肆
飴色のガラス細工のような光が、周囲をあまねく満たしていた。空気そのものが淡くきらめいている。何もない空間だが、どこかなつかしい。心がほわほわした。
暖かな感覚に包まれながら、麓丸はぷかりと浮いていた。ぼんやり身を任せていると、肩ひじ張っていた体から力が抜けていく。南の海の沖にただ浮かんで、流れゆく雲を眺めているみたいだった。このままずっとこうしていたいと、思ってしまいそうだった。
昔、修業中に頭を怪我して倒れた時にも、ここへ来たことがある。正確に言えば導かれたのかもしれない。数針を縫ったものの別条なく終えたのだが、幼心に不安だったのをずいぶん励まされた気がする。
麓丸がしみじみ思い出していると、天から音が降ってきた。啓示のように響く声は、やがて鮮明になっていく。それはもっともっと昔から、生まれる前から聞いていた声なのだった。
「麓丸、起きて……」
「母上……おれは死んだのですか?」
「大丈夫。ギリギリアウトよ」
「それ死んでませんか」
「冗談。じきに目覚めると思うわ」
姿こそ見えないが、微笑む母の顔を、麓丸は容易に想像できた。
母の曜子は神社の娘であり、結婚前は巫女をしていた。体力はあまりないが、巫女たる務めのために特殊な術が使える。忍の術とは系統が異なり、降霊術や除霊術の応用によって、魂の一部を意識の狭間へ入り込ませることができるのだ。ゆえに現在、曜子の肉体はこてんと眠っている。
「母上は、おれの無事を知らせるためにここへ?」
「それもあるけど、たまにはゆっくり話がしたいなあと思って。ほら、近ごろは麓丸も忙しいでしょう。バイトに修業に学校に」
「なんかすいません」
「いいのいいの、良いことだし。でもここだと時間の流れも遅いから」
「そうですか。なんの話をしましょう」
「猥談でもする?」
「それはやだなあ、実の母親と。なんでそれが一番に出てくるんですか」
「うそうそ。じゃあ好きな人言い合いっこしよう」
「修学旅行か」
「私はね、彦市さん!」
「重々承知してますとも。父上は幸せ者です」
「ふふん。麓丸は?」
「おれに好きな人なんていませんよ」
「クラスとかお隣りさんにめぼしい人いないの?」
「それほぼ特定してるじゃないですか。あいつはそんなんじゃないです。単なる腐れ縁というやつでしょう」
「もったいないわね。あんなに麓丸のことを思ってくれる子はいないのに」
「あいつは面白がってるだけですよ。どうもあいつに関して母上は甘い」
「プロポーションだってボン、ボン、ボンのパーフェクトボディなのに」
「ドラム缶かな」
「上から100、100、100」
「ドラム缶だね」
「興奮しない?」
「人類には早すぎる境地かと」
「あらそう、残念だわ」
「プレゼンが下手すぎました」
「まったく麓丸ってば、おっぺけぺーのこんこんちきなんだから」
「不思議とけなされてる気がしないんですが」
「まあいいわ、そろそろお母さん行くから。くれぐれも無茶はしないでね。どんな時も自分の心を見失わないように」
「肝に銘じます」
声が遠ざかっていく。きらめきは徐々に消えはじめ、現実の冷たいすき間風が入ってくるようだ。麓丸は頬をたたいた。
薄まりゆく空間の彼方から「ああそうそう」と声が戻ってきた。
「あなたの部屋のエッチな本だけど、並びがわるかったからジャンル別に並べ替えておいたわ」
「え? え? 何をさらっと、いや、ちょっと、行かないでください母上、その分け方はきつい。母上、母上ーー!」
*
「せめて五十音順にーー!」
叫ぶと同時に麓丸は手を伸ばした。驚く家臣たちの顔が並んでいた。
息の荒い主人に、おそるおそる灌漑が声をかける。
「大丈夫ですか坊ちゃん。だいぶうなされていたようですが」
「ああ、すまん。気にするな、悪質な幻聴だ。そうに違いない」
そうであってくれと願いつつ、麓丸は辺りを見回した。
そこは薄暗い洞穴だった。灰色の壁や地面はつやつやしていて、天井には石のつららが何本も垂れている。ひんやりした空気が濡れた体を撫で、身ぶるいさせた。服を絞って振り返る。背後のなだらかな傾斜の下には水が流れており、奥からわずかに光が漏れている。きっとあちらから来たのだろう。
「坊ちゃんを抱えてから、ふと横穴が見えましてな。ふもとまで落ちるよりはと思い、入ったのですよ」
「そうか……しかし灌漑はともかく、おまえたちはよく来れたな」
「わっちは灌漑はんの皿の上でふんばってたからねえ。おかげさまであまり濡れずに済みましてん」
「あたしはほら、すいーっと」
「聞いたおれが馬鹿だった。損した」
麓丸たちは出口を求めて探索をはじめた。しんとした洞内に、時おり水滴の落ちる音が響く。半乾きだとかえって冷たい空気が肌を刺すようで寒い。山道に降り注いでいた日差しが恋しくなった。
しばらく歩いていると、前方がやや明るくなった。と同時、曲がり角の先から白い霧が漂い、さらに赤い光が混じっている。鍾乳洞特有の自然現象であろうか。しかし現在地がわからない以上、用心するに越したことはない。
「小夜子、見てこい」
「えー、また毒霧だったらどうするんすか。あれ浴びるとお腹痛くなるんすよ」
「腹痛っておまえの場合どうなるんだ?」
「極限に達したら、そりゃもう公序良俗に反する絵づらになること間違いなしっすね。ていうか無茶ばっかり言うけど、あたしだっていちおう女子っすよ。華の女子高生。JKっすよJK」
「自意識過剰だ。行ってこい」
「鬼畜ー」
だが、ひょろひょろ飛んでいった小夜子は、すぐさま引き返してきた。「やばいっす!」
「敵か?」
「違うけどやばいっす!」
急に語彙力の低下した小夜子をいぶかりながらもついていくと、立ち込める霧の先には、暖簾があった。
「らっしゃい!」
麓丸は二度見した。暖簾は、暖簾だ。赤い光は、提灯だ。白い霧は、湯気だ。しかも温かい。らっしゃいと言った人物は、ねじり鉢巻をして、カウンターの向こうにいる。鍋がある。どんぶりがある。いくつか席がある。何よりとても食欲をそそる良い匂いがする。まごうことなきラーメン屋がそこにはあった。
よもや幻術の類ではあるまいかと疑ったが、ラーメンと考え麓丸はぴんときた。そういえば聞いたことがある。神出鬼没にして極上の味を持つラーメン屋が、日光周辺のいずこかにある、その名は「僥倖」だと。よくよく見れば提灯に店名がちゃんと書いてあった。
足を踏み入れると着座を促された。それも全員だ。妖怪が見えているとなれば只者ではない。しかし敵意は感じられず、サングラスをした角刈りの店主は、にかっと笑うのだった。
「ここはラーメン屋ですよね?」
「あたぼうよ!」
「どうしてこんなところに店を?」
「へんぴを理由に麺がすすれねえとなっちゃ、ラーメン屋の名折れだからな」
なんと素晴らしい心構えか。聞けばここに居を構えているわけではなく、あちこちを転々としているらしい。それに出されたお品書きがまた男らしかった。品目が「ラーメン」というただ一品のみなのだ。これはぜひともご賞味願いたい。
ところが値段を見て麓丸は驚愕した。
「五千円!?」
「慈善事業じゃないんだぜ。こっちも商売なんだ」
確かに遠征費もろもろ必要経費は高そうである。もっともな言い分だと思い、ひとまず所持金を確認した。鞄も財布もぐしょぐしょだ。
結果、小銭が少々、五千円札が一枚となった。足りてしまう……麓丸は逡巡した。ラーメン一杯に五千円も出せるだろうかと。
しかし、考えている間も魅惑の香りが襲いくる。今は体が温かいものを求めていると言えど、そんなことは関係ない。この香りたるや、どうだ。立ち昇る湯気からでさえ、旨味が感じられる。この味の霞がぎゅっと凝縮され、ただ一つの濃厚たる旨味の塊になるのだ。食べた時を想像してみろ。口いっぱいに喜びが広がり、頬はぎゅんと弛緩し、鼻腔に旨さが抜けていく。己の呼気さえ美味しくなってしまう。幸せはいつでも手招きしているのだ。考えるだけでよだれが出るそれは、もはや蠱惑的ですらあった。
麓丸は濡れたお札を差しだした。
「こんな状態ですが、受け取ってもらえますか」
「構わんぜ。金は金だ。こうしておけば乾くだろ」
そう言って店主は、吊るしてあった焼豚の横へお札を並べた。
「へいラーメン一丁!」
家臣たちの視線が痛いほど突き刺さり、特に浮遊霊の、こんな時だけ幽霊ヅラしたうらめしや攻撃にも、麓丸は一瞥もくれず座っていた。
やがて超絶技巧に裏打ちされる力強い調理の果て、とうとう至高の一品が出された。期待によって喉が鳴るほど生唾を飲み込むというのは、麓丸にとって初めてのことだった。
まずはスープ。容器の底までくっきり映るほどの透明度を誇り、見た目には油が浮いていない。磨き上げた鏡のように美しく、風のない日の湖畔を思わせた。
一方で、その内に宿る激情もまた感じられる。あらゆる旨味の結晶が集まった芳潤な香りは、表面上の静謐さとは相反し、どうしたって隠しきれるものではない。たまらず口に入れた。
美味いと思った次の瞬間には、だらしなく頬はゆるみ、にへらと笑みがこぼれる。口の中が幸福で溢れた。奇をてらわない鶏ガラベースで作られているが、純度が桁違いだ。各素材の一番美味いところだけをすくい上げ、極限まで昇華しているのだ。味わうほどにいろんな味がする。なのにまったく不快ではなく自然だ。「くう」と万感の息が漏れた。
そして絡みつく麺がまた絶品だった。黄金色に輝くそれは、もちもちと確かな弾力があるのに歯ざわりが良く、また喉ごしも抜群である。これも特別なことはしていないのだろう。だが、もはや行程上の話や、麺を打った者の心意気等も関係ない。ただ己の身に訪れた幸福を味わい尽くすのみだった。
きっとこの一品に出会った誰もが言うのだ。「僥倖」と。
たった一口で虜になった。もう病みつきである。このまま二口三口と、無我夢中で麺をすすらんとして右手が動く。
しかし、麓丸はその手を押さえ込んだ。一本ずつ指を引きはがし、どんぶりの上に箸を置く。そしてゆっくりと横へ押しやった。
「非常に残念だが、あいにくおれは腹がいっぱいだ。さっきごま団子を食べたからな。さりとて残すのも忍びない。だから、おまえら、ほら、食っていいぞ」
それだけ言い、止める間もなくそっぽを向いた。呼びかけても振り向かない。家臣たちは顔を見合わせていたが、無言でこぶしを握りしめる主人の背中を見て、静かに食べはじめた。
ところが、そうして麓丸がじっと待っていると、器が返ってきた。麺も具材も、ほとんど減っていない。
「坊ちゃんの言うとおり、あっしらは妖。食べなくても死にやしません。一口ずつで充分でさ」
「そやよ。育ち盛りやねんからもっと食べやなあきまへん」
「あたしはほら、こう見えてダイエット中っすから。くびれバデェ目指してるっすから」
「おまえら……」
器を見つめ、ふんと鼻を鳴らした。
「しょうがない奴らだな。そこまで言うのなら食ってやらんこともない。本当に腹はいっぱいなんだけどな」
再び箸を持った麓丸は、何一つ残さず完食した。
*
衣服が乾いてきた頃、店主が言った。
「そういや兄ちゃんらは、陳福の屋敷に用なのかい?」
「……なぜですか?」
「なぜって、ここは屋敷の地下だぜ」
驚いて、入店時とは逆の入口から外へ出るなり目に飛び込んだのは、機械仕掛けの馬だった。洞窟の壁をぶち抜き、派手な装飾のメリーゴーランドがあったのだ。コースターやミニ観覧車もあるが、いずれも動力がないのか止まっている。巨大なガレージには、屋形船やレーシングカーまである始末だ。
こんなところへ置いてどうするのかはわからないが、麓丸が気になったのは、そこかしこに妖怪がいることだった。警戒されているのか、物陰から見られている。
「そいつらはここに住んでるんだとよ。最近は土地開発だなんだで、どこも大変らしいぜ」
店の入口まで来て店主が教えてくれた。それから奥に搬送用のエレベーターがあることも。つまり麓丸たちは裏口から入ったことになるが、平然と客を出迎えた店主はやはり素晴らしい気構えである。
「ごちそうさまでした」
「おう、また来な」
固い握手を交わし、エレベーターへ向かった。
その途中、ぐるぐる回るコーヒーカップの中に、麓丸は知り合いの姿を認めた。
「おい、陀羅じゃないのか」
「んー? あっ、おっす!」
急停止して陀羅が出てきた。
「ここに住んでたのか」
「いんや、おいらは家ないよ。配達がてら遊んでたのさ」
「そうかそうか。ご苦労さん」
ふと思いつき、陀羅に便箋をもらった麓丸は手紙をしたためた。
「師匠が僥倖のラーメンを食べたいと言ってたんだ。場所をお教えせねば。師匠の道場はわかるか?」
「うん、わかるよ」
「じゃあ先に駄賃を受け取ってくれ。師匠に払わせるわけにはいかんからな。便箋代とで二つだ」
懐の小瓶から、陀羅の手のひらにあめ玉を出した。
「わあ、ハッカだ。メロンだ」
「くれぐれも着いてから食べるんだぞ」
じゅるりと口をぬぐった陀羅は「おいらもう行くね」と言うが早いか飛びだしていった。それもラーメン屋の裏口から。きっとそちらの方が近道なのだろう。陀羅ならば水上を走ってもおかしくない。
気を取り直し、エレベーターに乗り込んだ。目指す巻物までもうすこしである。