漆
遠くで、波紋が広がるのを感じる。耳をすませても音がしない。けれど確かに、たゆたう水の流れがある。どこかで見た風景だった。いつだったろう。ゆっくりと過ぎゆく静謐な時は、きっとかけがえのないものだった。忘れていたわけではない。でも、失われてしまった。どうしてそうなったのかわからない。ただ、脆さを想像したことがなかったのだと気づいた時、ひび割れた欠片を集める手が、ひどく汚れているように思えた。それでも、何を望むのだろう。
うつらうつら記憶の底へ泳いでいくと、小さな池があった。アメンボを見てはしゃぐ子どもと、そばにもうすこし大きい少年がいる。
子どもが、あれはどうして水の上を渡れるのかと問うと、少年は水をはじくからと教えた。どうしてはじくの。そういうふうにできている。どうしてどうして。なんでなんで。子どもは次々と疑問を口にしたが、少年はひとつひとつ優しく答えていく。
最後に「ぼくにもできるかな」と言うと、少年は「**には無理だよ」と言って、頭をぽんぽんとたたいた。しかし、子どもがむくれていると「今はまだ」と呟き、おもむろに池へと足を入れた。
あっ、と子どもが叫んだが、少年は歩を進めていく。なんと少年が行く先々から水が湧き立ち、足場になっていくではないか。それはとても美しく、おとぎ話の一場面のようだった。
そっと戻ってきた少年は、端に追いやられたアメンボに詫び、きらきらと輝く目を受けて優しく笑った。子どもはすっかり魅せられ、すごいすごいと連呼した。それから「ぼくもできるようになる」と、少年の手を真似しはじめた。
少年はしばらく見ていたが、やがて子どもに向き合うようにしてしゃがんだ。
「力はあるだけじゃだめなんだ。正しい使い方を知らなくちゃいけない」
首をかしげる子どもに、少年は穏やかな声で続ける。
「まだわからなくていい。けれどいつか、わかる日が来る。正しいというのは難しいことだけれど、自分だけじゃなく、他の人を思いやれる心を含むんだ。それをどうか、これからの中で見つけてほしい」
わからないなりに聞いて、子どもが頷くと、少年は何も言わず頭をぽんと撫でた。
そうだ。だからこそ僕は、正しさを追い求めてきた。体現するための力をつけようとしてきた。努力を怠らなかった。
でも、あんな怨みがましい顔を、姿を、させるつもりじゃなかった。何かを知らしめようなどとは、まして壊そうだなんて、露ほども思っちゃいなかったんだ。
景色が遠ざかっていく。粉々に割れ、集めるより早く、どんなに走って、手を伸ばしても、追いつけない。
やがて足を止めた時、愕然とした。光が遠ざかっていくのではない。自分が置き去りにしているのだと。
がん、という物音に目が覚めた。
「起きたか」
続けざまに鳴る音に、ぼんやりしていた意識が徐々に戻ってくる。次いで背中に鈍い痛みが走り、体をよじると、後ろ手に縛られているのに気づいた。
壁のあちこちを蹴る麓丸に、声をかける。
「……何をしてるんだ」
「見りゃわかるだろ。どこかぶち破れるところがないか調べてる」
そこは、どこかの納屋らしかった。こじんまりとしている上、ずいぶんと傾いているが、使い古しの籠やら長持が置いてある。もっともかなり麓丸が暴れたようで、物が散乱していた。特に扉にかかった錠前は泥だらけになっている。
「だめだな。思いのほか頑丈だ」
届く範囲すべてを蹴り倒した麓丸は、ごろんと横になった。「針金さえあれば、たいていの扉は開けられるんだがな。装備も奪われちまったし、命があるだけマシってところか」
その言葉に、ばっと体を起こす。
「具合は大丈夫なのか?」
「大したことない。毒ならやばかっただろうが、昏睡させられただけみたいだな」
大挙する虚無僧に襲われた時の、未知なる恐怖を思い出し、ぞくりとした。彼らは何者で、宝はどこで、どうやって脱出するか。疑問や課題は山積みだったが、花岡には話すことがあった。
「すまなかった」
麓丸は背を向けたまま答える。
「油断したのはおれも同じことだ。さして謝られる筋合いはない」
「いや、そのこともそうだが」
意を決し、言いにくさをどうにか飲み込んだ。
「君の弟がさらわれたのは、僕のせいだ」
「……どういうことだ。あれは鹿沼の仕業だろう」
梅之助の身に関わる問題なら、到底捨て置ける話ではない。ただ、どうにもそれ以上の責任を感じているような声色だった。
「昨日言ったが、あの斑鳩という忍は僕の兄なんだ。最初から鹿沼にいたわけじゃなく、元はれっきとした宮の忍で」
ほんの短く言葉を切る。
「花岡流を継ぐはずだった」
沈んだ声だった。麓丸は振り向かず、言うに任せた。
「君は、僕の名前を知っているか?」
「波斯とかいう、キザったらしい」
「ふ、そうかもな。でも意味までは知らないんじゃないか」
花岡はゆっくりと語りはじめた。
「まだ幼かった頃だ。僕はどこかの市場を歩いていた。屋台や出店が軒を連ね、がやがやと人がごった返している。大人ばかりだから、ぶつかられて転んだりした。どうしてそこにいたのかはわからない。でも、とにかく僕はお腹が空いていたから、匂いにつられたんだろう。家に何もなかった。ある日誰もいなくなって、何もなくなった。記憶はおぼろげだが、もともと貧しかったんだろうな。留守番をほめられた覚えがあって、しばらく待ちぼうけていたけれど、とうとう両親は帰ってこなかった。当然だ。家財道具もない家に誰が戻ってくるものか」
自嘲ぎみに笑ったが、笑ってみただけのことだった。
「気づけば市場にいた。そうだ、やはり空腹に耐えかねてのことだったらしい。ところが、お願いすれば何か恵んでくれるんじゃないかという淡い期待は、ことごとく打ち砕かれた。僕みたいな境遇の子供はめずらしくないらしく、どこも門前払いだったのさ。最初は美味しそうなものを売っている店、それが無理だとわかると、あまり繁盛していない店、荷車のそばで休憩する露天商、客待ちの馬引き、いろいろと聞いて回ったが、にべもなく断られた。
お願いをするにしても、人が多いせいで、声を張らないと聞こえない。でも、急にその元気が出てこなくなった。途方に暮れ、軒下で行き交う人を見ているうち、親がいなくなった喪失感や実感がじわじわと湧いてきた。目の前を幸せそうな家族が通っていくんだ。本当は自分もああだったのにと思うと、泣きたくなったが、涙は出ない。喉も渇いていた」
幼き日の記憶を思い起こしながら、花岡は淡々と語っていく。記憶が薄いからこそできることもある。
「どれくらいそうしていただろうか。やがて、立ち止まる人がいた。最初は話しかけられているのに気づかず、ぼんやりとしていたが、相手が身をかがめ、同じ目線になってわかった。それが父との出会いさ」
ようやく声に明るさが混じる。再会という意味ではないにせよ、そこに後ろ暗さはないようだった。
「当時の僕には知るよしもなかったが、外国の市場で日本人の子供が一人で座っていては、気にもなるというものだ。おまけにぼろぼろの身なりをしていたんじゃね。だからといって、普通できることじゃない。みず知らずの僕を、父は日本へ連れ帰った。きちんと手続きをしたから、僕は正式に息子ということになる。いくら感謝してもし足りない。両親へのうらみも今はない。父のおかげで僕は生きてこられた。だから出会った地、ペルシャを意味するこの名前は、大事にしている」
多少ばつが悪かったが、本題はこれからなのだろう。花岡は続ける。
「恩に報いたくて、家の手伝いをたくさんやった。本宅の洗濯や掃除はもちろん、道場の雑巾掛けを毎朝した。出入りの職人に頼んで、道具の手入れも教えてもらった。清潔な衣料と暖かな食事がある幸せというのは、決して当たり前じゃない。しかも学校にまで通わせてくれるんだ。父は働けと言ったことは一度もないけれど、僕が何かしていても、止めはしなかった」
麓丸の頭に我が家がよぎった。父に強制されたことはない。好きなようにやってみろとも言わない。なのに自身は、家族のために望まぬ仕事をやっている。それがどれほどのことか。
「僕にはひとつ愉しみがあった。庭の掃き掃除をしている時、門下生たちの練習をこっそり覗くことだ。基礎訓練もそうだが、とりわけ好きなのは、竹刀を持った模擬試合。そして僕の視線は、いつも兄に注がれていた。
花岡家の嫡男として将来を嘱望されていた兄は、僕の目にも、一番熱心に鍛錬しているように映った。慢心もなく、跡取りの責務に釣り合うよう努力していた。父が突然連れ帰ってきた僕に対しても、決して邪険に扱ったりしない。父は早くに妻を亡くしているから、今までずっと二人だったところに、急に他人が増えては戸惑いもあったろうに、よく受け入れてくれたものだ。かといって特別扱いもせず、ふとした時にやさしさが垣間見える。そういうところは父に似ていたかもしれない。僕は兄を尊敬していた」
剣術流派の名門である花岡流は、表向きただの剣術指南所だが、忍という裏の顔がある。その跡継ぎとなれば、二つの道を生きるのが必定であり、どちらの修行もこなさなければならない。並大抵のことではなく、名門たる所以でもあった。
「ある日、幼心に箒を持って、剣術の真似事をしているところを、父に見つかった。掃除用具を遊びに使うなと、怒られる予感がしてびくびくしていたが、近づいてきた父は、黙って僕の構えや姿勢を正すと、一歩下がってしばらく眺めた。それから僕に『やってみるか』と言ったんだ。驚きのあまり箒を取り落としたよ。でも、すぐに頷いた」
昨年の忍者協会杯で応援していたのは、花岡の父だった。関係が良好なのは本当なのだろう。だからこそ、傍目にはわからないものが介在している。
「翌日から僕は稽古に参加した。大層な話かもしれないが、憧れの場所だったから、厳しくとも頑張れた。でも大きな理由としてあったのは、やはり兄の存在だ。他の門下生からの信頼も厚く、下級生が相談に行っているのを何度見たことか。僕も話しに行きたいが、なかなか割り込む隙ができない。それでさみしく思っていると、すっと現れ、色々と教えてくれた。兄はよく、正しくあらねばと言っていて、思えば僕が正しさを求めるようになったのも、兄の影響だろう。未だにわからないがね……」
人は往々にして、時と場合による、人それぞれ、などと言って納得させようとするが、それは話を終わらせるための方便でしかない。言われなくてもわかっていることだ。踏まえた上で、本当の答えを探している。胸のつかえに苛まれても、逃げたくないのだとしたら。
「何年かして、兄は百人抜きの儀に臨むことになった。跡を継ぐにふさわしい者として力を示す、花岡家に伝わる儀礼さ。文字通り、百人の門下生を打ち倒すという過酷な試練を前にしても、兄は落ち着いていたが、その内なる熱は、獅子奮迅たる戦いぶりから見てとれた。父に再婚の意志はなく、正統な後継者は自分ただ一人。きっと幼い頃から、計り知れぬ重圧があったに違いない。でもその時の僕は気づかず、ひたすら出番に備えていた。兄の背を追っていくうち、いつしか道場で二番手になっていた僕は、百人目の相手だったんだ」
花岡を縛っていた縄が、ぎりりとしなった。腕に食い込もうと、こぶしは握りしめられたままだった。
「最終戦は真剣で行われる。竹刀とは比較にならない緊張感であり、覚悟を試すにはうってつけなのだろう。だから僕も、全力で応えると決めていた。
九十九人と戦った兄は、余力も少なく、さすがに息が乱れていた。それでも、構えは崩れない。刀と刀が幾度もぶつかり合った。相手は満身創痍のはずなのに、気迫に押され、いつの間にか互いに最後の居合いを放つ構えに入っていた。
僕にはわかってしまった。
ずっと兄を見てきたんだ。こういう時、兄がどの足から踏み込み、どの角度で、どの機に刀を抜くか、読めてしまった。しかし、だからと言ってわざと負けるわけにはいかない。そのような勝利では、誰も跡継ぎとは認めないだろう。たとえここで負けてしまっても、兄なら立ち上がれる。そう僕は、無責任にも信じてしまった。相手の初撃を躱し、返す刀で切っ先を突きつける。それで決着がつく。そのはずだった。
放たれた斬撃は読み通りの軌道を描いた。力のかかる方向がわかっていれば、打ち払うことも不可能ではない。刀を失った兄は、回避するか動きを止める。そう思っていた。払い、刀を振り下ろし、顔の前で止める。そのはずだった。
ところが、かつて見たことがないほど兄は狼狽し、よたよたと刀を追いかけ飛び込んできた。すでに僕は振り下ろしている。必死に止めようとしたが、思いのほか兄が速く、すり抜けるかと思われた。
そうしてほんの一瞬、僕が安堵した時、兄の足がもつれた。
感触は覚えていない。ただ、足から鮮血を滴らせながら、兄が僕を見ていた。呆然と、ただ見ていた」
納屋の中がしんとした。緩慢に埃が舞いおりる。結末は見えてきたが、花岡はやめなかった。
「以来、兄は足を悪くした。知っての通り居合いは踏み込みが肝だ。それがなくては、花岡流とは呼べない。跡を継げなくなった。父が励ました。でも駄目だった。兄がそこまで張りつめていたことに、誰も気づいていなかった。きっと直接的な圧力じゃない。期待や当然という名の空気に、長らく侵されていたんだ。その日全てが破綻し、崩れ去った。
家を出て行こうとする兄に追いすがった時、かつての兄はどこにもいなかった。深い憎しみだけを拠り所にしていた。まして、よりにもよって僕に情けなどかけられたくなかっただろう。突き飛ばされたきり、いつまでも立ち尽くした。そうして長い間、僕は動けなかった」
口をつぐみかけたが、ここでやめれば二度と開けない気がして、なおも言葉を紡いだ。
「これでわかったかな。兄が、斑鳩が鹿沼に堕ちたのは僕のせいだ。つまり君の弟がさらわれたのも、元をたどれば僕のせいなんだよ。こんなことで罪滅ぼしにはならないだろうが、せめて洗いざらい話さねばと思ったんだ。まったく君のいう通りさ。宮の忍らしさなど、本当は関係ない。ただ宮の忍という枠があれば、正しさの基準ができるから、それに甘えていただけなんだろう。昨日、肝心なところで刀を下ろせなかったのがいい証拠だ。結局僕は徹底しきれない。行動のない正しさなんて、言葉に過ぎないのにな……」
話が終わると、それまで黙って聞いていた麓丸は、すっくと振り返り、花岡の前までやってくると、憮然としてにらみつけ、いきなり振りかぶった。花岡の額に、渾身の頭突きが炸裂した。
意味不明な上、とてつもなく痛い。顔を押さえたくとも、縛られているので身悶えするしかなかった。
「な、なにを……」
「うるさい! 長い!」
絞り出すように言ったが、間髪いれずに怒鳴られた。
「えええ……いや、僕けっこう大事なこと話したと思うんだけど」
「知るか! 長い!」
「えええ……」
麓丸はつま先を差し向けながら、大いに怒りをぶちまけた。
「長い! もうとにかく長い! 聞いてねえよ。よしんば聞いたとしてそこまでは聞いてねえよ。だいぶ序盤で展開わかったよ。ああ、こいつ傷つけちゃうんだろうなって。予定調和だよ蛇足だよ。要は、いいとこの坊ちゃんが挫折して不良になったってことだろ。よくあるよくある。仮にそこを乗り越えても、そんな奴は遅かれ早かれへこたれてたよ。それよりおれが聞き捨てならないのは、梅之助のことだ。まったくどんな理由があるのかと思えば、構えて損した。いいか、梅之助がさらわれたのはおれの不備だ。おれの警戒が足りなかったというだけなんだよ。それをおまえは、僕のせいだなんだと思わせぶりな態度でまあ。おれはよく落ちこぼれだと言われるがな、いちいち人のせいにするほど落ちぶれちゃいない。見くびるな!」
花岡はよくわからなくなった。確かに怒られても仕方ない話をしたつもりだったが、怒られる方向性がおかしい気がする。何か中心にあるものがあべこべになっているんじゃなかろうか。そう思ったが、やはりよくわからない。
ただひとつわかったのは、麓丸にとって自分の話は長かったということ。言いかえれば、あまり興味がなかったということだ。
いくら当人が悩んでいても、他人からすれば瑣末な問題でしかない。そんな考えがあることは知っていたが、ここまで堂々と言われると、もはや笑うしかなかった。一度噴き出すと、もう止まらなかった。
高らかに声をあげ、身をよじって花岡が笑う姿を、麓丸は気味が悪そうに見ていた。「気味が悪いぞ」とも言った。
「いやいや、すまない。どうしようもなくってね」
そこからまたしばらく笑い、腹がよじれ、涙目になって、ようやく治まった。
「さて飛騨くん、ここをどうやって出ようか」
「急に真面目になられると余計に気持ち悪いな」
忌憚なく感想を述べてから、麓丸は扉を示した。「そろそろのはずだ」
やがて、隙間から細い金属が差し込まれた。近づきながら、扉の向こうで見るに耐えない形相をしているであろう使用人に、麓丸は呼びかける。
「よくやった。遅かったから減給な」
*
外に出て判明したのは、まず納屋ではないということだった。山肌にそのまま部屋が埋められており、草木の生い茂った扉を閉めれば、外部からは野山の一部にしか見えない。他にも隠し部屋があるとしたら、そのどこかに求む宝が眠っているのかもしれなかった。ただ広大すぎるため、やはり先ほどの蜂から聞き出すほかあるまい。野ざらしになっていた装備は小夜子が回収しており、戦う用意はできている。
「おまえ、さっき成仏しなかったか?」の問いには、「成仏くらいキャンセルできないと、浮遊霊なんかやってられないっす」という謎の理論で返した。
小夜子が気になるのはもっと切実なことだった。すなわち「あたしの給料って今どうなってんすか」だ。
ところが麓丸は気のない返事をした。
「さあ。おれの気分次第だからな。アイドル雑誌のスクラップとかになるんじゃないか」
「あたしの好きなグループの……?」
「それじゃつまらんから無作為に……ああ、いいこと考えた。課金する度にくじ引きできる方式にしよう。もしくは飛騨家への貢献ポイントが貯まれば」
「流行りに迎合するろっくんなんて嫌いっ!」
花岡が諌めたが、ここぞと泣きつく小夜子に腹が立ったので、麓丸は聞く耳を持たなかった。
さておき、一体でも苦戦を強いられた蜂が大量にいるとなれば、せめて各個撃破が望ましい。だが、そもそも全員と戦う必要はなく、一人でいいから捕縛し、宝の在り処を吐かせるのが得策だ。問題なのは、奴らが神出鬼没であり、出現地点の予測がつかないことである。囲まれれば今度こそ命はないだろう。麓丸のスマートフォンによって、ここが男体山のどこかというのはわかっているが、地理に明るいわけではない。態勢を立て直すべく、一旦は下山することにした。
しかしながら、予定というのは組んだが最後、理不尽に砕け散るものである。
「ぎええっ!」
最後尾にいた小夜子の眼前に、蜂人間が出てきた。空間を転移してきたかのように、出し抜けに現れたのだった。どんな原理かは不明だが、やるしかない。敵陣の真ん中に出てくるなど愚の骨頂。己の浅はかさを思い知らせてやろうと、麓丸が躍りかかったが、クナイによる攻撃は空を切った。複眼による回避かと思いきや、煙のごとく姿が立ち消えたのだ。そしてまた現れる。
瞬きの度にどんどん数が増える奴らは、そのくせ麓丸たちを取り囲まず、一箇所に集結していった。陣形を組んでいるわけでもなく、互いの動きを阻害せんばかりの距離で密集している。蜂の無機質な頭部が居並ぶ光景は、なんともおぞましい。火遁の印を結ぼうとすれば、針の先から毒液を飛ばしてくる。逃げようとした時に限って立ちはだかる。選択の余地がない。手をこまねき、得体の知れぬ生物が集まる様を見せられるのは、加速度的に不安を増幅させた。
頭上に巨大な深編笠が現れたかと思うと、木々を揺らしながら落下し、蜂人間の集団をすっぽりと覆った。衝撃で土や木の葉が舞い散る。嫌な予感しかしない。的中する前から確信するほどに、悪い予感がする。あーあ、どうせ良くないこと起こるんだろうな。などと強めに思ってみて、予兆の裏をかこうと試みるも、無駄な足掻きに終わった。
蓋が突き破られると同時、不快な音がした。ただ音量が大きいだけでなく、神経を逆撫でする風音の発生源は、残像を伴って上下する翅だった。いたって単純な話だ。小さな蜂が集まる。くっつく。混ざる。合体する。大きな蜂になる。やったね! 逃げよ!
再び全速力で逃走した。
蜂人間が集まって蜂になるというのは、形状の違いからすれば奇妙な現象だが、高まる鋭利な殺意の前に、細かいことはどうでもよくなる。とかく逃げる。逃げおうせる。一切はそれからだ。
図体がでかくなったからといって、小回りが利かなくなったわけではないらしく、周囲の木や枝にぶつからないよう、器用に体をひねりながら迫ってくる。それも最小限の距離で避けるためであろう、当たる直前になって急速滑空する。全方位へ身をひるがえす様は、ある種の踊りにも見えるが、動きがめまぐるしく不規則なため、気の触れた祈祷師のようだ。その上表情がないので不気味きわまりない。
番人として持ち場の概念があるのなら、人里まで降りれば引き返すだろう。そう思い懸命に走るが、その間も容赦なく毒液が飛んでくる。火遁を警戒しているようで、花岡は特に狙われた。さっきは水鉄砲くらいの量だった毒液も、今やホースの先を押さえたような勢いで射出される。当たればひとたまりもない。顔の真横を通り過ぎた液が前方の木に命中し、どろどろに溶けるのを麓丸は見た。郷里の言葉を交え、しどろもどろにわめく浮遊霊の喚声を、麓丸は聞いた。
なるたけ狭い場所を通り、傾斜を利用し、煙玉を焚くなどして、どうにか行方をくらませようと試みたが、猛追は止まらなかった。後ろからの攻撃に気を配っているのを差し引いても、そもそも本気の麓丸たちより速力が上回っている。加えて勢いが衰えぬ、無尽蔵とも思える体力。さらには山を下るごとに拓けた地形が多くなり、距離をごまかすのが難しくなっていく。もはやすぐ傍まで迫っていた。
追いつかれる――。
だが、その研ぎ澄まされた細剣が貫くことはなかった。
いきなり大地を揺るがすほどの衝撃が走り、麓丸らは横転した。新手の攻撃を疑いながら、わけもわからず起き上がると、羽音が止んでいる。蜂が、何か巨大なものの下敷きになって、ぴくぴくと痙攣していた。最初は大木が倒れてきたのかと思った。だがそれにしては大きすぎる。顔を見合わせても、誰一人として心当たりがない。そっと近くに行って確認したが、土色の長い何かに、区切り線が一定の間隔で入っていることだけがわかる。しかし、おそるおそる触れてみて、ひたひたと肌に吸いつく感じ、ひんやりしているのに伴う生物感などから、正体を察知できた。形状とも一致する。つまりこれは、とてつもなく巨大な蛇だ。
「やあ、どうもこんにちは」
どこからか荘厳な声が響いてきた。口調は軽いが、杉の木がてっぺんから揺れている。出どころがわからず、麓丸たちは辺りを見回した。
「ああ、ごめんごめん。向きはどこでも向き合ったことになるから」
不思議な言い回しに首をかしげる間もなく、とんでもないことを言われた。
「私は男体山。どこを向いても私と会話できるよ」
「え?」「ん?」「ほあ?」
三者三様に間抜けな声が出た。無理からぬ話だ。山を自称するなど聞いたことがない。
「呼び名はなんでもいいのだけれど、人間からは大己貴命と呼ばれているね。ちょうどいいから私もそう名乗っている」
「そういえば」花岡はパンフレットを取り出した。「あったぞ。確かに男体山の祭神として、名が記されている」
「んなアホな」
麓丸は口をあんぐりさせたが、こんな現象を起こされては信じるしかなかった。
「……まあこの際いいか。どうしておれたちを助けてくれたんですか?」
「そこの蜂さ。彼らは神使、つまり私の使いの者なんだが、いささかやりすぎるきらいがあってね、時々灸をすえなきゃいけない。だいぶ怖い目にあったろう。すまないことをした」
姿は見えないが頭を下げられた気がして、一行もあわてて頭を下げた。
「いやいや、君たちに非はないんだ。どうも早とちりしていたみたいでね」
「早とちりなもんですか!」
いつの間に抜け出し分解したのか、一人になった蜂人間が訴えた。声に混ざっていた雑音も取れている。
「こやつらは本社を怪しく嗅ぎまわっていました。そして当てが外れると中宮祠、いずれは奥宮まで荒らしかねなかった。あなたもご覧になったでしょう。あの、宝を探して彷徨する眼の据わり方ときたら、今にもむしゃくしゃして境内を焼き払うところでした。悪の芽はすみやかに摘まねばならないという判断の、どこが早とちりなのでしょうか」
まったくもってひどい誤解だったが、あっちの意味なら誤解とも言い切れない。ここは神の言葉を待つことにした。
「では、君が守ろうとした宝とは何かな」
「それを言ってしまえばこやつらに」
「いいから」
有無を言わせぬ迫力に、神たる片鱗を感じた。
「……奥宮にある御神刀です」
「なるほど。では君たちが求める宝とは?」
「その御神刀とやらは初耳ですが、おれたちは巻物の暗号をたよりにここまで来ました」
麓丸は蛇に向け、巻物を広げてみせた。「ただ完全に解けたわけではないのです。それであちこちさまよい、血まなこになっていました」
正直に麓丸が話すと、神は得心いったふうに「ふむ」と漏らし、現世に顕現させた体を動かした。
「猛省したまえ」
巨躯に似つかわしくないほど俊敏な動きで自らをしならせると、弁解を待たず解き放った。奇声を発しながら山の彼方へ吹き飛ばされていく蜂人間を、三人はぽかんと見送った。
「気にしなくていい。彼らは死なないから」
あれだけ追い回され、命の危機にまで瀕していたのはなんだったのか。早とちりの一言で済まされていいのか。そう思うとやるせなさもあるが、あんな罰を受けるとなれば何も言えない。むしろ灸をすえすぎではとも思ったが、続く言葉にかき消えた。
「君たちが探すものは滝尾神社にある」
「本当ですか!」
滝尾神社は、日光二荒山神社の別宮にあたり、本社から続く道がある。「ニコウ」の名を冠さないため、捜査からは外れていた場所だ。
「先ほど捕らえられていたのは、ただの物置きだよ。そうじゃなく、君たちは惜しいところまで来ていたんだ。まずニコウを日光と捉えたのは正解。けれど化灯篭を『ニコウに近しく非なるもの』と考えたね。その考えは合っているが、化灯篭のことじゃない。滝尾神社を示す暗号なのだよ」
細かいことは話していないはずだったが、なんでもお見通しのようだ。
「なぜでしょう」
「これも惜しかった。空と天を別々にするところまではね。だが、そもそも君たちは日光、いやまずは日光東照宮の成り立ちを知っているかな」
ここは花岡が答えた。
「天台宗の天海が、徳川家康を祀る社として創建したのが始まりかと」
「待て、天まみれじゃねえか。なんで言わなかったんだ」
「日光と聞いて天海がよぎったのは確かさ。でも僕には空にあたるものが思いつかなかった。いたずらに情報を増やしても混乱を招くだけだと思ったんだ」
「むう」
天海すら出てこなかった麓丸はそれ以上追求できず、代わりに神へ質問した。
「でも東照宮ですか。二荒山神社ではなく」
「この暗号が記されたのは江戸時代。東照宮ができた頃で、二荒山神社も崇敬を集めはじめていた。当時の人間からすれば、二つを一緒くたに考えても仕方なかったんだ。もちろん暗号だから、撹乱する狙いもあったようだね。しかし重要なのは、どちらも日光と名のつくことだ。君の母君が言ったように、日光の語源となるのはニコウ。しかしそれを誰が名付けたか。ここまでは話が及んでいなかったようだが、答えは空海だ。かの有名な弘法大師だよ」
その名はさすがに知っていた。ただこの地で何をした人物かとなると、やはり仔細な情報は出てこない。麓丸の学業における成績は悪くないものの、地元民だからこそ逆におろそかな部分はある。不勉強を恥じたが、とっくに飽きて寝ている浮遊霊が家臣なのはもっと気まずかった。
「さて、ここで暗号に戻ろう。まず『天ナラズ』だが、これは先ほど言ったように天海、つまり日光東照宮もとい日光二荒山神社を指す。しかし『ニコウハニコウニシテ』とある通り、日光そのものではなく近い何かとなる。そこで『空ヨリ出ズル』の出番だ。空海は日光という名を与えただけじゃない。彼が建てたものがあるんだ」
「滝尾神社!」
ようやく繋がって、麓丸が手をたたいた。
「よくできたね。さあ、私が手を貸すのはここまでだ。残りの暗号は行けばわかるはずだよ」
「何から何までありがとうございます」
謝辞を述べてから、麓丸は気になっていたことを訊ねてみた。
「最後にひとつ、どうしてここまでしてくれるんですか。詫びの意味もあるのでしょうが、本来あまり人間に介入しないのではないですか」
問いかけに対しすぐには答えず、すこし逡巡した後、声をひそめて言った。
「……隣りの女峯山にも、ここと同じように祭神がいる。田心姫命といって私の妻なんだが」
さらに音量を落とした。
「彼女、ここが騒がしいと怒るんだ。ゆっくり寝られないとか言ってね」
「はあ」
「はあじゃない。わからないと思うが、彼女の癇癪ときたらそれはもう世にも恐ろしいのだよ……男体山がくり抜かれるくらいはあり得るね。だから、君たちには揉め事を早く解決してもらいたかった。有り体に言えば、早く出て行って静かにしてほしかった」
ずいぶんと尻に敷かれているらしい。もちろん神の世界のことなので、規模は比べるべくもないが、麓丸はなぜか他人事の気がしなかった。
「なんか、わかります……」
麓丸の呟きから某かを読み取ったらしく、大己貴命も嘆いた。
「君もか……本当、これが世の理というのだから……」
諦めのこもった声で呻きながら、神が消えていく。横たわっていた大蛇が溶け、大地に馴染んでいくと、やがて自然と同化した。
関係ないところで神とわかり合った麓丸は、背後でほくそ笑まれた気がしたが、どうせ気のせいではないのだった。