伍
搬送路を抜けると花岡がいた。
「あ」
「ん?」
すぐさま扉を閉めた。そういえばしばらく位置を確認していなかったと言えど、いきなり出くわすとは思わず、わちゃわちゃと狼狽したが、ひとまず家臣たちに待機といくつかの指示を出し、何食わぬ顔で麓丸は扉を開けた。
「今、誰かいたか?」
「いいや、おれだけだ。応援に来たぞ」
「そんな話は聞いていないが」
「今朝決まったんだ。やはり若衆一人では心もとないということでな、支部長から直に依頼された」
「支部長が? ふむ……そうか」
でまかせを並べているだけなのでひやひやしたが、花岡は納得したようだった。
「君は、飛騨くんだな」
「おれを知ってるのか?」
「それはそうだろう。僕たちは同期なんだから」
実は、花岡と会話するのはこれが初めてだった。というか、花岡はあまり言葉を発しないものだと思っていたため、存在を知られていることに戸惑った。
なぜかといえば、協会の模擬任務中、花岡は一切しゃべらないからである。黙って敵を倒し、黙って任務を遂行する。きりっとした横顔で、何もかもをそつなく進めていく。皆が修行に励む中、終わればさっさと帰っていく。話す余地がない。そのくせ好男子なので、冷たいのがかえって人気らしく、数少ないくノ一は軒並み花岡に籠絡された。本人はどこ吹く風だがそれもたまらないらしい。名門の出だから家柄も申し分ない。ふざけた話である。私怨の一つも抱くというものだ。
しかしちょうどいい機会だと思い、また、自分に質問が及ぶよりはとも考え、いろいろと聞いてみることにした。
「おまえはなんで協会にいる時はしゃべらないんだ?」
「当然だ。初日に支部長が言っていたろう。訓練とはいえ任務中は私語厳禁だと」
「……じゃあなんで今はしゃべってる」
「これも支部長のお言葉だが、敵地では無闇に音を立てるべからず。ただし臨機応変に仲間と意思疎通を図るべし、と」
「…………休みの日は何してる」
「鍛錬と座学」
「………………その鍛錬に協会の施設を利用したことがないのはなぜだ」
「不測の事態に陥った際、己の身一つで切り抜けられるように、なるべく外的要素を含まず鍛えたい」
「生真面目かこらああっ!」
全力の叫びだった。にも関わらず叫ばれた意味がつかめないようで、花岡は首をかしげた。
「だめなのか?」
「だめとかではないが……」
一抹の不安がよぎった。それは、抱き続けてきた怨恨の根底を揺るがすものだった。
いけすかないと思っていたこと。周りの者に関心がない風だったこと。努力が見えないこと。それらすべての原因が、ただ融通のきかない四角四面糞野郎だとすれば、説明がつく。それに生まれは本人の意志では決められない。となれば残るは、おそらく無自覚の好男子だけということになる。腹立たしいには違いないが、これが果たして誅を下すほどの怨みなのだろうか。
しかし、そこまで考えたからこそ、麓丸は花岡を否定しなければならなかった。
なにせ、花岡は裏切り者だ。その言葉が真実である保証などない。むしろ真実なら、余計に許しがたいというものだ。危ないところだった。雨が降りしきる中、不良が捨て猫に傘を差しだすようなもので、元々マイナスだったものにちょっとプラス査定が入っただけで断然良く見えてしまうあれだ。調子に乗って「おまえも俺と同じだな」などと安っぽい感傷に浸ってお涙頂戴するあれだ。同じなわけあるか。油断も隙もありゃしない。そうは問屋が下ろさない。下ろすものなどありはせん。誓約不履行経済制裁。鎖国だ鎖国だこんなもん!
麓丸は微笑んだ。
「そうだなあ、うん。真面目なのは良いことだ。さあ、巻物を取りに行こうじゃないかあ」
「あ、ああ」
すこし不気味に思ったが、背を押され、花岡は前を歩きだした。
*
花岡の案内で着いたのは鋼鉄の扉だった。ご丁寧に「宝物庫」と刻まれてある。
「この先にあるみたいなんだが、どうにも進めず困っていたところさ。他に道もないようだし」
麓丸は扉を調べた。鍵穴も取っ手もなく、縦にも横にも前後にも開かない。かといって、暗証番号を入力するパネルや網膜認証の装置なども見当たらない。
「となれば一つだ」
扉の左右には陳氏を象った石像があった。そのうち左の像をよくよく観察すれば、指の間に挟まれた葉巻にわずかな段がある。麓丸が押してやると、すみやかに扉が開いた。
「すごいな。なぜわかるんだ」
「知り合いに金持ちがいてな。こういう悪趣味な仕掛けには慣れてる」
実感のこもったため息を吐きながら半歩踏み入った途端、前方から飛来するものがあった。そう思った次の瞬間には、その物体が斬られている。真っ二つになって床に落ちたのは矢で、斬ったのは花岡だった。腰に下げた脇差しによる一閃。花岡流剣術の真髄たる居合いだ。
「見ろ。あそこからだ」
細い通路の奥に、射出口らしき穴が開いていた。その横にも扉がある。
「どうする? 僕が前に立って、牛歩戦術も取れなくはないが」
「いや、迂闊に踏み込むのはまずい」
麓丸は矢の半分を拾い、投げ込んだ。すると前方にあった穴だけではなく、壁や天井、床からまでも無数の矢が飛び出し、あっという間に凄惨な光景が広がった。
「どうやら奥に行くほど矢が増えるようだな」
「しかしこれでは陳氏も通れない」
「そうだ。それに所詮は金持ちの道楽趣味に過ぎないから、自身を危険にさらすような仕掛けにはするまい。第一、テレビの取材も来ていたほどだ」
あらためて、今度は右の像を調べる。見た目は左のものと変わりないが、角度を変えて覗き込むと、葉巻に段がない代わり、先端に焦げた跡があった。
「ここを燃やしてくれ。まあ手頃なこれでいいだろう」
麓丸が矢を持って葉巻にかざし、花岡が印を結ぶと矢が燃えた。火種さえあれば自在に発火できる、花岡が得意な火遁の術だった。
葉巻を炙り、再度矢を投げ入れると、今度は音沙汰がなかった。
「こういうことだな。では進むか」
次の部屋は広大だった。中央にUFOキャッチャーさながらどでかいアームがつり下がっており、入口付近に操作盤があるが、掴めそうなものは何もない。それどころか奥に扉がある以外は、白い床が続くのみだった。
「用心しろ。どうせまたくだらん仕掛けがあるはずだ」
じりじりと中央までたどり着き、意味深なアームを越えたところで、案の定と言うべきか床が抜け落ちた。落下の最中、とっさに鉤縄を放つ。麓丸はアームへ引っかけ、なんとか助かった。一方花岡も端を歩いていたため、壁を蹴って入口まで戻っていた。
麓丸は下を見てぞっとした。巨大なギロチンが振り子運動をしながら風を裂き、中央では、のこぎり状の刃がプロペラのように回転している。おまけに底は溶岩地帯だ。刃の隙間から、プロペラの支柱にスイッチらしきものも見え、嘆息した。
「おい、聞こえるか。そこに操作盤があるだろう。このアームが動かせるはずだ。おれの指示通り操作してくれ。角度が悪くてここからじゃ手裏剣が当たらん」
「わかった!」
返事の勢いそのままに、花岡はボタンを押した。アームが急旋回し、「おばっ!」と変な声を出しながら上によじ登った麓丸のすぐそばで、アームの先がギロチンに削られ消えた。
「戻せ! 戻せ! 阿保! 加減を知らんのか!」
「すまない!」
謝る勢いそのままに、花岡はボタンを押した。アームが急降下し、回転する刃と刃の間に向かっていった。
「待!」
たなかった。アームの上にいる麓丸のみを目掛け、的確に刃が迫りくる。高速プロペラ跳び耐久レースが始まった。
「おまっ! はやっ! 上げっ!」
「なんだって?」
「アホンダラ!」
その後も、幾度となく飛騨家長男輪切り未遂事件が発生し、いい加減うんざりした。「そっと優しく卵を持つ手で慈愛を込めてボタンを押せ」と指示を出し、命からがら戻ってきた麓丸は、幽鬼のようにゆらりと花岡に詰め寄り、肩をつかんだ。
「おまえ、UFOキャッチャーをやったことがあるか……?」
「ない。というかそれはなんだ?」
「ゲームセンターに行ったことがあるか……?」
「ない。名前は知ってる」
「こういうの苦手か……?」
「機械は苦手だ」
「救いようがねえ!」
しかし花岡は申し訳なさそうに「すまない」と言うばかりだ。正体がばれた事を感づき、道化を装って自分を亡き者にしようとしたという疑惑があったが、嘘をついているようにも見えない。だからといって警戒を緩めてやる気にもなれず、如何ともしがたい。考えだすとキリがなく、かえって術中にはまった気さえする。心の中で「裏切り者」と繰り返し唱えた。
「もういい、交代しろ」
麓丸が操作すると、あっさりスイッチが押され、扉が開いた。そして花岡が戻るのを待ち、陳氏の宝物庫係の苦労をぼんやり想像している時、ふと閃いた。
麓丸は花岡に見られぬよう、こっそり操作盤に印をつけた。
*
今日ほど金持ちの道楽に辟易した日もなかった。鏡張りの通路には酸の水槽が口を開け、騎士の鎧は生ゴミを吐き、挙句、挟まんとしてアイアンメイデンが追いかけてくる始末。宝物庫の定義を問い詰めてやりたかった。
何度目かの罠を超えてから、花岡が言った。
「それにしても、君は機転が利くな。僕だけではこうはいかない」
「おまえの頭が固いだけだ」
「そうなんだろうか。あまり自覚はないのだが」
「いいや、ごり押しが過ぎるな。さっきだって矢を強行突破しようとしただろ。これだから半端に力のある奴は。地力に頼って考えようとしない。おれから言わせれば宝の持ち腐れも甚だしいね」
「君には力がないと?」
「少なくとも周りはそう思ってるみたいだな。奴らにとっちゃ、術が使えない忍は不具者なんだとさ」
「ひどい偏見だ。抗議しよう」
勢い込んで花岡は言ったが、麓丸は怒気をはらんだ声で言い返した。
「余計な真似をするな。口で言って改めるほど物分かりのいい連中なら、最初から苦労してないんだ。それが並大抵じゃないことは、嫌というほど身に染みてる。いいか、言葉だけで人の心を変えようなんざ、おとぎ話だ。甘っちょろい綺麗事なんだよ」
打ちのめされた様子で横を向いた花岡は、「そうだな」と呟いたきり、口をつぐんだ。
沈黙が流れる。知ったことか、と麓丸は思った。実績によって黙らせなければどうにもならないという考えに変わりはない。人の痛みがわからない奴は同じだけの痛みを味わえばいい。実感を伴って知らしめることでしか、認識を覆すことなどできない。
協会に属していながら協会に居場所がない。それでも、宮の忍だという自負がある。腐っても同門なのは間違いないのだ。不利益をこうむるという理由だけで裏切りが許せないわけではなかった。
花岡に看破されないよう、平常通りの態度に努めてきたが、思わず感情的になってしまった自分に麓丸が苛立っていると、それまで何事かを思案していた花岡が声を掛けた。
「この任務、必ず成功させよう。僕も及ばずながら尽力する」
決然とした表情だった。真意は測りかねたが、麓丸は答えた。
「言われるまでもない。よく働け」
「わかった」
花岡はまっすぐな目をして頷いた。
最奥に保管庫があった。ショーケースの中には貴金属や高そうな腕時計があるが、好事家というだけあって、古今東西のきな臭いものが多数見受けられる。白鯨を模した茶釜や、ごわごわした毛に覆われたトロンボーンなど、流行りすたりがあるのか、蒐集に脈絡がない。中には河童のミイラなんてものも展示されていたが、家に実物がいる麓丸には一発で偽物とわかる。
目指す巻物は、畳の一角にてあっさり見つかった。古木の棚の上に、無造作にも置いてある。花岡が写真を取り出して確認した。
「これだ」
「よし、ずらかるぞ」
来た道を戻り、ある部屋の途中で花岡を呼び止めた。
「ちょっと確認したいことがある。巻物を見せてくれ」
特にためらいもなく渡す花岡に、難しげな顔で受け取った瞬間、麓丸は跳躍と同時に合図を出した。床がなくなり、麓丸を乗せたアームは上昇する。動揺しながらも投げた花岡の鉤縄は、突如として現れた女の首にはたき落とされた。
落下しながら花岡が叫ぶ。
「飛騨くん、なぜだ!」
「このスパイ風情が。おまえが鹿沼に与しているのはわかってるぞ」
「違う! 僕は」
穴が閉じ、声が途切れた。
「はっ、いい気味だ」
よこしまに笑ったが、ふいにその笑みは消えた。麓丸はじっと白い床を見つめている。
「坊ちゃん、どうかされましたか」
操作盤の前から灌漑が呼びかけた。
「いや」
顔を上げた。「なんでもない」
*
屋敷の外へ出ると、すっかり日が暮れていた。雲間から月が覗き、暗い木立の影を伸ばしている。このまま闇に乗じて下山したいところだったが、待ち伏せる者がいた。
「待て」
例の水遁使いだった。後ろにはひどい顔をした百舌と矮鶏もおり、憎々しげに麓丸を睨んでいる。
「中にいた男はどうした」
「ふん、お仲間なら幽閉してやった」
「ほう……それはそれは」
男は口を歪めた。「好都合というものよ」
「なに?」
「あやつの処分も我らの任の一つ。宮の忍としての一面を持つ輩を、いつまでも泳がせては危険なのでな」
「貴様ら……」
麓丸は怒りをにじませたが、三人は侮蔑の目で見下ろしてくる。
「情にもろい奴らよ。だが動けぬのなら処分は後回しでよかろう。巻物を持っているな、出せ」
「何を言っているかわからんな」
「くく……シラを切れると思うか」
男が顎をしゃくると、矮鶏が布を広げてみせた。見覚えがある。既視感の正体に気づいた時、麓丸は叫んでいた。
「梅之助をどうした!」
それは弟がいつも使っているエプロンだった。
「まだどうもしていない。まだな」
激昂する麓丸を嬲るようにして、男は続けた。
「先ほどそこの河童が名を言っていたが、貴様、飛騨麓丸だろう」
「……だったらなんだ」
「やはりな、飛騨家の長男といえば術が使えぬ忍。鹿沼でも音に聞く落伍者ではないか」
顔を合わせ、三人はせせら笑う。握りしめる麓丸のこぶしからは血が流れた。
「落ち着け。我らとて鬼ではない」
百舌が言い、横道を指した。
「一時間だ。この道の先で一時間だけ待つ。巻物を持ってくれば弟は返してやろう」
矮鶏も言う。「貴様らの手の内は知れている。二度と遅れは取らぬ。無駄に抗うな」
「妙な真似をすれば人質としての価値がなくなる。そうなれば……わかっているな」
不吉な予兆を残し、三人は闇に溶けた。
立ちつくす主人を心配そうに、家臣たちもまたどうすべきか迷っていると、うつむいたまま麓丸が言った。
「おまえら、全員で山を降りろ。母上の無事を確認するんだ」
「しかし、それでは坊ちゃんが一人に」
「いいから行け!」
案ずる気持ちを振り払い、命に従って家臣らは駆けていった。虫のさざめきすらない夜の闇に、麓丸だけが残された。
かつてないほど焦燥が胸を焼いた。訓練で馬鹿にされて帰ってきても、温かい食事があった。いつも変わらず支えてくれた。それらが失われていいはずがない。落ち着かせようとするのだが、どうしても酷い目に遭わされる姿が脳裏をよぎる。巻物を渡したとして、無事で済むとは限らない。かといって一人では勝算もない。これほど力のない自分を呪ったことはなかった。
だが、選択肢が一つに集約されていく最中、麓丸は母の言葉を思い出した。
どんな時も自分の心を見失わないように――。
そうだ、今すべきは現状を憂うことではない。どう打破するかだ。梅之助は助ける。巻物も渡さない。どんな手段でもいい。どうやって成し遂げるかを考えろ。
そして麓丸は、見つけだした可能性のために走った。屋敷に戻り宝物庫へ。操作盤を叩いて床を開けた。
尋常ではない気配をまとい、その手は刀の柄に掛けられている。花岡の衣服はあちこちが裂けていた。
ところが彼が問いただす前に、麓丸は跪き、床に手をついた。さらには頭を下げ、懇願した。
「頼む! 弟を助けてくれ!」
渾身の土下座に、花岡は手を緩めた。
「どういうことだ?」
麓丸が事情を説明している間、花岡は黙って聞いていた。真意を確かめるつもりだったのだが、次第にその必要もなくなっていった。こんなに必死な姿は見たことがない。そう思った。
「状況は把握した。もう少し整理したい」
「言ってくれ」
「先ほど君は僕を、鹿沼に与していると言ったな。あれはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ。おれは昨晩、鹿沼の支部におまえが行ったのを知っている。巻物の話をしていたのでスパイと断定した」
「見られていたとは……であれば、加勢に来たというのも嘘か?」
「ああ。ここへ閉じこめて、後で引き渡すつもりだった」
「つまり本当に言葉通りの意味なのか。しかしそれでは君は、鹿沼の者に助けを求めているということになるが」
「そうだ。でもこの際どうだっていい。弟の命には代えられん」
「君は……」
警戒を解いた花岡は、膝をついて麓丸の肩に手を置いた。
「立ってくれ。僕も話すことがある」
花岡は話しはじめた。
「まず誤解がある。僕は沼の忍じゃない」
「何。昨日のあれはどう説明する」
「支部長の指示さ。ある忍をあぶり出すために、情報を流せとのお達しでね」
「ある忍?」
「僕が情報を渡していた相手だよ。かつて宮の忍と激しく争った人物で、すでに引退したはずが、ここ最近また姿を現すようになったらしい。筆談のみで声は聞いていないが、向かい合っているだけで僕は身がすくんだ。放っておけば災いをもたらしかねないため、動向が知りたいそうだ」
「追跡はできないのか?」
「無理だ。術によるものと思うが、まるで空間を転移するように神出鬼没なのさ」
「なるほど……それはわかった。だがおまえが宮の忍という証明はできるのか?」
「これを見てくれ」
花岡が出したのは今回の指令書だった。巻物の入手に加え、鹿沼へ情報を流布すること、さらに支部長の朱印が押されている。
「つまり二重スパイか……」
じくじくと嫌な感じがした。これまでの怨みが行き場を失い、恥と共に返ってくる。認めたくない感情は、事実の前にただ見苦しい淀みとなってまとわりついた。理解はできても納得は遅れる。だが、もたげる思念の一切は唾棄すべき矜持であり、醜い愚図の心だ。誇りこそが枷なのだった。
「おれの早とちりだったようだ」
「いや、これは勘違いしてもおかしくない。君の判断は、宮の忍としては間違っていなかったはずだ」
たとえそうだとしても意味などなかったが、いつまでも私情にかまけていられない。
「付け加えると、巻物を入手した後は宝の捜索を行ってよいそうだ」
「見つけてこいということだな。相変わらず厳しいお人だ。後進に与えられる試練はいつも険しい」
「そうでなくてはいけないのだろう。しかし君も思い切った交渉をしたな。鹿沼の者が協力するとでも?」
「おっと、これを伝えてなかったな。あいつらはおまえも処分すると言っていた」
「なんだって!」
「やはり知らなかったか。だからこそ共闘する理由になると判断したんだ。実際は敵じゃなかったわけだが」
「その忍はどんな連中なんだ」
花岡はただならぬ様子だった。それは命を狙われているという事実からくるものと麓丸は思っていたが、違っていた。
「どいつも人相は悪い。それぞれ毒霧、木遁、水遁使いだ」
「その水遁使いはどうだった? 足が変じゃなかったか」
「そういえば俊敏ではないというか、歩き方が変わっていたな。こう、引きずるに近い感じだった」
「そうか……すまない飛騨くん、もう一つ話がある」
ややためらってから、花岡は続けた。
「水遁使い、それは僕の兄だ」
「なんだと」
「今は斑鳩と名乗っている。情けない話だが、わけあって鹿沼に寝返ったんだ。僕がスパイを引き受けたのも、兄の行方を探すためさ。けれどずっと見つからなかったのが、まさか刺客として現れるとは……」
悔いるように花岡は言う。ゆえに麓丸は確かめる必要があった。
「戦えるのか?」
努めて当然とばかりに花岡は答える。
「もちろんさ。身内の恥は身内が摘み取らなくてはね」
それ以上は聞かなかった。
ひとまず屋敷を出た。
「さて、とはいえ勝つ見込みはあるのかい。数の上でも不利なわけだが」
花岡の問いに、麓丸は大いなるため息を吐いた。
「この手だけは絶対使いたくなかったんだが……梅之助のためだ」
意を決した麓丸は、それでも半ば嫌そうに、周囲へ呼びかけた。
「おい、いるんだろ。出てこい」
やがて屋敷の窓辺から、ふわりと降り立つ者がいた。麓丸にとっては飽きるほど見た、幼なじみの姿がそこにはあった。
「あら、ロク。奇遇ね」
「こんな山奥で奇遇もクソもあるか。どうせ全部見てたんだろ。手伝え」
「そうねえ、ロクだけがピンチなら全力で断るのだけれど」
「全力である必要性を教えろ」
「タダ飯をかっ喰らってる身としては仕方ないわね」
「かっ喰らってるとか言うな。まあいい、手伝ってくれるんだな」
「飛騨くん、こちらは?」
花岡が訊ねると、麓丸をさえぎって唯良乃が答えた。
「どうも初めまして。この人の婚約者で、伊豪唯良乃と申します()飛騨麓丸はわたしを愛しています」
「括弧内がはみ出してる上に虚言とはこれ如何に。おい、こいつはただの幼なじみだから気にしなくていい。それより作戦を話す。時間がないんだ」
「照れちゃって」
「照れてないし婚約者でもない」
「こうは考えられないかしら。本当は夫の危機に駆けつけた愛すべき妻を熱い抱擁で迎えたい。けれど今は花岡さんの手前、素直になれない。嗚呼、これが思春期の魔物か。悔しいぜ、ちくしょうめい」
「そうは考えられない」
「惜しいわねえ」
「惜しくもねえ」
「なつかしいわね。こうやって夫婦漫才していると、グランド花月の舞台に立ったあの頃を思い出すわ」
「思い出を捏造するな」
「ずいぶんと冷たい子に育ったのね。ちょっとアンタ、何様?」
「だーから時間ないんだって!」
くすくすと唯良乃は笑った。
*
霞の中は冷涼としていた。時おり雫が垂れ、眼下の黒い森へ落ちる。流れる空には無作為に星が散りばめられ、半月は鈍く輝く。いつもこんな眺めなのだろうか、と馳せる思いもそこそこに、到着までを静かに成りすます。
麓丸たちは雲に隠れていた。不自然にならぬよう、ほどほどの速度で上空を飛行し、月光からも身を隠す。そんな芸当を可能にしたのは、言わずもがな唯良乃の力だ。
まず雲を集めて隠れみのを作る。体にまとわせたら上昇、そして飛行。それを人数分。覗き穴まであるので、外の様子も窺えるというわけだ。風を操る術である風遁は使い手が希少で、繊細な操作を要するため扱いも困難なのだが、唯良乃は軽々とやってのけた。
術というのは、使うだけで気力を消費する。集中力を研ぎ澄ますため、神経がすり減り、規模が大きいものや複雑なものほど脳が疲弊する。頭痛やめまいを引き起こし、ひどければ失神したまま数日は動けない。制御が確かなら負荷は少なくて済むが、代償のある力ゆえ、若衆筆頭と目されている花岡でさえ、実戦に耐えうる威力の術となれば、連発はできないほどだ。
ところが唯良乃は違う。風の行き先を指でなぞるように、自在に使いこなしていた。常に変化する気流を操るのは至難の業で、さらに高所を飛ぶという危険性にもまったく臆していない。むしろ総じて汎用性が高く、日々のストーキングにこれほど役立つものを、使いこなさない理由の方がないのだった。
指定された山道の突き当たり、その直上にたどり着いた。刻限まではあと五分もない。唯良乃自前の暗視スコープにより、池を背後に三人と一人がいるのを確認できた。梅之助も連れられているらしい。水遁は水がなければ使えないため、なんらかの水場があるのは予想できている。幸いにして小ぶりな溜め池のようなので、川の水量に並ぶべくもない。手はず通り作戦を開始した。
実は麓丸の五指のうち、一本だけ調味料入れになるのを免れた指がある。ならば普通の指なのかといえばそんなことはなく、出るのは出る。かの日の献立は遠い記憶の彼方だが、おそらく揚げ物でもこしらえるつもりだったのだろう。調理の中核すら担うその液体は、呪いがかかった時、しっかりと視界に入っていた。
唯良乃は風を使い、雲の中に仕込んでいた材木を並べはじめた。それぞれに、麓丸の小指よりもたらされた黄色い液体が染み込ませてある。気取られぬよう、音もなく組み立てられたのは底のない箱だ。唯良乃はそれを無慈悲にも急降下させた。そして同時に麓丸らを追わせる。さらに花岡が印を結び、材木の内側より一気に温度を高めると、爆発的に発火した。くしくもサラダ油は火遁との親和性に優れ、突如として現れた炎の檻は敵を閉じ込めることに成功したのだった。
麓丸がこの策を取ったのにはいくつか理由がある。まず、これまでの戦いから敵は距離を置いた戦法が得意ということ。ゆえに近距離戦闘なら充分に勝ちの目があること。檻は毒霧を封じ、炎は木遁を封じられること。主にその三つだった。
毒霧については、鹿沼の性質からして、味方もろとも散布するおそれはあるが、先ほど自らの毒で苦しんだ百舌は、密閉空間での使用をためらうはず。
よって最も懸念されるのは水遁による鎮火だが、これも閉じ込められていては外部から大量の水でどうこうはやりにくい。なおかつ火遁によって火勢を強め抵抗することが可能であり、風による援護付きとなれば、溜め池の水量程度ではおそらく競り勝てる。これが先ほどの川であればこちらがジリ貧だったが、不安定な橋の近くで戦うのは敵からしても好ましくないと、麓丸は踏んでいたのだ。
この話を聞いて、花岡はまず確認した。
「そんなことをして君の弟は大丈夫か?」
「大丈夫だ。あいつは根性がある」
かくして策は実行された。
余談ではあるが、材木は陳氏の屋敷地下にあった屋形船を解体して調達した。文句を言われた場合、麓丸は協会にツケる気でいる。敵を倒すための必要経費だと主張する予定だ。
山林に燃え広がらないよう風で抑えながら、降下させた麓丸たちが檻の天蓋に焼かれる寸前、唯良乃は一つの材木をずらした。相手がどういう陣形なのかはわからないが、時間を与えればそれだけ不利になる。二人は勢いよく突入した。
高速で落ちる視界の中、とさか頭が目に飛びこんだ。真下にいたのは矮鶏だ。ほぼ同時、いくつかの視線が突き刺さる。仰いだ矮鶏の上段蹴りは花岡を掠め、麓丸の手刀が敵の首を捉える。矮鶏がくずおれ、居合いによって吹き矢を弾いて距離を詰めた花岡は百舌を打ち倒す。瞬く間の出来事だった。
残る対角線上の斑鳩は、梅之助にクナイを突きつけながら、歪んだ憎悪の形相をしている。それは花岡に向けられていた。じりじりと麓丸らは近づく。熱気が渦巻き、橙の光炎が檻内をゆらぐ。木の焼ける音がする。梅之助はうつろな目をしていた。麓丸の額に汗がにじんだ。
クナイを持っている以上、印は結べない。追い詰められているはずなのに、斑鳩はかえって憎しみを増幅させていくようだ。膠着状態ではあるが、何をしでかすかわからない。もはや人質の安全など眼中になさそうだ。よほど花岡にやられたくないらしく、自身が滅びようとも皆を道連れにしかねない雰囲気がある。麓丸は甘さを自覚した。自爆攻撃だけは阻止しなければならない。
橋の上での戦闘から、相手は印を結ぶのが速い。とは言え、一気に踏み込む高速の居合いならば、発動より前に仕留められる。その認識は共通にせよ、花岡の中で緊張以外の感情がうごめていることに、麓丸は気づかなかった。
射程圏内に入る直前、クナイが放たれた。花岡が弾く、と思われたが、なぜか刀から離れない。強力なトリモチが付着していたのだ。同時に印を結ぶ斑鳩、駆けだす麓丸。花岡は懸命に振り払おうとする。端にいる斑鳩は唯良乃の位置から見えない。術を発動されても援護が遅れる。
駄目だ、間に合わない。
そう思った時。
何も起こらなかった。唯良乃が察知したか。はたまた花岡が。いや、そうではない。斑鳩は手に異物感を覚えていた。結びきったはずの両の手に差し込まれた物体がなんなのか、縁遠い彼にはすぐに判別できない。
だが、梅之助にとっては日常の物だった。夕食の支度中にさらわれた際、とっさに隠し持っていたのだ。愛用のフライ返しを。
斑鳩が怯んだ隙に、梅之助は駆けだした。麓丸が受け止める。
「いつばれるかと思ってたよ」
「よくやった。さすがおれの弟だ」
梅之助を抱えて脱した麓丸は、上に合図を出した。檻を解体して池に投げ込むと、唯良乃は定位置、麓丸の後方に戻っていく。倒れる百舌と矮鶏の他に残ったのは、膝をついて尚、怨念を放ち続ける斑鳩と、刀を向けた花岡だけだった。
ところが花岡は振り下ろさない。
「早くやれ!」
麓丸が叫んだが、やはり動かない。目を見開き、小刻みに息をする。葛藤を斬れぬ刀は微かに震えていた。
因縁はなるべく本人が断つべきだが、こうなってはやむを得ない。そう思って麓丸が近づこうとすると、いきなり閃光が走った。次いで雷鳴。
えも言われぬ予感がした。
花岡を突き飛ばした。一瞬間の後、元いた場所は黒く焦げ、斑鳩の前に一人の男が立っていた。
一目見ただけで悪寒が走った。古傷だらけの体は越えた死線の数を物語り、何者をも射殺さんとする圧力は身をすくませる。対峙しただけで恐怖を感じるのは、かつてない経験だった。こいつこそが小夜子の言っていた男に違いない。
それは花岡も同じで、前の緊張とは別種の切迫感が襲っていた。二人は思うように動けない。麓丸はかろうじて、逃げるよう梅之助に身振りをした。
男が手をかざす。
命がおびやかされる危機は白い色をしていた。重たい染みが、胸をぎゅっと締め付けた。
奪う者の理不尽は、しかし、降りかかる刹那に止んだ。男が退がったとわかった時、地面には氷柱が刺さっていた。
麓丸の体は熱くなった。その中身はほとんど安堵だった。子どもの頃から描いていた憧れが現実にある。もうずっとだ。ずっと待ちわびていた。戦場で見る師の背中はとても大きく、頼もしかった。
「真雁……」
意思を問うように嵐蔵が呟いたが、男は黙っている。
再び閃光が走ると、沼の忍らは消えていた。