予防注射の名前とその効能が一覧化されており、医者は眼鏡を持ち上げて、母親が注文した予防注射の項目を探し出そうとした。
「あ、そうそう。今、病院のキャンペーン中でしてね。予防注射を一本受ける方には、もう一本別の予防注射を無料で受けられるんです。どうしますか?」
「え? 無料で受けられるんですか!? 絶対、受けたいです! すごいラッキー!」
医者がどれを追加で注射しますかと尋ねると、母親は眉をひそめながら考え込んだ後、おすすめはありますかと尋ね返す。医者は苦笑いを浮かべながらリストをパラパラとめくりだす。
「最近人気があるのはですね、『好き嫌い予防注射』とか、『出しっぱなし予防注射』とかですかね。どちらも子育てが随分楽になるってもっぱら評判ですよ。でもですね、個人的にこれなんかおすすめですよ。『売れないミュージシャンとの恋愛予防注射』」
母親は医者が指差した項目を確認しながら、怪訝な表情を浮かべた。
「え~、そんなに役に立ちます?」
「いやいや、万が一に備えるってことは重要ですよ。実際、私も変にお金をケチって娘に受けさせなかったせいで、ちょっとした家庭のいざこざが起きましてね」
医者が恥ずかしそうに頬をポリポリかき、後ろの看護師が口に手を当て、忍び笑いを漏らす。母親は医者の発言について考えた後、やっと意味を理解し、面白おかしそうに笑い声をあげた。
「そう考えると、良いかも。やっぱり、売れないミュージシャンとか売れない俳優とかと付き合ってる友達なんてみんな大変そうだし。娘にそんな思いはさせたくないな~。それにしちゃおっかな」
「あ、伝え漏れましたが、この予防注射はミュージシャンとの恋愛だけにしか効かないんです。俳優に関してはまた別に、『売れない俳優との恋愛予防注射』を受けなくちゃいけないんです。どうです、ご一緒にどうですか?」
母親は少しだけ逡巡した後、それでもいいと医者に伝えた。医者は満足そうに頷くと、ゆっくりと立ち上がり、自ら後ろの部屋へと注射器とワクチンを取りに行った。看護師から渡された銀色のトレイに注射器を並べ、再び若い母親の真向かいに腰掛ける。トレイの上には黄色のテープが貼られた三本の注射器と、紫色のテープが貼られた注射器が並べられていた。母親は並んだ注射器を嬉しそうに見つめ、女学生のようにきゃっきゃっとはしゃぎ声をあげる。
看護師が赤ん坊の小さな腕をめくり、待合室で予め貼ってもらった麻酔パッチを剥がす。脱脂綿で綺麗に消毒した後、医者が黄色のテープが貼られた三本を手際よく注射していく。麻酔で痛みを感じない赤ん坊は物珍しそうに、自分の腕に針が刺されていくのを見つめていた。
「さて、では最後にこの紫色の予防注射を打って終わりですね」
「その注射って今は赤ちゃんの時から注射しておくんですね。私はその紫色の予防注射を中学の時に受けましたよ」
「そうでしょうな」
医者は注射器を赤ん坊に指しながら愛想笑いを浮かべた。
「国の政策で、公立の小中学校では学校が必ずこの紫色の予防注射を生徒に接種させているんです。それでもまあ、早いうちに接種しておくに越したことはありませんからね」
看護師がこれで終わりだと告げると、母親は礼をいい、立ち上がる。
「やっぱり、予防注射を受けに来てよかった~。SNSで拡散しなくちゃ」
母親はそう言い残すと、赤ん坊とともに診察室を出ていった。看護師がトレイを後ろの部屋へと片付けに行き、医者は使用した注射器の空を使用済みトレイの中へ種類ごとに片付けていく。しかし、最後の紫色の注射器を片付ける時に限って、医者は後ろを振り返り、看護師が部屋の中にないことを確認した。それから鍵のかかった引き出しを開け、その中にあったトレイの中にその注射器を収納する。
医者が紫色の注射器を入れるトレイにはこのようなラベルが張ってあった。
『賢くなりすぎ予防注射』




