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不忍の夢  作者: VINE
3/10

 陳福の屋敷は宇都宮の山中にある。脱税の疑惑が浮上し、家宅捜査を終える頃までは、報道陣が陸から空から群がっていたものだが、陳氏が罪を認めてからは潮が引くように閑散としていった。もともと大きいだけで何もない山であり、今となっては館に向かう者など皆無である。とはいえ、巨額の脱税となれば、数々の美術品や貴金属などの収集物に差し押さえの手が伸びる。真の価値がわかるかに関わらず、件の巻物とて例外ではない。やはり速やかな回収が求められていた。

 翌日、土曜の早朝、山道の入り口にて花岡の姿を認めた麓丸たちは、追跡をはじめた。ただし、昨日よりはかなり距離を置いている。陽の下の明るさと、拓けた地形においては勘付かれやすいためだ。せっかくの尾行に忍装束を着れず、麓丸はやや残念に思う。

 舗装のされていない山道は、ゆるやかな傾斜だが、それなりに長い道のりとなる。むき出しの山肌は苔むした箇所があり、滑落の危険もある。記者根性の証であろうタイヤの跡は見えるが、こちらにはあいにく車がない。左右に広がる山林の枝を伝い、跳んでいけば手っ取り早いものの、鬱蒼と茂る木々の間を抜けるのは、こと尾行においては不向きなのだ。

 といって、地に足をつけているのは麓丸と灌漑だけだった。お淀は灌漑の肩の上に草履ごと乗っかり、胸に化け犬を抱いている。着物をまとい、日傘を差したその姿はまるで京都の有閑マダムである。そして小夜子はふわふわと浮いており足すらない。灌漑と顔を見合わせ、自家用ヘリで悠々飛んでいく陳氏を麓丸は想像した。

 やがて、すこし広い道に出た。三分の一ほどは来ただろうか。ふと確かめようとした瞬間、麓丸は飛び退いた。遅れて後ろの木に突き刺さったのは小さな矢であった。

「なにやつ!」

 矢が向かってきた方へ麓丸が手裏剣を投げつけると、木陰からおもむろに人が現れた。

「ほう。あれをかわすか」

 いかにも陰気な男だった。目の下に幾重ものクマがある。麓丸は知らない人物だったが、その正体はすぐにわかった。

「黒い鹿模様の腕章、鹿沼の者だな。ずいぶん公然としているじゃないか。忍の慎みに欠けるんじゃないかねえ」

 嫌味たらしく麓丸が言うと、男は不気味に口を歪めた。

「なあに、これは敵味方の区別をつけるためのものだ。我らには血の気の多い輩がわんさといるのでな。もっとも、身の安全を保証するわけではない。やむを得ず同胞の尊き返り血を浴びる場合もあるだろうなあ」

「なにが『やむを得ず』だ『尊き』だ。白々しい嘘ばかり並べやがって。相変わらず反吐がでる連中だ」

 鹿沼における同士討ちや仲間割れの話を、麓丸は嫌というほど耳にしていた。

「さて、なんのことか。いわれのない嫌疑ほど胸に溜まるものはないな。この百舌(もず)、激しき義憤に駆られたり」

 そう言って急に印を結んだ。「醜い妖ともども、ここで死に絶えるがいい」

 身構えた麓丸たちを前に、百舌は大きく仰け反った。否、大口を開けて息を吸い込んだ。そして彼の口から放たれたのは大量の紫煙だった。

「いかん。離れろ!」

 麓丸の声に、各々が距離を取った。直撃は免れたが、もうもうと舞う煙は容赦なく襲いかかる。とっさに手ぬぐいを口に巻いたものの、目が痛み涙が止まらない。頭がくらくらする。毒素を撒き散らす術となれば、忍法毒霧しかない。

 大体の方向へ手裏剣を投げて応戦するも、煙のために正確な位置がつかめない。それどころか「ふははは。どこを狙っている」と高笑いが響いてくる始末。目元を拭いながら、麓丸は大層いらいらした。

 ところがその時、轟音と共に風が吹いた。みるみるうちに視界が開ける。霧払いの中心にいたのはお淀だった。ぐわんぐわんと首を高速で回転させ、風を起こしたのだ。

「でかした!」

「目が回るから早よしてくれよしー」

 しかし突撃してくる麓丸を見た百舌は、すかさず竹筒を取り出した。そして連続で射出された吹き矢はろくろ首の支点、すなわち足元を目掛けている。

「うおっと!」

 とっさに麓丸と灌漑が矢をはたき落とした。刺さった地面はどろどろと濁り、どぶ色に泡立っている。当たれば妖といえどタダでは済むまい。

 攻勢が止まったと見るや、百舌は再び毒霧を散布した。そしてお淀が。麓丸が。矢が。繰り返しだ。堂々巡りで一向に進めない。

「おい、いい加減にしろ!」

 そのうち業を煮やし、麓丸が文句をつけた。

「いつまで経っても終わらんだろ。だっさい腕章つける前によく考えろ、この毒まみれ醜男! 毒不細工! クラスで一番避けられてる系毒男子!」

 毒と相手の顔くらいしか情報源がないので、語彙に乏しい悪口だったが、何点かは逆鱗に触れたらしく、百舌のまぶたがぴくぴくと動いた。しかし、それでも立ち位置は変えず、向かってこようとはしない。

「……我の任務はここで貴様のような邪魔者を足止めすること。罵声ごときで揺さぶろうなど、じつに浅はかであるな」

「うるさい! 知るか! やってられるか!」

 投げつけるように言って、麓丸は踵を返した。

「え、ちょっと坊ちゃん。あっし一人では手が足りないのですが」

「わっちもそろそろ疲れてきたわー」

「知らん! 頑張れ!」

 手を挙げて下山していく主人の姿を、使用人たちは呆然と眺めた。さすがに百舌も驚きを隠せず手を止めたが、やがて破顔した。

「哀れよのう。勝ちの目がないと見るや、尻尾を巻いて逃げだすとは。耐え忍ぶ心が足らんようだ。貴様らの主人こそ、忍としての心構えがなっていないのではないか」

「黙れ!」

 灌漑らは怒りに打ち震えた。しかし去る麓丸を目にしたのもまた事実。ただ屈辱に歯噛みするしかないのであった。

「辛かろう。楽にしてやる。そんな風など追いつかぬほどの霧でな」

 印を結び、かつてないほど大きく息を吸いはじめた。凌げるだろうか。よしんば凌いだとして、反撃の手はない。いずれ力尽きるのは目に見えている。それでも懸命に抗おうとした。

 しかし、いよいよ放つ準備が調うかと思われた刹那、

「ぐっ!」

 いきなり百舌が苦しみだした。激しく咳をし、むせ返った。その歪んだ視線の先、高枝の上には麓丸が立っていた。

「おれの酢の味はどうだ、染みるだろう。酸味が強いのが特徴でな」

 山を降りたと見せかけ、麓丸は山林を迂回していた。本来ならば葉音で察知されるおそれがあるが、旋回し続けるお淀が物音をかき消していたのだ。

「馬鹿みたいに口を開けやがって、浅はかな野郎だ」

 いきなり喉奥まで多量の酢を流し込まれてはたまったものではない。さらに発射寸前の毒は腹に押し戻され、さしもの毒使いとはいえ、体内で暴れられては御しがたく、二重の苦しみに苛まれた。

 そしてその苦難は三重となる。「灌漑!」

「はいな」

 麓丸が呼ぶより早く駆けていた灌漑は、とうとう百舌の懐に入った。そこから繰り出されたのは「水かきチョップ」である。手刀のごとき水かきで全身をめった打ちする、灌漑独自の体技であった。堅い水かきによるそれは、大変痛い。

 苛烈な連撃にとうとう倒れた百舌を木に縄で縛りつけ、目と鼻に酢をおかわりしてあげた麓丸は、ふうと息を吐いた。

「坊ちゃん、お見事でした。わずかでも疑ってしまい申し訳ございません」

「構わん。味方すら欺ければ上々だ。まあ、鹿沼風情に遅れをとるおれではないってことだな」

 自画自賛しながらも、麓丸はすこし考えた。初めて鹿沼と戦ったが、やはり容易い相手ではない。となれば、もっと迅速に動けるようにしておくべきだと。

 そうして、簡単な手の合図を家臣たちに伝えた。これで声を発せずとも指示が出せる。

「では追うか。灌漑がいるとはいえ、距離を離しすぎるのもまずい」

 歩きだしてから、ふわふわと小夜子が降りてきた。

「どこ行ってた?」

「どうしようもないから上に避難してたっす」

 気の抜けた家臣に、麓丸はむごい宣告をした。

「減給な」



         *


 山の中腹を過ぎた頃、前にいる麓丸の様子がおかしいことにお淀は気づいた。

「麓丸はん、何してはりますの」

「別にい」

 その返事にお淀は首を覗きこませた。「あっ!」

 もちゃもちゃと麓丸が食べていたのはごま団子だった。ごまと白玉に包まれた餡が、陽の光にてらてら輝いている。

「いいだろ別に。昼飯代わりだ」

「一人だけずるいわあ。ほらその包み、あと三つもあるんとちがう」

「おまえらは食わなくても平気だろ。妖怪なんだから」

「えー」

 お淀が不満を訴えていると、他二人も助太刀した。

「確かに食わずともそうそう死にはしませんが、独り占めは感心しませんなあ」

「そうっすよ。食べたい食べたい」

「おまえらまでなんだ。特に小夜子、死んでるくせにわがまま言うな」

「あーひどい。傷ついたー。霊の尊厳踏みにじられたー。いいじゃないっすか。たまに食べたくなるんですー」

「というかおまえの場合、食ったらどこに行くんだ?」

「さあ。亜空間じゃないすかね」

「おれのごま団子は食った本人すらあずかり知らぬ亜空間に送るためにあるわけじゃない」

「いいからよこしなはれっ」

 不意に伸びてきた首に腕を遠ざける。あわやかっさらわれるところだったが、団子の包みが食いちぎられるにとどまった。ひらりと舞う紙片を鞄に突っ込み、麓丸は首を押し返す。

「こら、キリンかおまえは。行儀がわるいぞ。淑女のたしなみとやらはどこいった」

 説教をしようにも、先ほどから地味に攻撃され続けているわき腹も捨て置けない。

「そのつんつんをやめろ、灌漑。水かきでやってるから普通に痛いんだよ」

 団子をめぐって、人間と妖怪の不毛で熾烈な攻防が始まろうとしていた。しかし麓丸は始まらせなかった。

「ええいっ!」

 皆が「あっ」と言った時にはもう遅い。すべての団子が、麓丸の口内で無惨にもにゃちにゃちにされていた。

「最低ー」「強欲ー」「ひとでなしー」とブーイングを浴びても意に介さず、あくまで麓丸は悪びれない。

「これは元々おれの団子だ。わかるか? This is originally my DANGOだ」

 緑茶を飲みながら悠々と中学英語を並べる主人に天罰が下りますようにと、使用人らは願った。そしてそれはすぐに叶った。

「いいかね。君たちは普段、給金と称して主人を使いっぱしりにしている。今はその代償として働いているのだ。日頃のツケが、昨日今日ちょっと動いた程度で完済できるだろうか。よく考えてほしい。世の中はごま団子ほど甘くないのだ。社会とは往々にして、労働の対価に釣り合うほどの見返りは得られまい。それを君たちはなんだ。借りを返さぬうちから、あまつさえ団子の追加要求とは。まったく見下げた根性だ。もっと真っ当に現実と向き合うがよかろう。この、おれのようにぐばああっ!」

 いきなり麓丸が吹っ飛び、山道を転がった。二、三度地面を跳ねた後、どうにか受け身をとったが、これには使用人たちも「逆にごめん」と思わざるを得なかった。

「誰だ! いいところだったのに」

 憤慨する彼を見下ろしながら、とさか頭の男は自身のしなやかな脚をさすっている。その腕には鹿の紋章があった。

「楽しいなあ。楽しいなあ」

 そう言ってにやにや笑いをしたかと思った次の瞬間には、男が眼前にいる。再び飛ばされつつも、麓丸は何をされたかわかった。

 蹴りだ。しかも尋常ではなく速い。

 あっという間に一行は地に這いつくばった。起き上がるたびに長い脚が跳んでくる。一撃一撃はさほどでも、確実に蓄積していく痛みがあった。しかし何度も受けるうち、麓丸は直撃を避けられるようになってきた。なにせ身体能力だけなら、師の折り紙つきなのだから。

「おいおい。そんな蹴りじゃ虫も殺せないぞ。何より軽い。もっと真心を込めて蹴ることだ」

 使用人たちを後ろに下がらせ、麓丸は前に出た。勝機が見えはじめていた。

 ところが男は一向に怯まない。

「……鶏には三段階ある。知っているか?」

「なんの話だ」

「最初は卵。次は雛。最後は鶏だ。そして俺の名は矮鶏(ちゃぼ)という。そしておれは段々と調子を上げるのが好きだ。そして今のは卵。そしてこれからが雛だ」

 男の靴先から鋭利な爪が出てきた。「楽しいなあ!」

 麓丸の頬に血の筋が走った。速さは変わらない。が、射程が伸びた分、せっかく掴んできていた感覚は無に帰してしまった。

 使用人たちを前に下がらせ、麓丸は後ろに出た。勝機が消えはじめていた。

 とはいっても、「刃物はあきません。この着物けっこうするんやから」と言ってお淀は戻ってくるわ、小夜子は「物理攻撃なら余裕っす」と言って浮いているだけだわで、結局ぽつねんと灌漑が取り残された。

 己が貧乏くじを呪いつつも、灌漑は防御体勢に入った。両手の水かきを合わせる秘技「盾水かき」である。ただでさえ硬い水かきが単純に厚さを増した防御力はすさまじいものがあるが、敵もさる技の使い手。いうなれば鉄板に錐を打ちこむような衝撃であり、決して無傷では済まない。

 何かこの状況を打破できるものはないか。麓丸は鞄をさぐっていた。見た目はごく普通の肩掛け鞄だが、数々の忍道具が仕込まれているのだ。

 やがてプラスチックのケースを見つけだすと、天啓のごとし閃きが降りてきた。敵に悟られぬようにして主戦場に近づき、じっくり機を待つ。

 そして灌漑に攻撃を弾かれた矮鶏が着地する時を見計らい、ケースの中身をばらまいた。

「うぐっ」

 矮鶏の靴を貫き、山道へ無数に撒かれたのは忍なら必携の道具、まきびしだ。

「正直持っているのを忘れていたが、これで貴様の足は封じさせてもらったぞ」

 刺さっていたまきびしを投げ捨て、忌々しげに辺りを見回した後、矮鶏は呟いた。

「……最後」

 彼が印を結ぶと、宙空より一帯に蔦が張り巡らされた。山林にある木を支柱にし、網目状の特設ステージが現れた。植物を操る術、木遁に相違なかった。

 蔦に足をかけた矮鶏は、ぽんと跳ね上がった。次いで先にある蔦でまた跳ねる。跳ねる。跳ねる。また跳ねる。ぐんぐんと加速していくその姿は、もはや捉えきれない。ただ「楽しいなあ!」という声が流れるのみだった。

 麓丸の脇腹から服が裂けた。後方からの攻撃だったようだが、気づいた時にはまた蔦の間だ。前後左右に加え上下、斜め、鋭角、鈍角、仰角と縦横無尽の急襲はまるで予測がつかない。加えて自ら撒いたものが回避を困難にしていた。

「坊ちゃん、もしや墓穴を掘ったのでは」

「いや待て。さっきより命中精度は落ちてるぞ。速すぎて奴自身も制御しきれないんだろう。あとはどうやって止めるかだ」

 クナイで手近な蔦の切断を試みるも、ほとんど刃が通らない。弾力性はさることながら、複数本が絡み合って一本を成すそれは、丈夫さも兼ね備えていた。

「どいつもこいつも術ばかり……」

 修行を始める前から術が使えなかった麓丸は、協会における訓練や模擬任務において、数々の辛酸を舐めてきた。入りたての子どもが行う簡単な術すらできず、落ちこぼれのレッテルを貼られ続けた。屈辱に耐えながら研鑽を重ねるその姿は、周りからすれば無駄な努力以外の何物でもなく、心が折れそうになる時もあった。

 それでも麓丸はあきらめなかった。祖先の無念、分け隔てなく接してくれる家族のため、何度でも立ち上がった。師匠だって嘆きはするが、体術の修行には真剣に取り組んでくれたものだ。不器用な自分にある限られた力を伸ばし、創意工夫によって今日までを切り抜けてきたのである。

 だから麓丸は知っている。術とは、決して万能の力ではないことを。

「奴にはおれたちがはっきり見えていない」

 小夜子とお淀に指示を出し、ひとつひとつの蔦へ腕を向けた。

 矮鶏の目まぐるしく変わる視界の中では何をやっているのか判然としなかったが、敵の位置は変わっていない。必殺の一撃を繰り出すべく、さらに跳躍を繰り返した。飛べない鳥の猛き爪が、一匹の虫を貫こうとしていた。

「楽しいなあ!」

 が、空は遠い。矮鶏は地を転がった。わけのわからぬ痛みとして、まきびしが全身に突き刺さったのだとわかったのは、木の幹に激突してからだった。

 自分がまさか踏み外すはずがない。あの瞬間、確かにおかしな力が働いた。痛みをこらえ、矮鶏がぐっと見上げると、蔦に茶褐色のものが塗布されていた。

 最初は泥か何かだと思った。しかし目を細めるうち、段々と正体を悟っても、それがそこにある意味がわからなかった。なぜ味噌が塗られているのかを。

「食い物は粗末にしたくないんだがな」

 どうやら敵がやったらしいことは理解した。ただ矮鶏は納得できなかった。こんな意味不明な出来事で敗北してなるものかと。

「げ、あいつまだやる気だ。おい灌漑、取り押さえるぞ」

「そうは言っても、ですな、ほれこの通り、まだけっこう、まきびしが、残っておるもんですから」

 安全な場所を選んでいくも、敵はそれなりに離れた位置まで吹っ飛ばされている。もたもたしてまた跳ねられては厄介だ。矮鶏が起き上がるが早いか、麓丸らの到達が早いか。前者が優勢と言えた。

 しかしその時、まきびしの間を縫う影があった。長い朝寝から目覚めたそれは、お淀の腕の中を抜け、麓丸たちをも追い越していった。

 傷だらけの体を起こした矮鶏が、再び蔦に足をかけようとすると、急に力が抜けた。己の肉体はここが限界なのか。いやそうではない。まだ足は動く。ならばなぜ。下を見た矮鶏の目に入ったのは丸い生き物だった。

 子猫ほどの大きさで、耳がぺたんと垂れている。鼻も低いしいかにも眠そう。みゃんみゃんと妙な鳴き声だが、犬と呼べなくもなかった。

 化け犬こと、すねこすりのむにがすり寄った途端、矮鶏は脱力した。意思とは無関係に力が入らない。それはただよろめかせるだけの、小さな妖術だった。

 さらに、足首をがしりと掴む者がいた。麓丸ではない。手から先が透けているとなれば一人しかいないからだ。そして手を実体化させているということは、地中にある小夜子はとんでもない形相になっている。それはもうまったく、鬼気迫る表情なのだが、誰にも見えていない。お見せできないのが残念である。

 これだけ身動きを封じられては狙いも定まる。最後は遠心力によるお淀の鉄槌が、矮鶏の顔面に叩き込まれた。

 不可解そうにぐらりと倒れる彼を、麓丸は受け止め、座らせた。その指は今か今かとわなわなしている。

「おれの親指からわさびが出る理由を知ってるか?」

 むにを撫でてやりながらも、その目は笑っていない。

「貴様のように戦いを楽しいなどと抜かす阿呆の、穴という穴にねじ込むためだよ!」

 矮鶏の声にならない叫びは、全身の傷より痛そうだった。

「尻は勘弁しておいてやる」

 気を失った矮鶏を木に縛りつけた一行は、まきびしをきちんと回収した。もったいないからだ。

「灌漑、花岡は?」

「ご安心を。まっすぐ屋敷に向かっているようです」

「よし。進むぞ」

 先頭を行く麓丸に、小夜子が寄ってきた。

「ねえねえ、ろっくんろっくん」

「ろっくんって言うな」

「あたし活躍したっすよね。これで減給ちゃらっすよね」

「いや、おまえなしでもギリギリいけただろうから却下」

「指示したくせにきびしー」



         *


 麓丸はぷりぷりしていた。この道中、まるでいいことがない。朝っぱらから一度ならず二度までも襲われ、毒やら爪やらを浴びせられるなんてことはそうそうないものだ。一秒ほど考え、だいたい全部花岡のせいだという結論に至った。

 長い吊り橋があった。下方から轟々と水の流れる音がする。かなり勢いがあるようだ。橋の先には陳氏の屋敷が見える。そして手前には、ちょうど橋を渡ろうとしている者がいた。鹿沼だ。しかもこちらには気づいていない。

 痩身だが、動きを見るにすばやくはなさそうだ。怪我をしているのか、すこし足を引きずっている。屋敷へ向かっているようなので、おそらく花岡の援護にでも来たか、はたまた手柄を横取りする気か。鹿沼の性質からすれば後者の可能性が高そうだ。

「そのような薄汚い行為を看過するわけにはいかん」と、内なる正義に後押しされた麓丸は、奇襲を仕掛けることにした。まいど不意を食らわされてはたまらない。二人分の意趣返しをしてやろうと決めた。

 そっと木陰から身を乗り出すと、連続で手裏剣を投げた。関節の自由を奪ったところでふん縛る心算であった。

 命中したのを見るやいなや、麓丸たちは駆けだした。ところが橋の中央にいる男へ飛びかかろうとした瞬間、奇妙な光景が映った。手裏剣が空中で止まっていたのだ。

 男が振り向くと、空間が弾けた。飛沫と共に手裏剣が力なく落ちていく。自身を守っていた水の膜を一瞥した後、男は酷薄そうな視線を投げた。

「貴様ら……宮の忍だな」

「さあな」

「宮の忍なんだな」

 くぐもった声で男が言う。それは、深い怨嗟が込められているように思えた。奇襲にも失敗し、麓丸も多少なりとたじろがなかったわけではない。しかし、募るいらいらが彼を強がらせた。

「だったらどうした。どうせおまえがやられることには変わりない。前の二人は悲惨だったぞ。酢まみれにわさび漬けだ。おまえはどうなりたい。醤油の慈雨にでも溺れるか」

「死ね」

 問答無用で男が印を結ぶ。だが何も起こらない。相変わらず水音がするだけだ。不発かと思い、仕掛けようとした麓丸は、しかし突如として宙を舞った。立っていた場所に穴が開いている。橋の下の渓流より、水の帯が突き上げてきたのだった。

 さらに麓丸は水に呑まれ、身動きが取れない。もがきながら男へ罵詈雑言を吐きまくった。クナイと手裏剣を持ってがむしゃらに暴れるも破れない。男も容赦しない。家臣たちが食い止める前に、水を急速落下させた。

「麓丸さまーーー!」

 灌漑らが一斉に飛び込んだ。まるで成すすべなく、麓丸は激流のうねりへ叩き込まれた。

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