捌
額の下にある穴に小石を投げ、通った数で運を占うという運試しの鳥居、授かり祈願としてご利益のある子種石、聳え立つ霊験あらたかな三本杉、等々。滝尾神社には訪れるべき場所がたくさんあるが、それらの観光はまたの機会になる。麓丸らが目指したのはただ一つ。「悔悟ノ途」だ。
滝尾神社本殿の裏に、たった一歩で渡りきれるほど小さい石橋があった。行けばわかると言われていた通り、名称からしてどんぴしゃだ。「無念橋」とはよく言ったものである。
己の身を清め、俗界と縁を切る橋と言われており、念を断ち切って空になることから、その名が付けられたという。願いがかなう「願い橋」とも呼ばれる。
しかし、暗号を記した本人にとっては、慚愧に堪えぬ選択だったのだろう。奈落を行けばよかったのに、とまで残すくらいだ。切りたくない縁や煩悶があったにも関わらず、渡ってしまった。渡らざるを得なかったのかもしれない。どのような背景で後世に宝を託したのかは不明だが、宮の忍のものとして伝わっているからには、手に入れる権利がある。心ない不逞者に奪われるわけにはいかないのだ。
読み解くと、無念橋を渡らないという選択になる。ではその場合、奈落とは何か。これも一目瞭然だ。橋の下には堀があったのである。
橋を挟んで二人は降りた。非常に狭い。水は引いていないが、陽が当たらないせいか、屈むとじめじめしているのがわかる。そして入念に調べること数分、古びた石板の一つに隠された仕掛けを発見した。周りは苔や土で埋まっているものの、ある方向にうまく力を込めると、外れる仕組みになっていたのだ。
この時の驚きと昂揚たるや、凄まじいものがあった。ようやく今までの苦労が結実する。さぞや豪奢で、金ぴかで、誰もが我を忘れるくらい神々しい輝きを放つものだと、そういう期待があった。
ところが、期待というのは裏切られるために存在する。
出てきたのは巻物だった。
「あ?」
心の声をはっきりと漏らした麓丸は、手に取った物体をつくづくと眺め、振ったり回したり揉んだりした挙句、そっと戻そうとして花岡に止められた。黙ってかぶりを振った彼もまた残念そうに、林へ麓丸を促す。漬物石を乗せたかと思うほど肩を落としつつ、人目につかぬ場所で、そのしなびた巻物を開いてみた。さすがにかなり掠れているが、どうにか読める。
二ツノ途ヲ辿ル時
泡沫ノ夢ノ終ワリガ袂
現世ノ邂逅叶ワヌノナラ
戦地ノ下流 竜ニ手向ケヲ
埋蔵金や宝という言い伝えであり、暗号を記している以上、後世に向けたものなのは違いないが、本来は死者へのはなむけだったのだ。死後に財宝は無用でも、黄泉路を照らす導にはなるのかもしれない。
想定外の二重暗号に気落ちしたのも束の間、麓丸と花岡はぴんときた。さんざ四苦八苦したおかげで傾向はわかっていたし、周辺地帯もざっとは調べていたからだ。歴史に疎いところはあれど、これこそ地元民なら場所と名前くらいは知っている。「二ツノ途」「袂」「戦地ノ下流」そして「竜」、それらを繋ぎ合わせると。
矢庭に稲光が走った。
同時、疾風が駆け抜けた。
振り向きざまに飛ばされる体。柔らかな手の感触と微香。天よりの雷鳴。
転瞬の間に、すべては起こった。麓丸の視界にあったのは一つだけ。倒れ伏す唯良乃の姿だった。
駆け寄った麓丸は、指が火傷するのも厭わず、己を庇い、黒く焦げた彼女の背をさわった。仰向けにし、小さな顔の前に手をかざした。息をしていなかった。
地面へ落ちた巻物を真雁が拾い、去っていく。花岡はとっさに動けなかった。恐怖とは違う。追うべきだと思ったが、この場を離れてはいけないような気がした。
やがて取り出した携帯端末を操作すると、麓丸は乾いた声で言った。
「一報を入れた。師匠と合流して奴を追え」
「しかし……」
「たのむ」
麓丸に頼みごとをされたのはこれがニ度目だが、前回とは質が異なっていた。悲愴感などと言うのは易い。けれど本当の時に、言葉は意味を持つだろうか。押し込められたものを握りしめた花岡は、それでも駆けだした。そうするよりなかった。
誰もいなくなった林は、かえって静けさで耳が痛かった。ずっと頭の奥で残響が続いている。終わってほしいわけではない。鳴り止んでしまったら、消えたら、その後は……。
白い肌。長い睫毛。薄い唇。こんな顔をしていたんだな、と思う。いつからか、どこか面映ゆい気持ちが邪魔をして、まともに見ていなかった。だが、今さら月並みな感想を述べてみたところで、何がどうなるわけでもない。ましてこんなことをさせるために、尾行を許していたわけじゃない。
「ろっくーん、花岡さまー、どこっすかー」
感傷的な空気など知る由もない、ふざけた霊がやってきた。神の解説の最中にあろうことか居眠りをこいたので、置き去りにしていたのだ。
「うひょ! あらま、こりゃまた大胆な」
唯良乃を抱きおこす麓丸の姿など、ついぞ見たことがないため、下品な誤解をしたが、あまりに麓丸が無反応なので、さすがの小夜子も異変を察した。黙って傍に行き、透けた手で唯良乃の肉体をなぞった。
やがて彼女は、驚くべきことを口にした。
「まだ間に合うかもしれないっす」
かつてない真剣な眼差しで主君を見た。
「麓丸様。どうかあたしについて来て下さい」
*
小夜子の案内で訪れたのは、山中にひっそりと佇む古井戸だった。外壁があちこち欠けている上、内部にまで草が蔓延っている。汲みあげるための管や桶は見当たらず、打ち棄てられているのは明らかだが、太陽が届かない奥はまったくの暗闇で、どこか深淵に通じていそうな気配はあった。
曰く、井戸とは、古来より冥土への道となり得る。小夜子が言うには、唯良乃の魂は完全に冥土に行ったわけではなく、どうにかこちらに戻ろうとしている状態らしい。だが、肉体が完全な死に近づくにつれ、現世とのつながりが断たれていくのだという。いつまで持つかわからず、じかに連れ戻すくらいの力技が必要なのだと。そう、麓丸は冥土に行くつもりだった。
ともすれば、ニ度と戻ってこられないかもしれない。しかし他に手段がないのもまた事実。麓丸は迷わなかった。唯良乃を井戸にもたれさせ、自身も横に並んだ。
小夜子が体に手を入れ、引っ張ると、霊魂だけがとぅるんと抜け出た。ちょうどパックからこんにゃくを出すような塩梅だった。無防備に寝る自分の姿というものを初めて見たが、なんとも不思議な感じがする。
「しかし、こんな芸当ができるなら、実はおまえって最強なんじゃないか」
「ところがどっこい、本人が強く望まないとできないんすよ。それはもう強くね」
にししと笑う小夜子に、麓丸はつられない。
「……人道的な観点からいって、当然の行為だろう。おれのような聖人だからこそできることだが」
「ちぇー。しょうがないっすね、まあ二人の体はあたしが見とくんで、とっとと行くがいいっす、よ!」
どんと体当たりされ、麓丸は井戸の中へ真っ逆さまに落ちた。霊体になった自覚がなく、小夜子に触れられた驚きはあったものの、それより一応女子の柔らかさをしていたのがちょっと悔しい。
地上の光は消えさり、一切が闇に閉ざされていく。周りに壁のある感覚もしなくなってきた。多く見積もっても、とっくに井戸の深さは超えている。ただ奇妙な落下の感覚があるばかりだ。どこまで行っても何も見えない。どこまで行ってもどこにも着かない。
仕方なく、麓丸は現状こうしている目的を思い浮かべた。といって、目的意識なんてなかった。世話のかかる奴だと思うのは、今に始まったことじゃない。つけ回してほしいわけでもないし、腹の立つことだってしょっちゅうある。何を考えているんだか、と思う。昔からそうだ。変わらない。くだらないことでよく笑っている。しょうもないものを楽しそうに見つめている。それじゃなくたって。何をそんなに、と思う。でもやめない。永遠の謎である。謎ったら謎である。
ただまあ、だからといって別に……。
たいした理由もないが、まあ……。
闇がはじけた。眩しさにうすら目を開くと、荒涼とした大地が映った。草木の一本さえ生えておらず、煉瓦色の岩肌がむき出しになっている。冥土と呼ぶだけあるが、意外と暗くない。太陽はないだろうに、薄雲の奥で灰色の光がにじんでいた。
地上へ達する手前で減速、停止した。足がないのは妙な感覚だ。膝から下がちぎれた紙切れみたいにひらひらしている。道中に唯良乃はいなかったが、遠くに人影を認めたので浮遊していった。
声をかける前にぎょっとした。全身が濃い青緑色をしていたのだ。
「見かけない顔だな」
振り返ったのは、一本角タイプの鬼だった。筋骨隆々、芦屋のヨットハーバーほど濁った色をしていて、接地していない麓丸が見上げるほどの巨体だ。ふだん自宅の餓鬼や、陀羅を見ているため、鬼自体は見慣れているが、ここまで大きいのは初めて見た。
「新入りなもので。とんだ失礼をば」
からまれても良いことがないと判断し、腰を低くして通り抜けようとしたが、案の定止められた。
「待て。ほう、確かに死にたてのようだな。現世の匂いがする。どれ、今あちらはどうなっている?」
「わざわざ申し上げることはございません。水面下のやり取りはあれど天下泰平。あなたのような御仁には、退屈きわまりないことでしょう。ではこれにて」
「待てというに。我は青緑鬼という。そなたの名を申してみよ」
なんて安直で語呂が悪い名前なんだと思ったのはさておき、これ以上付き合っていられない。うまい方便を探さなくては。
しかし、鬼は急に不機嫌になった。
「……今、安直で語呂が悪いと思っただろう」
どきりとした。妖術の類か、冥土という土地柄のせいなのか知らないが、確かにさておいたはずなのに。さておき引きとは卑怯なり!
そう啖呵の一つも切れればよかったのだが、金棒を構えて「食うことにした」などと言われては、引き下がって差し上げるしかあるまい。いつも物理攻撃に対して余裕しゃくしゃくな小夜子を見ていても、ここは冥土。現世とは法則が違う可能性が高い。何より先人が明確に食うと仰っている以上、霊体でも食す手段があるというわけで、さしずめあの武器は、一口サイズに砕くための物なのだろう。
「清廉潔白な私を食べてしまえば、あなたはきっとお腹を壊す。それでもいいんですか」となだめてみても、「どういう意味だ!」とさらなる怒りを買う。やはり逃げ出した。
土煙を上げ、猛然と鬼が追いかけてくる。上に飛べば安全と思いきや、甘かった。軽々と金棒をぶん投げてくるのだ。しかもブーメランのごとく、きちんと手元に戻ってくる。めちゃくちゃだった。
小夜子を見ている時は気づかなかったが、速く飛ぶにもコツがあるようで、思うように速度が出ない。癪でしかないがとにかく逃げることだ。霊魂のまま死ねば、おそらく存在が無に帰す。そしてそれ以前に、やるべきことがまだある。
死後の世界では、時間の概念がほとんど意味をなさないので、いつまで追ってくるか知れない。要するに暇なのだ。これが平均的な冥土の日常だとしたら嫌すぎる。時間がないのに暇人に追われることほど嫌なことはない。とはいえ、こちらからの攻撃手段を持っていないため、逃げながら策を講じるしかないのだが、こうも絶え間なく鉄の塊を投げられては思考が遮断される。その汚い体ごとドラム式洗濯機にぶち込んでやりたかった。
いらいらが頂点に達し、身悶えしていた麓丸の怒りは、しかし突然のうめき声により終わった。振り返れば鬼がくずおれ、戻ってきた金棒が頭に直撃して伸びていた。そして近くには人がいる。人の形をしている。
呆気にとられて見ていると、刀を腰に下げたその人物がやってきた。
「災難だったな。この辺りは治安がよくない。こっちだ」
足のある人間だった。むろん、冥土にいるからには死人だろうが、壮年で練達者らしい雰囲気がある。逃げている最中に見かけたのも魑魅魍魎ばかりであり、人間というだけで安堵する。話が通じそうなので、素直についていくことにした。
野を駆け地を蹴り谷を越え、老齢なはずなのに、身のこなしが只者ではない。礼を述べても「気にしなくていい」とスマート。鼻筋の通った顔立ちは、若年時の色男ぶりを思わせた。
小高い丘の上に着いた。崩れた骨が集められており、赤い息を吐いている。ゆらめく篝火の傍らには、忍装束をまとい、あぐらをかく人がいた。こちらも老人だが、うってかわって目つきがよくない。
「なんだそいつは」
訝しげに男が訪ねると、刀の男が説明した。補足として、麓丸は探し人がいることを付け加えた。
聞いている最中の興味のなさから予想はできていたものの、男は「知らん」と言って、棒で骨をいじくった。
「探したければ勝手に探せ。なんでもかんでも人に頼るな」
「そんな言い方はよさないか」
刀の男が諌めてくれたが、麓丸は「いえ」と手を伸ばした。
「その通りです。ここにくると決めたのはおれの意志なんだから、行きずりの人に甘えてはいられない。自力でどうにか見つけてみせます」
ところが麓丸が辞去しようとすると、男が呼び止めた。
「なかなか殊勝な奴だ。お主、名は?」
あまのじゃくな態度に思うところがないわけではなかったが、一応答えた。
「……飛騨麓丸といいます」
なぜだか男たちは一瞬目を合わせた。あきらかな驚きの色が見てとれる。
「お主の父、それから祖父と、さかのぼって何人か挙げてくれんか」
意図がわからない。刀の男までじっと見つめている。
「彦市、長嶺、弥次郎、呉竹、義勇……」
「義勇!」
その名を聞いた途端、男たちは肩を叩き、笑いあった。何がなんだかわからない。
「すまんすまん、こっちの話だ。おい、館に行って訊いてきてくれ」
「ああ、こればかりはな」
くつくつと笑いながら、刀の男は丘を降りていった。事情は飲み込めないが、助けてくれるようだ。
「向こうの方に領事館があってな、現世からこちらに来た者の管理をしておる。我らはお館様に顔が利くのでな」
「そうですか。すみません、結局お世話になって」
「構わんよ。我らの役目だ」
首をひねっていると、男はふと麓丸を見やった。
「ところでお主、妙なことになっておるのう」
指差したのは麓丸の左手だった。今まで人に看破されたことはなかったのに、魂になればそんなところまで透けてくるのだろうか。あらためて言われると、すこし恥ずかしい。
「これは幼少の頃からで。どうにもならないようです」
「ふむ……」
男は麓丸の手をとった。やはり冥土の住人には触れられるらしい。
「馬鹿にされたりするだろう。つらくないか」
「言わせておけばいいのです。おれは負けません」
「頼もしいな」
ふっと笑ってから「だがな」と続けた。
「お主の周りにいる者を、どうか忘れないでほしい。いま頑張れているのは、支えてくれる者がいるからだ。忘れるはずがないと思うか。わしもそう思っていた。しかし、邁進とは時に視野を奪う。意地を張り続ければ、己が見えなくなる。自らを蔑ろにする。それで手に入れたものはうつろだ。わしは死んでから気づいた。遺された者の声は、ずっと近くにあったというのにな……」
優しくうら寂しい瞳をたたえていた。心のどこかで思い当たる節はある。けれどそれ以上に、なぜか他人の気がしなかった。記憶の断片に血潮がたぎった。
「任せてください」
麓丸の力強い返事に、男もまた強く握りかえした。それから手を離し、印を結んで再度手をかざした。
「意気込みだけで言辞を弄しても、戯言に過ぎん。お主の力を見せてやれ」
青白い紋様がいくつか浮かび、ひとつずつ左手に吸い込まれていくと、内側で静かに弾けた。何か湧き上がる感覚がある。最初は与えられたものだと思った。けれど違う。これは、遠い昔に持っていたものだ。とうに失くしたと思っていたものだ。いつしか強がりを言うのに慣れていた。どれだけ望んだ。どれだけ追い求めた。叶わぬ願いと、そうずっと、思っていた。思っていたんだ。
万感の想いがこみ上げ、目頭が熱くなったが、麓丸はかろうじて耐えた。泣くのはまだ早い。まだ何もやっていない。
刀の男が戻ってきた。
「待たせたな。どうも、そんな女性は来ていないらしい。行き違いにでもなったんじゃないか」
「え」
めまいがした。冥土くんだりまで来てその顛末とはひどい。また力を失いかけたが、無脊椎動物のごとき体勢をどうにか直立させ、麓丸は二人に向き直った。
「帰ります……お騒がせしました」
「さすがに同情するが、あまり女を恨むなよ」
ぽんと肩を叩かれ、送り出された。なんの時間だったんだろう。どっと疲れたが、高高度まで上昇して振り返ると、二人はずっと地上で手を振っていた。
麓丸は左手を固くにぎった。
*
現世への帰路、ふいに周囲が明るくなった。柔らかな光の中を浮上しながら、麓丸は耳を傾ける。
「麓丸……」
「おや母上、おれの意識があっても出てこれるものなんですか」
「今のあなたは魂だけになっているから干渉しやすいの。そんな姿になってまで追いかけるなんて、妬けちゃうわ」
「これは幼なじみ的措置です。勝手に死なれては寝覚めも悪いですしね」
「ふーーーーーーーーーーーーーん」
「そんなに伸ばし棒が連なると、もはやはっきり言うのと同じですね。何がとは言いませんが」
「まあいいけど。いいですけど。早くしないと着いちゃうし」
「そうですね。どうせ気にしても何も出てきません」
「ふんだ。せっかく素敵な報せを持ってきたのに」
にわかに緊張が走った。母親が持ってくる「素敵な報せ」とは、息子にとってどのようなものだろうか。姿が見えないので、声色で判断するしかない。麓丸は反芻した。母上は今、ちょっとすねている。怒っているとまではいかない。原因は、自分が話に乗らなかったからだ。ならばあの口ぶりは「素敵な報せってなんですか」と聞いてもらうためのものではないか。しかし「持ってきたのに」の続きを考えれば、遠回しの脅しという可能性もある。「せっかく持ってきたのに、いつまでも意地を張ってるとこうだからね」と、万が一現物を突きつけられでもしたら、再起不能になるのは必定。家庭内助平のレッテルを貼られ、言動のすべてが猥褻な意味へと変換されてしまう。だがそのような事態を母上が望むとは考えにくい。そもそも息子といってもただの息子じゃない。思春期の息子だ。つまりガラスのハート、デリケートの化身、パンドラの男子。性に関する事柄なら、尚のこと触れてはならない。母上がそんな愚を犯すだろうかいやない。ああ見えて息子に似て聡明だ。よし、ない!
「ああ、もちろんあなたのエロ本の話じゃなくてね」
「ぐぼおっ!」
「どうかした?」
「持病の食道静脈瘤が悪さしただけですのでお気になさらず……」
「男の子だもんね」
「可愛いっぽく言ってますけど瀕死に追い込んでますからね。心は吐血してますからね」
「発見したのは偶然だし、ちょっとパラ見はしたけど、整頓はしてないから安心して」
「暗黙のうちに死んでくれの略でアンシンですか。母上はとんだ悪女ですね。若かりし頃の父上は、これに籠絡されたのでしょうか」
「あら人聞きの悪い。純粋に愛しあってあなたが生まれたのよ。知ってるでしょ」
「よくそんなことを恥ずかしげもなく言う」
「妻ですもの」
「……なんだか母上があいつと気の合う理由がわかった気がしますよ」
「だって、とっても良い子じゃない。麓丸もそれはわかってるはずなんだけどな」
「どうですかね」
「困った子ねえ。まあいいわ、なんだかタイミングがずれちゃったし、お報せはやっぱり麓丸が帰ってきてからにするわね。だから、あんまり遅くならないように。任務を果たして、プロポーズして、必ず無事に帰ること。いいわね」
「不要な手順は割愛するとして、概ね承知しました。おれにとって良い連絡であることを願っておきます。そちらも気をつけて、梅之助と待っていてください」
「はいはーい」
すうっと暖かい空間が溶けていくと、闇が辺りを満たしていった。けれど真っ暗というわけではない。次第に広がりゆく世界めがけ、一気に飛び出した。
後頭部にわずかな弾力を感じた。それから、髪を撫でる手のひらに気付く。瞼の内側へ差し込む、夕映えの木漏れ日。かすみ掛かった視界の中で、長いまつげの下に垣間見えた翳りは、沈みゆくあかね雲が重なると、どこかへ消えた。
「わたしのひざまくらの味はどう?」
「……味ってなんだよ」
むくりと起き上がった麓丸は、左手の指をひねってみた。いつもの外す感覚がしない。体の内側としっかり繋がっているのがわかる。
「これも愛の成せるわざかしら」
「元はといえばおまえの尻ぬぐいだがな」
「いやだわロクったら。人の尻をぬぐう趣味があるの?」
「言い方!」
まったく人騒がせなやつだ、と呟いたところで、鼻ちょうちんを膨らませている浮遊霊を発見してずっこけた。
「誤解がないように言っておくと、わたしが起きた時にはもう寝ていたわ」
「色々と逆な気がしてならんが、気にしないでおく。こいつは置き去りにするとして、おまえは……どうせ言っても聞かんのだろ」
「当然。こんな面白いこと、見逃せるはずないじゃない」
「はいはい、飛び出しは禁止だからな」
第二の巻物の示す地、そして決戦の地へ向け、麓丸は駆けだした。不思議と怖くはない。呪いが解けたお陰もあるだろうが、それだけではない気もしている。何が変わったかはわからない。けれど活力が湧いていた。
二人からの連絡は来ていない。麓丸は歩を早めた。最短距離で山中を突っ切った。そして、走りながらスマートフォンを取り出すと、あるサイトにアクセスした。トップページには、きらびやかな衣装で踊る男たちの写真が掲載されている。顔をしかめながら、麓丸はファンクラブ会員限定ページに入った。
「こんなところをクラスの連中に見られれば、何を言われるやら」
独りごち、コンサートスケジュールからチケット先行販売日までを確認した。後日行われるであろう、女たちとのすさまじい争奪戦を思えば戦々恐々である。
だが、もはや天引きする給料はなくとも、賞与は別だ。
そういうことにしておいた。
*
日光市西部にある湯ノ湖。そこからの水の流れを追っていくと、戦場ヶ原という湿原に出る。「戦地ノ下流」とある通り、戦場ヶ原をさらに下った先には「竜」がいる。奥日光三名瀑の一つ、竜頭の滝だ。
滝はやがて二手に分かれ、それぞれの途を行く。これこそが「二ツノ途」であり、二枝に分かれた滝を、正面から見た姿を竜の頭、あるいは二手の流れを竜の髭に見立てたと言われる。そして途を辿った先、つまり「袂」こそが巻物の示す地なのだった。
道が分かたれる前を「泡沫ノ夢」と記すところに、無念を感じる。おそらく分かれ道の片方が「悔悟ノ途」をなぞっているのだろう。再び現世での邂逅が叶わないからと、せめて手向けを残した。
己の中を流れる宮の忍の血がそうさせるのか、ここへきて、絶対に手に入れなければならない気がしていた。そのためには、因果を絶つ必要がある。かといって、師に頼るつもりはなくなっていた。もちろん任務達成が第一だ。だが、きっと人に頼った分だけ、喜びは損なわれる。そう思ってしまった。
冥土で言われた通り、口先だけでは何も得られない。後は戦うだけだ。戦って、証明してみせる。飛騨の名は、宮の忍にふさわしいものだと。
意気込み、決戦の地へ乗り込んだ麓丸は、唖然とした。
真雁が吊るされていたのだ。
高い木の頂上付近に縛りつけられ、ぐったりとしている。気を失っているようだが、それを差し引いても、威厳の欠片すらない。というかアロハシャツを着ている。佇まいだけで人を恐怖させたあの迫力はどこへいったのか。そしてなぜこんなことになっているのか。拍子抜けの極みにありながら、ひとまずそこへいた花岡に訊ねることにした。
「飛騨くん、来て大丈夫なのか?」
「あいつは無事だ。私情を挟んで悪かったな。それよりあれはなんだ? なんだあの有様は」
「いやそれが、僕たちにもわからないんだ。着いた時にはああなっていた。ほどなくして沼の忍が来たが、彼らにとっても青天の霹靂だったらしい」
見ると、水流を挟んで対岸に沼の三人がいて、師と言い争っている。
「だーから、わしじゃないと言っとろうが」
「貴様以外に誰がいる!」
どうもその繰り返しで、水掛け論のようだ。麓丸からしても、可能性があるとすれば師匠だと思っていたので、ますます解せない。
「ずっとあの調子で困っているのさ。雹隠氏を恐れてか、向こうも手出ししてこない」
「奴らは真雁に言われてここへ来ただろうからな。互いに状況がわかってないわけか」
麓丸は心当たりを考えた。相手が演技をしているようには見えない。こちらも尚更である。ただ偶然こうなったはずがない。何者かの意思が働いているはずだ。そいつはここに皆が集まるのを知っていた。なおかつ真雁を引っ捕らえるほどの実力者であり、なんらかの目的があって吊るした。ではその目的とは何か。あるいは必然性とは。見せしめか、もしくはこちらに与する者が手助けの意味でやったか。いくつかは考えられるが、アロハシャツがどうしても謎だ。なぜ着せたのか、理由はともかく、悪意があるとしか思えない。どこの誰がやったかは不明だが、相当ふざけた人物ということはわかる。しかしそれこそ心当たりがない。まったくの第三者だとしたらお手上げだ。今はそれより、宝の回収を優先した方がいいのかもしれない。
そうして気取られぬよう、隙をうかがっている時だった。
全身に痺れが駆け巡った。突然の衝撃に、わけもわからず倒れ伏す。見れば花岡も師匠も沼の三人も同様に倒れている。思うように体が動かない。声が出ない。全員身動きがとれないでいる。かろうじて眼球だけは動いた。
やがて、悠々と一人の人物が歩いてきた。といって、地上でも水上でもない。散歩でもするかのように、空中を歩いている。
麓丸は目を疑った。眼前の光景が信じられない。さっき見た。その姿が。なぜここに。
全員の視線を意に介さず、袂の大岩までやってきた唯良乃は、すこし調べると、あっさり岩の中から千両箱を引き抜いた。ふわりと風で持ち上げ、元の道を戻っていく。誰もが叫びたかった。しかし叶わない。麓丸の前に一枚の写真を置いて、唯良乃は飛び立っていった。
やがて、痺れが抜けてくると、麓丸はゆっくりと立ち上がった。写真には、何か建物が写っている。ブルーシートが掛けられているが、麓丸には場所がわかった。
「飛騨くん……?」
不穏な気配を感じ、まだ倒れながら花岡が声をかけるも、麓丸の後ろ姿からは「うふふ」という狂気じみた笑い声が聞こえてきた。
「あははうふふあはは」