1話
(……潮時ね)
私―ファリーナ・キルシデント伯爵令嬢―は、屋敷内にある父の執務室へと向かう。
歩くたびに柔らかく揺れる腰まで伸びた銀髪は、ある男性に相応しい淑女としてあるべく手入れを欠かさないが、それも今となっては虚しい。
この10年はなんだったのだろう…
今から10年前。
当時6歳だった私は一人の少年に恋をした。
その時、彼は少し年上の10歳だった。
お互いに一目ぼれし、すぐさま婚約者となった。
しかし……
直後に彼は王都へと旅立った。
同じ伯爵家だが次男である彼は家を継ぐことができない。
そのため、私を迎え入れられるように功績を立てて自らの力で爵位を得ると。
魔術の才能があった彼は、魔術師養成学校に入学したと聞いた。
すぐさま手紙を書いた。
……返事は来なかった。
きっと厳しい授業を受けているに違いない。そう思って自分を慰めた。
そして、彼が頑張るなら自分も立派な淑女にならなければと様々な家庭教師を付けてもらった。
1年が過ぎた。
もしかしたら迷惑かもしれないと手紙を出すことを止めた。
2年目になった。
習い始めた刺繍で彼の家の家紋を縫ったハンカチを贈った。
何の返事も無かった。
3年目。
彼の母親に茶会の招待を受けた。
そこで元気にやっている旨の報告を受け、笑顔で喜んだ。
けれど、自分には一切その姿を見せてくれないことに心で泣いた。
4年目。
10歳になり、どうしても会いたいと王都へと向かった。
直接養成学校に向かったが、婚約者でも学校に入れることはできないと断られ、それならばと会いたい旨の手紙を届けてもらったが返事は会えないというだけ。
泣き疲れて眠るということを初めて経験した。
5年目。
彼が養成学校を卒業し、見習い魔術師として軍部に所属したと聞いた。
そして実家に一時帰郷していたらしい。
会いに来てくれることはなく、会いに行ってもすれ違いで王都に戻っていた。
6年目。
一目惚れしたはずの彼の姿が朧気になっていることに気づいた。
7年目。
一通りの令嬢としての教育を終えていた。
その成果を見せる相手は今日もいない。
8年目。
母に言われて茶会へと出掛けた。
招待したのが婚約者の家だと気付いたのは、着いてからだった。
9年目。
夜会へのデヴュタントを迎えた。
エスコートしてくれたのは父だった。
そして10年目…
今、私は父の執務室の前にいた。
***
「……そうか」
執務室の中。
ソファーに座った私と向かい合うように座った父は、私の申し出に小さく呟いた。
「長い間、我慢させてしまったな」
「…いえ」
我慢したのだろうか?
…いや、我慢はしていなかった。
我慢は、5年前にもう終えていたのだから。
「シルヴァンス・ハースターとの婚約を正式に解消する。そう先方に伝える」
シルヴァンス・ハースター。
お互いに一目ぼれしたはずの婚約者。
この10年、一目たりともその姿を見ていない婚約者。
その婚約者のとの婚約を……解消した。




