陸
東の尾根に柔らかな日が掛かる春暁、月桂樹の葉が静やかに揺れた。白刃に散る朝の涼気は、ぶつかり混ざりあっては止む。一定の呼吸によって生み出されるそれらは、傍目に差異などない。けれどほんのわずか、当人にのみわかる力みがあった。無心にならねばという意識が邪念へ転ずる度、切り裂く気流の手応えとなって現れる。いくら刀を振るおうとも虚空を切るばかりだ。根源に差した一条の翳りは澱みとなり、未だ払底できずにいた。
「朝っぱらからご苦労なことだ」
門扉からの声に、思索は中断された。
昨晩の戦闘後、山を下るとすっかり遅い時間になっていたため、花岡は飛騨家に泊まった。遠慮する彼を麓丸が泊まらせた。そして一夜明け、庭に出た花岡は修練に励んでいたのだった。
「……日課でね。君こそこんな早くにどこへ?」
「バイトだ。新聞配達のな」
花岡は思わず訊き返した。「昨日の今日で行ってきたのか?」
「やすやすと穴を開けるわけにはいかん。地区で担当があるから、急に休んだら大変なんだぞ」
どっちがご苦労なのだろう。そう思うとふいに、驚くほど柄を握りしめていた自分に気付く。
「任務の話もしなきゃならんし、ついでに朝飯も食ってけ。梅之助の料理は絶品だぞ」
「昨日はそれどころじゃなかったからね。しかし君の弟は本当に大丈夫か。あんな目に遭ったばかりじゃないか」
「心配には及ばん。偉大なる兄の背を見て育ったからな」
軽口に笑うことなく、花岡は刀を鞘に収めた。
居間に着くと、やがて皿が運ばれてきた。当たり前のように座る唯良乃の他、今日は師匠も一緒だ。
「すみませんな奥さん、わしまで」
「いいんですよ。いつも麓丸がお世話になっています」
曜子は笑っているが、麓丸は内心気が気でなかった。昨晩家に帰り、無事を確かめたまでは良かったものの、緊急事態が続いたせいで忘れていたことを思い出してしまった。母のあの爆弾発言である。いくら眠っていた時とはいえ、なかったことになるはずもない。
こっそりと秘蔵の書棚を覗いてみたが、特に触られた形跡もなく、元通りの並びだった。ならばあれは、かまかけだったのか。だとすればまずい。自らブツの存在を認めたことになる。いや、仮にも高校生の息子を持つ身として、それくらいの予想はつくのではなかろうか。だったら気にすることもないのではないか。いや、するわタコ。するに決まってるわオタンコナス。
己に突っ込みをいれつつ、やきもきする麓丸をおかずに、唯良乃は箸を進める。花岡は二人を見て首をひねる。言う機会を逸していたが、関係性がよくわからない。婚約者の真偽はともかく、あれほどの術者が常につきまとうというのは尋常でない気がした。
食後に梅之助が林檎をむいてくれた。その健気な姿に、麓丸は気を取り直す。
「梅之助、昨日は待たせてしまったな」
「いいよそんなの。おれは元気だよ」
あくまで明るく振る舞う弟に痛み入る。
「師匠も、危ないところをよく来てくださいました」
「うむ。楽土に行きそびれたのは残念じゃが、いずれ機会も訪れよう」
師は林檎をしゃくりとやりながら続けた。
「して麓丸よ、巻物はどうなった?」
「見てみましょう」
皿をよけ、卓の真ん中に巻物を広げると、古めかしい墨字の文が記してあった。
ニコウハニコウニシテ
天ナラズ空ヨリ出ズル
悔悟ノ途ヲ渡ルナラ
奈落ヲ行カバ良カリシヲ
「……暗号ですね」
「そうじゃな。何せ時価三億だったか、となれば容易にはいくまい」
「奈落を行けば良かったのに、とはよほど悔いのある選択をしたのだろうか」と花岡。
「その辺り、書いた本人の心情だけなのか、違う意味が含まれているかも微妙だな。あと天と空の差もよくわからん」
「ニコウとやらも何を指しておるか」
「ニコウ……ううむ」
腕組みをして唸りはじめた男たちへ、おっとりとしたお声がかかった。お茶を飲んでいた曜子が「はい」と挙手したのだ。
「ニコウっていうのは、二荒山神社のことじゃないかしら」
「二荒山神社、ですか。ああ確かに、最初の二文字はそうも読めますが」
「ううん、昔は本当に『ニコウ』って呼ばれていたの。それが『日光』の語源にもなっているのよ」
「そうなんですか! さすが神社の娘」
「待ってくれ」喜ぶ麓丸を、花岡が制止する。
「二荒の二字なら、この辺りには他にもあるぞ。|日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社だ。文字で判断するなら後者も捨て置けない」
「それは日光の方に決まって……るわけでもないか。他の部分がまだ読み解けてない以上、どちらも調べる必要があるな」
すこし考え、麓丸は横を向いた。「師匠」
「よかろう。二手に分かれるのだな」
「さすがです。では組み分けですが、まずうちの使用人たちは置いていきます。自宅にまで押し入る奴らの非道さは許しがたくも、こうなった以上、家を守る人員は厚くしておきたい。よって我々三人になりますが」
そこまで言って、麓丸は疑念の眼差しを送った。敵じゃないと判明したのはいいとして、だったらあの宝物庫での一件は本気だったということになる。胴体を真っ二つにされる危機など、金輪際味わってなるものか。機械というだけであれほど不具合が生じるなら、任務に支障をきたす前に質しておく必要があった。
「おまえ、携帯電話は持ってるのか?」
離れて行動する場合、通信手段は必携だ。まさか狼煙で伝えるわけもなく、忍であれど持たぬ理由はない。
「失敬だな。それくらいはあるさ」
その回答に麓丸は胸を撫で下ろしたが、花岡が取り出した物を見て、撫で上げずにはいられなかった。
まず形状に違和感があった。新型か? と騙されかけたほどだ。やけに小型なのである。手元のスマートフォンと比べてみてもひと回り小さい。しかし液晶部分はさらに小さく、文字にして三行しか入らない。昔のテレビ番組か何かであろうか、ほんのかすかな記憶が呼び覚まされた。
「ムーバじゃねーか!」
叫ぶ自分の方が現実味のない単語だった。
「携帯電話だろう?」
「いや、まあ、そうだが、おれも実物は初めて見た……」
「なんだ、きみも人のことは言えないじゃないか」
「やかましい。とにかくこれは旧型だから使えないんだ」
真剣な顔で「なるほど。通りで繋がらないわけだ」と言う花岡に戦慄を覚えた。
「では、こっちなら代わりになるか?」
今度のはすぐにおかしいとわかった。ボタンがやけに少ない上にタッチパネルがあるわけでもない。本体はさらに小さくなり、見るからにアナログだ。確かに電話もできるしメッセージも送れよう。ただ、そういうことじゃなかった。
「ポケベルじゃねーか!」
「これも駄目なのか? まったく現代社会はどうなってるんだ」
「おまえがどうなってる。なぜコギャル文化を継承した。九十年代の何がおまえをそうさせる」
必死の形相で詰め寄ったが、花岡は怯まない。
「かくなる上は」
「待て。これ以上何を出す気だ。置き去りにして悪かった。現代社会を代表して謝る。おれの負けだ。おれは持ってないんだ」
「なんだ、そうなのか。きみもやはり……」
「くそ、なんたる屈辱……」
敗北を認めざるを得なかった。しかしこの場合の敗北とはなんだろうか。自分は間違っていない。なぜ勝ち誇られなければならないのか、麓丸は理解に苦しんだ。
「ん、茶番終わった?」
朝のニュースを見ていた嵐蔵が言った。その言い草も致し方ない。
「おれとこいつが同じ組です。師匠を一人にするのは申し訳ないですが、戦力の偏りも避けられます」
「わしは構わんよ」
「ありがとうございます。では、おれたちが宇都宮二荒山神社に行き、師匠には」
「それはならん」
師は厳かに断じた。「日光へはおまえたちが行け」
「なぜですか。おそらく本命は日光です。敵に場所が割れていないとはいえ、またあの男が現れたら」
「仮に部外者であるわしが宝を見つけ、おまえたちに渡したところで、任務達成と言えるのか?」
「それは……」
「なに、案ずるな。あいつだけはわしが止めてやる。わしはとうに前線を退いた老骨だが、それは奴とて同じこと。次の世代の邪魔だけはさせんよ」
「師匠……」
二手に分かれれば、すぐに助けは来ない。それに昨日はまともに動けなかった。斑鳩だっている。しのげるか、と自問自答しても答えはない。だが麓丸は腹をくくった。
「わかりました」
「うむ。よくぞ言った」
三人は互いに頷きあった。
「ところで、あの男は何者なんです?」
「……名は真雁。宮の忍と争い続けた忍じゃよ。わしも戦場で刃を交えたこと数知れず。奴の雷遁は凄まじく、氷が砕かれた光景は今でも覚えておる。結局分かり合えないまま、互いに第一線を退いた。そのはずが、また顔を拝むことになろうとはな」
遠い寂寥を宿した瞳は、すぐに消えた。
「今ごろになってなぜ動きだしたかはわからんが、奴は強い。心してかかれ」
師の警告に足る覚悟が必要だった。
*
「で、なんでおまえがついてくる」
目的地への往路、麓丸は背後を漂う浮遊霊に問いかけた。
「いいじゃないっすか。家にいても大して役に立たんし、灌さんと姐さんがいれば荒事はなんとかなるっすよ」
「そりゃそうだが、ついてくる理由にはならんだろ」
「ぐふ。だってイケメンがいるんですもん」
返事こそすれ、小夜子の眼中に麓丸はいない。ときめきの混ざった熱視線は、横の美男子に注がれていた。
「見境のないやつめ。おまえが応援してるアイドルはどうなるんだ」
「それはそれっす。別腹っていうか、やっぱり現実にいると目の保養加減が違うんすよ。眼福眼福」
「おまえが体うんぬんの話をしていると、全部やる気の問題という気がしてくるよ」
やれやれと嘆き、隣りの色男を横目でうかがう。「だそうだが」
話を振られても、慣れているのか花岡はさしたる感想がなさそうだった。
「見た目なんて、見る人によって意見が異なるものだからね。人からどう思われようと、大して意味はないんじゃないかな」
「うわ、これだから天然物は。おまえそれ、モテるやつとそうでないやつが言ったんじゃ雲泥の差なんだからな。同じこと言ってもひがみにしか聞こえなくなる現象を知らんのか。しかも言うに事欠いて人それぞれとか、おまえが一番言っちゃいけない台詞だぞ」
指を差されて困惑顔の花岡にすらうっとりした小夜子は、次いで麓丸を見やった。
「そうそう。ろーるもさあ」
「もう前回ろっくんって呼んでから間が空きすぎて意味不明じゃねえか」
「むしろよく繋げられたっすね。まあろっくんも、顔立ちは意外とそんなに悪くないんすけどねー。どうも人相に難ありというか陰険というか名前に鹿の字が入ってるだけあって鹿沼的というか。やっぱり性格って顔に出るんすねえ。くわばらくわばら。これにておしまい人生いろいろご臨終っすわ」
傍若無人な物言いに、温厚極まる聖人君子と麓丸界隈で名高い麓丸も、大層ご立腹になられた。
「おまえみたいな勝手な女どもが始まってもいない男たちを終わらせるんだよ! もういい、尾行されてないか見張っとけ。地中に潜って、男前のうじ虫でも眺めながらな!」
「それだけはご勘弁をー」
そんなわけでかなり後方に小夜子を設置したため、当初の予定通り花岡と二人での行動となった。厳密に言えばもう一人ついてきているが、麓丸としては数えない所存だ。
先ほどから熟考していた花岡が悩ましげに言った。
「これまで深く考えたことはなかったが、結局、女性にかっこいいと言われた時、僕はどうすればいいのだろう?」
「爆発四散しろ」
日光二荒山神社は、かの日光東照宮、その西奥に鎮座している。関東平野北部に連なる「日光連山」の主峰「日光三山」にそれぞれ神をあてて祀っており、その神域には華厳滝やいろは坂などの景勝地も含まれる。正式名称は「二荒山神社」だが、宇都宮市の二荒山神社と区別するため、各々その地の名を冠す。「二荒山神社」の名を持つ神社は全国各地にあるが、前述の二社が特に古社として知られている。
霊峰として信仰される「日光三山」こと男体山、女峯山、太朗山は古くから神奈備、つまり神や御霊の宿る地とされてきた。生物、無機物を問わず、全てのものに霊魂が宿るというアニミズムの思想、自然への感謝と畏怖を体現した地であり、修験道としても崇敬されている。
道中、その他周辺地帯も含め、インターネットで手がかりを求めたが、めぼしい情報は得られていない。銅の鳥居から境内に入った二人は、パンフレット片手に色々と見て回ることにした。日曜日だけあって、早朝にもかかわらず、観光客もとい参拝客とおぼしき人がちらほら見受けられる。人が増えてはやりづらいので、暗号に近しいものに絞り、手早く巡る必要があった。
それにここは広い。日光二荒山神社の境内は、主に本社、中宮祠、奥宮の三つに分けられるが、後ろの「日光連山」も含まれるため、面積は三千四百ヘクタールにも及ぶのだ。東京ドーム七百個分すべてを見るとなれば、骨が折れるどころの話ではない。
ひとまず主な観光スポットになっている本社の探索を始めた。とは言っても、暗号が解けていない以上、それらしいところへ行ってみるしかない。目的は宝ということで、金運向上のご利益がある大国殿に入った。
中は赤と青の花を交互にあしらった装飾が目を引く、鮮やかな彩りだ。金ぴかの招き大国の絵はいかにも福を招きそうである。ところが、普通の大黒さまといえば打ち出の小槌を持っているのに、ここのは持っていない。代わりに小槌が置いてあるのだ。参拝客が自ら小槌を振ってお参りするのである。
さっそく麓丸たちも倣ってみたが、うんともすんともにっちもさっちもどうにもブルドッグであり、宝の「た」の字もなく、あるのは「だ」の字の張りついた笑顔だけだ。
仮に濁点が取れたとて意味はない。却下。
続いて向かったのは、大国殿の裏にある看板だった。「高天原」の表題と共に、春に行われる弥生祭の神事で、御前神楽を奏する場所という旨が記されている。ちょっとした柵はあるが、特に建造物があるわけではない。
ここは神の降りる地とされている。一帯の空間に神聖な気が満ちているのだ。敬虔な信徒であれば、あるいは肌で感じられるのかもしれない。
高天原というのは、天の神様がいる天界を指し、日本神話や祝詞などにもよく登場する。日本神話において世界は三つに分けられ、高天原こと天界、葦原中国こと地上界、そして死界こと常世国、それぞれに神がいると考えられている。二荒山神社のこの場所が天界というわけではないが、高天原の名を持つ、聖なる場所であることを示しているのだ。
麓丸が目をつけたのは「天」という部分だった。「天ナラズ空」という暗号にもある通り、天ではなく空、つまりこの高天原を天と考えるなら、空が何を意味するかも自ずと知れよう。それさえわかれば、あとは芋づる式である。
だが、手詰まりになるのは早かった。三つの分け方を基準に、たとえば「天」がそのまま天界を指すのなら、「空」は地上界か死界ということになる。巻物がここにある以上、前者の可能性は高いが、だとして、そんなことはわかっとるわい広すぎるわいヒントにならんわい、とのそしりは免れない。
では死界の場合だが、これも難しい。まず探しに行けない。第一、死者の世界に宝は残せない。そしてそんなところから「出ズル」ものが宝になりうるとは思えない。
もちろんこれらは、地上界を現世、死界を黄泉だと直接的に考えた場合だ。上下の概念がないなど、違う解釈もあるだろうし、死屍累々とした世界から美しい宝石が顕現する可能性が皆無なわけではない。しかし、可能性の話を言い出せばキリがない。さらに、重要なのは暗中模索の際にも「可能性がありそうな方向」は必ず存在するということだ。麓丸と花岡の感覚はこちらではないと告げていた。
男なら、見苦しくなれば即却下、である。
次に訪れたのは唐銅の灯篭だった。俗称を化灯篭という。夜になってこの灯篭に火を入れると、すぐに油が尽きて消えてしまう。周囲に幻覚を見せたり、はたまた灯篭そのものが様々に姿を変えたとも言われる。警備の武士が不審に思い、毎晩のように斬りつけたところ、不思議な現象はなくなり、普通の灯篭になったという。ゆえに今でも無数の刀傷が残っている。
この怪異譚の出自は不明だが、事象を鑑みるに、妖あるいは術の仕業とも考えられ、暗号を残した者が忍ならば、関係を疑う余地はある。「ニコウハニコウニシテ」を、「ニコウと近しく非なるもの」と解釈した場合、暗号と符合するものは数多くあれど、その中でも考慮に値する。なぜなら、妖と忍は縁深く、これが奉納された鎌倉時代ほど昔となれば、今より魑魅魍魎が跋扈していた可能性も高いからだ。
暗号の冒頭部分のため、ここを足がかりに謎が解けていくのかもしれない。ところが、古来より化け続ける宝の番人など想像してみても、肝心の妖気や術っ気がない。花岡も同意見だ。よくよく考えれば当然だった。
神社なんてものは、妖と真逆の性質を持っている。魔を祓う側に属するのだ。しかも国の重要文化財にまで登りつめる妖怪がいるわけもない。よしんばいたとして、そこまで神主も節穴ではなかろう。
いくらなんでもこじつけが過ぎた。却下。
どうにか宝に近づこうとして、強引な空想を力ずくで接着させるような真似もしたが、その後も空振りに終わった。おまけに途中で麓丸は感じたのだが、道行く人々のカップル率が高い気がする。あるいは、恋愛話に花を咲かせる乙女たちが散見される。
それもそのはずで、ここは良縁に関するものが多数祀られているのだ。人生の朋友を持つことが神意の朋友神社や、二本が寄り添って立つ夫婦杉。はたまた縁結びの笹や、杉楢一緒、すなわち好きなら一緒という洒落にかけたご神木まで佇んでいる。
神門の下にはハート型の風通し穴が開き、ハートの絵馬まで売っている始末。もはや縁結びの大安売りと言えよう。
とんでもないところに来てしまった。麓丸はそう思った。何が悲しくて、見知らぬ男女の良縁が結ばれる様を見せつけられなくてはいけないのか。男同士でいることを誤解されるおそれさえある。この感情をどこにぶつければいいのだ。嫉妬の業火で、片っ端からカップルどもを焼き尽くせばいいのだろうか。しかしこの場面、下手にいちゃもんなどつけようものなら、加害者も被害者も自分だけという、むなしい結末が待っている。無自覚に漏れた幸せは、他者を侵す毒にもなり得る。我々はただ街中を歩く時でさえ、毒を吸って生きている。それでも耐えねばならない。なんと世知辛いことか。ただでさえ宝を求めてぎらぎらしていた眼は、もはや血走っていた。
一周して、大国殿の前には、人の心を丸くするという丸石があった。却下ァ!
*
同神社、神苑の奥には二荒霊泉なる泉がある。ここの霊験あらたかな名水には「知恵がつく」、「目の病を治す」、「若返る」などの効能があり、この水によって作られた酒は、銘酒になるとも言われている。とりわけ「知恵がつく」効果は、現状の麓丸たちにとって、ぜひあやかりたいものだった。
親切にも無料で汲めるが、隣接するカフェにてこの霊水を使った品が提供されていると知った二人は、休息も兼ね、店内で今後の方針を相談することにした。
「もう本社は望み薄だな」
抹茶をぐいと飲んで麓丸が言った。「怪しいところはあらかた回っただろう」
「しかし見たまえ飛騨くん、中宮祠には宝物館があるみたいだぞ」
手もとの冊子を示して花岡が言うも、読み上げながら麓丸は気落ちしていった。
「備前長船、金銅装神輿、錫杖頭、八稜鏡……価値あるものなんだろうが、求める宝とは違う気がする。だいたい、展示されている中に、長年見つからなかった宝があるとも考えにくい」
花岡の気勢も削がれた。
「……もっともだな。やはりこれじゃ埒が明かない。暗号を解かないことには」
「闇雲に探すのは無理がある。かといって、あまりぐずぐずもしていられない。師匠に確認したが、あっちも手がかりなしだそうだ」
自然、ため息がでる。暗号とのにらめっこが始まった。頭をこねくり回し、脳内のワジから知恵を絞る。とは言え、閃きでどうにかなる問題ならいいが、特殊な知識を要するならお手上げだ。などと、脳が枯渇している時ほど余計なことを考えてしまう。考えても仕方ないのなら捨て置き、その分を他に回すべきである。もっともそれは、都合よく制御できればの話であって……。
妙案は湧いてこず、そうして堂々巡りに時間を空費していると、ふいに妙な音がした。
途切れとぎれで弱々しく、人声とは異なるが、確かに聞こえる。不揃いの拍で鳴るそれは「漏れ聞こえる」といった方が近く、森のざわめきに混じる梟の鳴き声、あるいは矢に射抜かれた四足動物の呼気を想起させた。
周囲にいる他の客や店員は、まるで反応すらしない。どうやら自分たちにしか聞こえていないらしい。妖の類であろうか。しかし最も危惧されるのは敵襲だ。鹿沼のやり口なら、市井の者を巻き込むおそれがある。二人は店を出て、慎重に音を追っていった。
深い杉の古木を分け入っていくと、ある木の根元に、一人の人物がもたれていた。性別がわからない。というのも、おじさん顔のおばさんなのか、それとも逆のケースなのかといった哀しい話ではなく、顔がすっぽり覆われていたからだ。作務衣を纏い、絡子を掛け、深編笠をかぶった僧侶。すなわち虚無僧がいたのである。
ぐったりと預けた首の下から挿入された尺八が、呼吸と共に微弱な音色を奏でる。押さえる指は動いているものの、よたよたとおぼつかず、とても演奏と呼べる代物ではない。息も絶え絶えとはこのことだ。
救助の体勢に入ろうとする花岡の横で、麓丸は軽く頭を下げた。
「お邪魔しました。おれたちはこれで」
「待ちたまえ!」
すかさず花岡が引き留めた。「それはあんまりだよ。見るからに重篤じゃないか」
急にしかつめらしい顔になって、麓丸は講釈を垂れはじめた。
「この多様化していく社会の中では、誰もが明日の我が身も知れん。常識は次々と塗り替わり、情報はめまぐるしく錯綜し、常態を見失うばかりだ。何物へも疑いをかけることのできる世界では、何が起きても不思議じゃない。逆も然りだ。よって、林に瀕死の虚無僧の一人や二人がいたところで、瑣末な出来事な上、わざわざ関わる理由もない」
「そうだろうか」と、真剣に思い悩む花岡を尻目に麓丸は去っていく。はたと気づき、花岡は前に回り込んだ。
「やはりいけないよ飛騨くん。放ってはいけない」
「安心しろ。救急車くらいは呼んでやる」
「だからといって……冷たすぎやしないか」
「何が言いたい」
麓丸はいらいらしてきたが、花岡はなおも言い募る。
「宮の忍は人の道を外れるべからず。それは任務中であったとしても変わらない。今ここで困っている人を置き去りにすることが、宮の忍としての振るまいと言えるのか? 正しい行いと言えるのか?」
むかっ腹が立ち、麓丸も息を巻いて反駁した。
「伝わっていないようだが、おれはこの状況を不自然だと思っている。だから関わるべきじゃない。即刻立ち去るべきだ。人気のない山中に横たわる虚無僧、脆弱なはずの音が離れた茶屋にまで届き、しかもおれたちにしか聞こえない。怪しいことだらけだ。本当に弱っていて、自ら助けを呼んだのならいい。だから救急車を呼ぶ。待っている間おれたちは何もできない。医療の心得があるならまだしも、第一さっき言ったが、ちんたらしている時間はない。だから去る。何か問題あるか? だいたい、宮の忍がどうだと持ち出してるが、結局はおまえが気に入らないだけだろ。自分の正しさを人に押しつけるな。狭い正しさを鵜呑みにして、本分を忘れるのが宮の忍だというのなら、そんな間抜けはおまえだけで結構だ!」
「なにを!」
今にも取っ組み合いが始まらんばかりに二人がにらみ合っていると、高らかな音が響いた。気がつけば虚無僧がまっすぐに立って、尺八を構えている。
深編笠の向こうから、くぐもった声がした。
「神ノ宝ヲ脅カス不逞ノ輩……排除スル!」
男は尺八を地面に突き刺すと、壊れかけの通信機器のような、ひどい雑音混じりの声で念仏を唱えはじめた。後方で知り合いの浮遊霊らしき断末魔の叫びが聞こえた気がしたが、おそらく気のせいであろう。目の前の事態の方がはるかに切迫していた。
尺八の穴という穴から、無数の黒い物体が出てきた。木漏れ日に照らされた個体からは、橙の縞模様が見てとれる。さらには耳をつんざく不快な音が幾重にも広がり、思わずたじろいだ。根源的な恐怖が呼び覚まされるその羽音が、自分たちに向けられていると知った時、二人は林の中へ駆け出していた。
蜂の大群が飛来する。
*
全速力で逃げた。たったの一突きすら受けることは許されない。致命の一撃を持った兵隊が、陣をなして迫りくるのだ。衣服の下で冷たい汗が風を切った。力まかせに胸を打つ早鐘の重さが、恐れの多寡を告げていた。
木陰から木陰に身を移そうと、急な斜面を下ろうと、的確に追尾してくる。方向を変えるたびに波打つ影は、一つの生物のようだった。いずれ体力の尽きるこちらとは違い、地の果てまでも追って命令を遂行しかねない執念を感じた。
人のいない山道に出た。しばらくはまっすぐな道だ。そして未だ、愚直なまでの猛追は続く。麓丸はこの機を待っていた。同時に癪でもあるが、肘で花岡を押し、手裏剣を見せると後ろへ投げた。その瞬間に察した花岡は、これも癪に思いながら印を結んだ。連投された手裏剣を避けるため、蜂の陣形が割れる。だが、攻撃は拡大した。油に浸した木の葉を添付させた手裏剣は、炎の輪となり、さらには渦となって大群を焼き払ったのだった。
一転攻勢。すかさず二人は引き返した。第二陣、三陣と現れるも同じ手で焼いていく。手裏剣の残弾がなくなってからは、クナイを横回転させて代用した。かつ花岡が術を解く前に燃え広がらないよう、射出角度も計算づく。地味ながら麓丸の投擲技術は卓越しているのだ。
先ほどの場所では、虚無僧が腕組みをして立っていた。打つ手がなくなったかそれとも。近距離で蜂を召喚されると厄介であり、考える暇はない。ぐっと地を蹴った花岡は、高速で抜刀した。
しかし、その刃は男の肉体に届かなかった。代わりに深編笠が落ち、相貌が露わになる。
その眼には、無機質な光沢があった。眼は合うが視線は合わない。どこを見ているかわからぬ茶褐色の瞳の奥には、六角の網が張られていた。強靭な力で噛み砕くのだろう、横に裂けた顎は、いかにも鋭く尖っている。そして不愉快そうに、左右の触角が震えていた。
形状そのものは図鑑で見た通りでも、人の大きさともなれば、まるで異質に感じる。眼前で毛羽立つ蜂の顔は、二人を怯ませるのに充分な衝撃を与えた。
さらには、先ほど尺八を押さえていた指がなくなっていた。手の甲も、手のひらも、手首も指紋もない。あるのは刺す器官だけ。すなわち腕全体が鋭利な針と化していた。花岡の刀を止めたのはこれだ。作務衣の下がどうなっているか、あまり考えたくない。
両腕の突きが花岡を襲った。すさまじい速さであり、しかも蜂の特性そのままなら、かすり傷でも致命傷になりうる劇毒がある以上、回避に専念するしかない。わずかでも集中を切らせば終わりだ。居合いは抜刀の刹那にこそ真価を発揮するが、刀を鞘に収める余裕すらない。基本的な剣術の心得はあるものの、劣勢を覆すほどではなかった。
クナイを持って麓丸が加勢する。だが、これもさほど効果はなかった。相手が徒手空拳ならまだしも、射程で大幅に負けているため、攻撃を分散させるくらいが関の山だ。複眼による視野の広さで、人間相手なら有効な死角からの攻撃も防がれる。近接戦闘においては、かなり分が悪いといえた。
しかし、一つだけ勝ち筋があった。火遁の術である。ふよふよと燃やしがいのある触角が、先ほどから揺れているのだ。ただ、印を結ぶには、どうしたって二秒はかかる。時間を稼ぐ必要があった。かといって花岡は麓丸に頼みたくない。麓丸も花岡を頼りたくない。わざわざ説明しなくても、意地を張っている場合じゃないことはわかっている。
でも、なんかなあ。という、如何ともしがたい気持ちを拭いきれぬ二人がとった行動は、いたって単純だった。
黙ってやることである。
花岡が一歩下がり、麓丸が割り込む。横から攻撃していた時と違い、真正面に立つと不気味さが倍増した。さらに己のみに向けられる二本の針たるや、溢れんばかりの殺意を持っており、急所ばかり狙ってくる。わずかな時間といえど、苦労がわかった。
クナイを弾かれた麓丸は、隠し剣わさび醤油を射出した。さすがに想定外と見え、まぶたのない巨大な眼は避けきれない。そして、動きのにぶった蜂人間めがけ、術が発動する。ほとばしる炎に激しくもがきながらも自分たちを探し、いつまでも針を振り回す姿には、怨念すら感じた。
やがて場には、傷ついた杉の木が数本と、身をひくつかせて横たわる蜂人間がいた。焦土と化した頭部は、原型は変わっていないものの、火炎の残滓たる灰が惨状を物語っていた。もう動けないだろう。殺しはご法度。たとえ相手が人間じゃなくとも変わらない。
大きく息を吐いた二人は、やや呆然と見下ろしていたが、どちらともなく目が合うと、顔をそらした。敵を倒してもそれはそれ。水に流す流さないという話でもない。
ただ、ずっとそうしているわけにもいかず、花岡は虚無僧の衣服をさぐった。宝の番人なら、何か手がかりがあると思ったのだ。
その時、かすかに体が動くのを麓丸は見た。
気付いた時には飛び出していた。
天地が横転し、それから立て直した花岡の視界に、草履を突き破った蜂の針と、肩口を押さえて呻く麓丸の姿が映った。
「飛騨くん!」
すぐさま駆け寄ったが、抱き起こしたのも束の間、ふっと麓丸から力が抜けた。呼びかけても返事はなく、その額からは汗がにじんでいる。
歯を噛み締め、柄に手をかける。一刻も早く敵を倒し、治療をせねば。そう思い、猛然と立ち上がった花岡に、眼前の光景は絶望を告げた。
虚無僧の大群が、こちらを見ていた。