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不忍の夢  作者: VINE
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 町は、儚いまどろみの中にいた。夜光が溶けだす前だった。かすかな鳥の羽音の他は、しんとしている。

 藍色の朝の静けさにおいて、しかし同じだけの静けさを持って動く影があった。手ずから家々へ届け物をしている。

 新聞配達だ。特段変わった行為ではない。ただ、乗り物は使っておらず、自らの脚による配達で、そして疾走しながらも足音はしていない。通った後には切られた風がゆらぐのみであり、飛騨麓丸にとっては、基本の体さばきであった。

高校に入学後、アルバイトをはじめるに際して新聞配達を選んだのは、家計を助けながらも足腰を鍛えるという修行を兼ねられるからだった。また、人通りの少ない早朝とはいえ、誰かに出くわす可能性がないとも言えず、普段は素性を隠して暮らさなければいけない麓丸にとって、隠密行動の訓練にもなるのだ。

 配達を終え、事務所を出た麓丸は、周囲に人がいないのを確かめてから、民家の石塀を伝って屋根へ飛び移った。不作法ながら、地道を行くよりは屋根上を跳んでいったほうが早い。まだ薄暗く、高速で動いているため、見咎められる心配はしていなかった。

 ところが、麓丸は視線を感じてもいた。今だけじゃない。配達中はおろか、家を出るところから、いや、もっといえばいくらでも以前からのものだ。麓丸はこの隠す気のない視線を、知りすぎるほど知っていた。どこぞから飽きもせず観察しているのだ。

 いつも通り無視を決め込むことにした麓丸は、二十四時間営業のスーパーで買い物を済ませ、家に帰った。だが、門扉も玄関もきちんと施錠をして居間に入ると、はたして視線の主は座っていた。

「おかえり。ただいま」

 テレビを見ながら、当然のようにくつろぐ姿も見慣れたものだった。

「ただいまはおかしい」

 テーブルに買い物袋を置いて麓丸はいう。「お前の家じゃないぞ」

「つれないわねえ。大差ないのに」

「お前の家は隣りだ」

 いってみたところで、にやにやするばかりで手ごたえがない。ずっと見ていたくせに、いつの間に先回りしたのかという疑問もあるが、今さらだった。

「お疲れさま、にいちゃん。唯良乃(ゆらの)さんもいらっしゃい」

手を拭きながら、台所から少年が顔を出した。

「早いな梅之助」

「にいちゃんがバイト行ってるのに、寝てもいられないだろ」

 我が弟ながら殊勝なやつだ、と麓丸はちょっとうれしくなる。そこな幼なじみにも見習わせたい。「ほい、牛乳とたまご」

「ありがと。あと、お味噌汁するからここにお願い」

「おう」梅之助が差し出した皿に味噌を盛る。

「それじゃあ朝ごはん作っちまうね」言いつつ、梅之助は腕まくりをした。「残りは?」

「まあ一応な。渡してくる」

 袋を持った麓丸はふすまを開け、廊下を通って奥座敷へ入った。使用人たちが集められている部屋だ。

「おかえりなさい。坊ちゃん」

 皆が寄ってきて、口々にいう。しかしそもそも、帰ったときに出迎えもしていないのだから、大して意味のない言葉だ。本命は別にあった。

「で、あのう」

 そら見たことか。催促するような上目遣いに軽くため息をつきながらも、麓丸は袋の中身をひとつずつ渡していった。

 河童にミネラルウォーター。「へえへえ、すいませんな」

 ろくろ首に保湿化粧水。「おおきに。アルブチン配合のも悪くないけど、やっぱりハトムギが一番やわあ」

 化け犬にドッグフード。これは器に入れてやる。「みゃんみゃん」

 浮遊霊にアイドル雑誌。「へへへへへへへ、悪いね」

 その他、豆粒ほどの群がる餓鬼たちに、ひなあられをばらまいた。わらわらと食事にありつく彼らをみて、麓丸は愚痴をこぼす。「なんでおれが」

「仕方ないでさ。われわれは常人には見えませぬからな」

 頭の皿に水を注いで河童がいった。「盗みをするわけにもいきますまい」

「そうなんだがな」

 だったら水道水で我慢しろといいたくなる。けれどもこれが給料代わりなのだから仕方ない。「お前ら、然るべき時にはしっかり働くんだぞ」

「へーい」

 だらしない返事を背に、部屋を後にする。居間に戻り、少しすると梅之助が朝ごはんを運んできた。と同時、母も起きてきた。

「唯良乃ちゃん。いらっしゃい」

「お邪魔してますわ。お母さま」

「いつも言ってるが、お母さまはやめろ。なんか怖気がするんだよ。母上もこいつを甘やかさないでください」

「麓丸。別にバイトなんてしなくていいのよ」母がおっとりほほえむ。「唯良乃ちゃんと結婚しちゃえばね」

「まあ。お母さまったら、気が早いですわよ」

「その遅かれ早かれみたいなのをやめろ」

 飛騨家は貧しいわけではない。住居だってなかなか立派な日本家屋である。中流の少し上くらいだろう。だが、それを持ってして、というより比較にならないほど伊豪唯良乃の家は大金持ちだった。維新の代から続く巨大貿易会社の社長令嬢なのだ。

 位置は確かにお隣りさんといえど、伊豪家の敷地が広すぎるため、どうもお隣りという感じがしない。三人家族では持て余す広さだと思うのだが、金があり余れば、使い道として自然に行きつくところなのかもしれない、とも考えられるが、窓を開ければ今でもなにかしら建造しているのが見え、やはり麓丸の金銭感覚とはかけ離れている。

 小学生の時分、麓丸は毎月コミック誌を買っていた。月のおこづかいが五百円で、買うと二十円しか残らない。その話を唯良乃にしたときだ。

「大変ねえ」

「ゆらのは、おこづかいいくらもらってる?」

「言い値よ」

 言葉の意味はわからなかったが、次元の違いを見せつけられた気がした。

 二人の出会いはもっと幼少期にさかのぼる。

 両親が共働きで、海外を飛び回りほとんど家にいないため、唯良乃の世話はすべて執事がやっていた。どこへ行くにも何をするにもついてくる。やめてと言っても、仕事ですのでと取り合ってくれない。甲斐甲斐しく面倒を見てくれるならまだよかったのだが、どの執事も事務的な世話ばかりで、唯良乃の心情を慮りはしなかった。何を欲しても即座に与えられる環境は退屈だった。

 心を閉ざそうとしてもうまくできない。孤独感は募る。ぎこちなくなった笑い方は、次第に頬を緩ませることさえ忘れさせていった。

 だから公園で他の子供たちが遊んでいるときも、唯良乃はじっと見るにとどまっていた。まざって遊びたい気持ちはあるが、気兼ねして誘えないのだ。他の子も彼女を見ないようにしていた。彼女の後ろに控える執事は、いずれも長身かつ鉄仮面。子どもからすれば特に圧力を感じてしまう。すべては娘に危険が及ばないようにという両親の配慮だったが、幼い唯良乃にとってはわずらわしいものでしかなかった。

「なんだおまえ、すみっこで。おまえも来いよ」

 しかし麓丸だけは違っていた。それはあまり物怖じしない性格で、執事のことなど気にしていなかったというだけなのだが、唯良乃からすれば、その少しぶきっちょな言い方もそうだし、なにより自分のことをちゃんと見てくれているのがうれしかった。

 しかも麓丸と一緒にいると、とにかく面白い出来事がたくさん起こった。とりわけ大きなことが二点ある。

 まず、家に妖怪が住み着いていた。

 原因は、捨て犬だ猫だと、困っている者がいれば何でも拾ってきた曽祖父の癖にあった。いくら妻が怒っても、どうにも見過ごせず、しまいには行き場のない魑魅魍魎の類まで家に住まわせるようになったのだ。妖の寿命は長く、当の曽祖父が亡くなり麓丸の代になっても、ずっと使用人として居続けている。最初から家にいたわけだから、麓丸からすれば特に驚きもないのだが、唯良乃にとってははじめて接する摩訶不思議であり、子どもの好奇心も手伝い、それはもう目を輝かせた。

 そしてもう一点、割愛などできぬ話があった。

 子どもの頃といえば男女の隔たりなく遊ぶため、いつも一緒にいる唯良乃は、麓丸にとって一番の友だちになっていた。だから麓丸は、うっかり教えてしまったのだ。自分が忍の末裔だということを。

 忍者とはその仕事柄、正体を悟られてはいけない。あくまで隠密に事を運ぶ必要がある。ゆえに、父から口外せぬように固く言い含められていたのだが、ちょっと得意になりたい子ども心が働いた、あるいは秘密を打ち明けたときのどきどき感が味わいたくて、つい言ってしまったのだ。

 唯良乃はわきまえているので、今日に至るまで麓丸の「内緒だぞ」を破ったことはない。そんなことより、家に妖怪が住んでいる忍者、という存在が面白くて仕方なかった。絶対に目を離さないとさえ決めてしまったのだった。

 それからというもの、いつ起こるとも知れぬが起こりそうな面白い出来事を見逃すまいとして、つきっきりの唯良乃は今日もご相伴に預かっている。

 当の麓丸からすれば、困ることこの上なかった。何度恥ずかしい現場を目撃され、指をさされて笑われたか。基本的な情報として、身長体重血液型、誕生日や星座くらいなら知られても差し支えないが、唯良乃のそれは並のストーキングではない。

 例えば、毎日の行動記録をつけているのは勿論のこと、髪と爪を切る周期、血圧の数値、歩きだす時はどちらの足からが多いか、洟をかんだ後のティッシュを確認するか否か、ショートケーキの苺はいつ食べるか、などの仔細な生態に加え、さらに、風呂に入ればどこから洗うか、毛が生えたのは何歳何ヶ月何日なのか、トイレットペーパーは一回で何巻き使うか、果ては女性のどの部位に性的興奮を覚えるかの変遷、どの媒体でなんというタイトルなのかまで熟知されている。思春期の男子には耐えがたき恥辱である。

 しかも近ごろは母と結託して、婚姻の流れに乗せようとしてくる。冗談とわかっていても、誰が乗るか、と三回は思う。事情を知らぬ同級生は「あんな可愛い子につきまとわれてうらやましい。うらやましにさらせ」などといってくる。じゃあ代われと、声高に叫ぶも届かぬ悲しみに暮れて暮れての幾星霜。

 だのに「ロク。お醤油ちょうだい」と言われれば「ん」と差しだす自分がいる。慣れとはおそろしい。子どもの頃の失敗がこうも尾を引き続けるとは。光陰矢の如し。月日は経つも同じ高校同じ教室隣りの座席変わらぬ横顔。もはや嘆く段階はとうに過ぎている。

 加えてまことに遺憾ながら、負の遺産はこれだけではなかった。



         *


 授業を終えた麓丸は、その足で道場へ向かった。正確には裏手の訓練場である。定刻通り、そこには歴戦の道場主が待っていた。

「師匠。今日もお願いします」

「うむ。ではまず、手裏剣術」

「はっ」

 相手に軌道を読まれないよう最小限の動きで、かつ正確に命中させるのが肝だ。主な用途は必殺ではなく、迎撃や牽制などの補助的役割だが、極めれば身体の自由を奪うほどの手傷を与えられる。麓丸の放った手裏剣は閃光のごとく、人型を模した的の、関節の継ぎ目を適確にとらえた。

「よし。では次、クナイ」

 クナイとは投擲するのみに非ず。近接戦闘において、攻撃力と有効距離を高めてくれる重要な道具だ。先端を突き刺す使い方もできれば、両の手で逆手持ちをして素早い攻勢を仕掛けることも可能。麓丸が得意なのは後者であり、軽業師のような挙動から繰り出される連続攻撃によって、みごと巨大わら人形はずたずたに引き裂かれた。

「よし。では次、火遁の術」

「できません!」

「よし。では次、水遁の術」

「できません!」

「よし。では次、土遁の術」

「できません!」

「たわけええええ!」

 一帯に心の叫びがこだました。天が轟き雲が砕けた。師のあご髭がぷるぷると震えた。だが、過去に何百と喝を浴びている麓丸は落ち着いたものである。

「師匠、もうすこし忍んだほうが」

「ああ、そうじゃな」

 咳払いをし、気を取り直した師は厳粛な顔つきで話をつづける。

「麓丸よ、お前の身体能力は認めよう。手裏剣、クナイ、身のこなし、どれをとっても申し分ない。同年代なら敵う者などほとんどおらんだろう」

「恐縮です」

「しかしじゃ。忍の極意とは術にある。いくら肉体が優れていても、術がなければ勝てない。こぶしで炎が殴れようか。剣で水を斬ってどうなるか。もちろん、忍とは敵と戦うのを主目的としない場合が多い。諜報活動、斥候や潜入を生業とするものじゃ。だが、敵と遭遇した際に、くぐり抜けるだけの力は持っておかねばならん。それが術じゃ。大気を練り、印を結ぶことで、 万有に通ずる事象を起こす。忍のみが使える特権と言えよう。術こそが極意であり真髄なのだ」

「でも使えないものは仕方ないですよ」

「そうなんだよ」

 急に脱力して、師はだらだらと七輪で餅を焼きはじめた。

「なんでそうなったのか、ほら回想」

 たとえ投げやりな言い方だとしても、師事しているからには拒むわけにいかぬ。なにより忍として尊敬しているのは間違いないのだ。

「こういうことがありました」

 麓丸の母こと曜子は病気がちで、あまり体力がないため、息子たちが買い出しや炊事をやっている。二人に悪いからと、掃除と洗濯はこなしているものの、それくらいだ。けれど、昔は今より調子がよかったので、食事は曜子が作っていた。

 ちょうど唯良乃に忍のことを打ち明けた頃、ある日麓丸は台所にいた。何か用事があったわけではない。ただなんとなく、母が晩ごはんを作る様を見るのが好きだった。というより、その場にいるのが好きというほうが近かったかもしれない。その証拠に、調理の香りは感じながらも、視線は居間にあるテレビに注がれていたからだ。

 麓丸は夕方の特撮番組を楽しみにしていた。ヒーローと悪の構図はわかりやすく、少年の胸を熱くさせる要素がたくさん詰まっている。麓丸も例にもれず、魅せられた一人だった。

 ただその日に限って、ふと気になることがあった。ヒーローの変身シーンである。浅はかで、理由のないうぬぼれにまみれていた麓丸少年は「おれにもできるんじゃないか」と思ってしまったのだ。

 もちろんそこは忍なので、変身ポーズを模倣するだけではない。いつか父に見せてもらった変化の術だ。変化の術とは名の通り、使えば自らの姿かたち、服装までも自在に変えることができる。夢のような力だが、たやすく習得できるものではない。まして分別のつかぬ子どもに教えるわけもなく、ゆえに父は、術の使用は本格的な修行が始まってから、それまでは真似事も禁止と、麓丸に固く言いつけた。はずだった。

 唯良乃に秘密を打ち明けたばかりで、どうにも口がゆるくなっていたのかもしれない。あるいはブラウン管の向こうにいるヒーローの勇姿に、いささか高揚していたせいかもしれない。ちょっとくらい、という気持ちに身を委ね、指をこねこね所定の形に結ぶと、念じてしまった。術を発動しようとしてしまった。

 その結果どうなったか。当然、麓丸が思う通りにはならなかった。しかも自力で解けない。大人たちが手を尽くし、高名な忍に来てもらったり、御百度参りをしても、何をどうしても解けなかった。修行を積み、術のなんたるかを学習した現在に至ってもそれは変わらない。印を結んだところで、うんともすんとも言わなくなってしまった。右手はかろうじて正常なのだが……。

「ちょっと貸せ」

 麓丸の左手をとった師匠は、人差し指をつまむと上にひねった。すると、なんと第一関節から先だけが九十度回転してしまった。血は出ず痛みもない。上側でしっかり繋がっている。しかし断面がおかしい。周囲が黒い上に、小さな穴が空いているのだ。

 そのまま師匠が手を持ち、焼けたばかりの餅に向かって傾けると、指の中から液体が出てきた。これも血ではない。真っ黒な液体である。一見すればとても猟奇的な光景に違いない。ところが麓丸は平気な顔をしているし、あろうことか師はその餅をかじってしまった。

「うん。美味い」

 一体どういう仕組みと因果でそうなったか。失敗した時の話なので、推測の域は出ない。だが、麓丸が術を使ったのは台所だった。台所の椅子に腰掛け、居間のテレビを見るその間にはテーブルがあり、上にいろんなものがあった。まな板しかり包丁しかり、そして、調理に使う小瓶が並んでいた。だからなぜそうなったのかという、説明をつけられなくはない。しかし、あまりに度し難く、間抜けで、あっていいことではなかった。

 餅に合うといえば醤油であり、すなわち左手の各指が調味料入れになってしまったのだ。

「便利なんだがなあ」

 師は感慨なげにいった。「いかんせん代償がな」

「おれも使えたらなと思いますよ。使えるようになった時のアイデアも考えてるくらいです。しかし無いものねだりをしてもどうにもならんでしょう。原因だっておれにあるわけですしね。だからこそ、あるものを磨き、どうにか賄わなければと思っているのです」

「はいはい、ご立派」

 幼少の頃のことゆえ、すでに麓丸は割り切っているものの、師匠のやる気は削がれっぱなしである。「知ってる? 雹隠嵐蔵(ひょうがくれらんぞう)といえば、けっこう名の知れた忍なんだが」

「知ってますとも。師匠の術は一級品です」

「その一級品が伝わらないんじゃあなあ。お前さんの親父と旧友のよしみで師匠などやってはおるが、今となっては後悔しとるよ。だって修行以前の問題だもん」

「もんはやめましょう、師匠」

「あーあ、あの嬢ちゃんが弟子ならよかったのになあ」

「それは言ったらだめなやつです、師匠」

「おーい嬢ちゃん。出ておいで。餅をあげよう」

 嵐蔵が周囲に呼びかけると、道場の床下からするりと唯良乃が現れた。

「いただきますわ」

「どこにいるんだお前は」

 麓丸の言葉をよそに、二人は和気あいあいと餅を食べる。

「嬢ちゃんなら師匠のしがいもあったんじゃがな」

「ロクの体たらくでは無理もありません。わたしったら才能のかたまりですもの」

 この点に関して、麓丸はぐうの音も出ない。十年前に修行をはじめ、ここで師匠の術を見てきたわけだが、それはつまり唯良乃も見ていたということだった。調味料呪いのせいで術が使えない彼とは違い、いや、それを差し引いてもおそるべき速度で、唯良乃はどんどん吸収していった。しまいには、高位の術とされる変化の術や分身の術まで、あっさり会得してしまったのだ。身体的に優れているとされる麓丸にぴったりついていけるほどだから、体力面も引けをとらない。本職の彼よりも、忍としてはよほど上だった。

 何をやっても完璧にこなす唯良乃は、両親に能力を認めさせる形で、執事らの監視を止めた。自由を手に入れたわけである。ただし彼女は忍ではなく、あくまで麓丸をつけ狙うために身につけたので、忍として力を行使することはない。その点も、かえって麓丸からすれば悔しいのだが。

 左手の惨状を初めて見たとき、唯良乃は爆笑した。思うさま指をいじりながら、一ヶ月ほど毎日笑っていた。今でもたまに思い出し笑いをするくらいだ。麓丸にとって、あれほど嘲笑されたのは他にない。ああいう大事件を待ち望んでいると知って腹も立つ。けれども実際問題、一番困るのは、師匠のやる気がないことかもしれない、と思うのだった。



         *


 宇都宮市といえば関東最大級の都市であり、特に駅前周辺は栄えている。ずらずらとビルディングが林立し、ターミナルにはバスが居並び、色とりどりの食事処や家電量販店、映画館と百貨店、金融会社に不動産屋にドン・キホーテとなんでもござれ。ぱちくりお目々を描いた商業施設、ひっそりと建つ蛙の像と餃子の像など、かわいらしさも備わっているほどだ。

 片側二車線の道路は広く、宮の橋交差点は広く、県道十号線には絶えず人の流れがある。駅の中心から少し離れてもまだ、オリオン通り、ひのまち通り、バンバ通りはさまざまな商店で賑わい、足繁く訪れる人々がいる。どこへ行っても人がいるといって過言ではなかろう。

 麓丸たちが暮らすのは郊外。都市部の喧騒を離れた閑静な住宅街である。住宅街といえど、家々が敷き詰められているわけではなく、あくまでゆったりとした間隔だ。田舎とまではいかないにせよ、ビニールハウスによる農業はそれなりに盛んで、つくしや菜の花畑などの自然も見受けられる。住み心地のよい穏やかな町といえよう。

 ところが道場からの帰路、暮れかかる晩春の小径を歩く麓丸の耳に、地鳴りのような音が入った。最初は本当に地震かと思ったが、周囲が揺れている様子はなく、音もだんだん大きくなっていく。否、怒涛の勢いで近づいてくるようだ。そこまできて麓丸は、ああ奴がきたかと悟った。

 足の裏が燃えそうなほど急な減速で、ぴたりとその人物が麓丸の前に止まると、追ってきた突風が吹き荒び、電線が痙攣し、足型に地面が割れた。実際、彼の裸足の裏は白煙が立っている。顔見知りだが、未だに慣れぬ登場にやや圧されながらも、麓丸は挨拶した。

「よう。陀羅(だら)じゃないか」

「おっす」

 挙げた手は、麓丸の顔より下にある。虎柄の腰巻きを身につけた童子はにかっと笑った。ぼさぼさ頭の上には二本の角が生えている。

「久しぶりだな。配達か?」

「そうだよ。えらいだろ」

 小鬼の陀羅は、担いでいた棒の先端についている木箱を開け、書簡を取りだした。「ほい」

「ご苦労さん。おや、協会からだな」

 宛名は書いていないが、矢文に結びつける折り方の黒い便箋は、すなわち忍者協会を指す。

「ふむ。招集か」

「みたいだなあ。みんなに配ってるから、おいら、いそがしくってさ」

 陀羅は飛脚をやっている。理由は楽しいからというのみであり、深い思索はない。どの組織にも所属せず、妖怪ゆえに常人には見えぬおかげで重宝されているのだ。配達が騒がしいのが玉にきずでもあるのだが、誰にも奪われる心配がないと言い切れる存在は他にない。

「ところでよう」

 物欲しそうな視線を受け、麓丸は懐中から小瓶を出すと蓋を開けた。

「ほれ」小さな手にあめ玉を置いてやる。

 配達代として陀羅へ渡すのは食べ物である。特に甘いものが好物で、ゆえに大抵の忍は何かしら常備している。ただ、こちらが頼んでいるわけではなく協会から送られてくるわりに、受け取り側が支払うという、要するに着払いなのは如何ともしがたい。

 しかし、陀羅に何も渡さないのはありえない。なぜなら駄賃がもらえないと駄々をこねるからだ。陀羅に駄々をこねさせると死を招く。本人に自覚はないが、彼がひとたび暴れると周囲が壊滅する。駆ければ疾風迅雷、嵐を引き起こす。振れば剛腕無双、あらゆるものを粉砕する。衝けば頑健強靭、いかなる一撃をも無効化する。

 わっぱのなりをして、どこにそんな力が備わっているやら、誰の手にも負えぬほどに強いのだ。術を極めた選り抜きの忍が腕試しに挑み、命からがら落ち延びたという逸話は数え切れない。しかも無自覚で、本人はじゃれているつもりなだけに、負けた忍の面目はもれなく粉々である。

 陀羅にとって飛脚とは立派な仕事で、対価を求める正当性を認められなくしては成立しない。とまでは考えていない。飛脚は趣味みたいなものだけれど、ごほうびは欲しくなってしまう、といったところなのだった。

「いただきまーす。ぐうう。がああ」

 たとえ食べた途端に寝てしまうとしてもだ。

 車にひかれても効かんがまあ一応と、麓丸は立ったまま寝ている陀羅の脇を抱え、町内掲示板の裏に横たわらせた。

「さて、今晩だ」

 帰宅して弟の作る食事をとった後、夜半に家を出た。

 忍が隆盛を極めたのは戦国時代。歴史の影に潜み、暗躍していた。しかし戦が終わり、時流が移ろうにつれ、その数は減少の一途をたどっている。なぜかといえば、全体の仕事量が減り、昔に比べて現代は実に多種多様な職があるためだ。

 これじゃいかんと、皆で力を合わせ、忍を存続させていこうじゃないか、との提唱によりできたのが忍者協会である。全国に支部があり、仕事の斡旋や営業活動といった根回し、あるいは若輩の養成機関という面において、太いパイプで繋がっている。ただ忍ゆえ、存在は公にされていない。あくまで人知れず存在を知らせなければいけないのが難しいところだ。

 麓丸は表に提灯が出ているのを認めると、定食屋の戸を開けた。真四角の机と、壁に貼られた手書きのメニュー。こじんまりとした店内には、仕事終わりのサラリーマンや、作業服を着た労働者風の男たちが各々ちびりとやっており、むっとした香気がする。肴はしもつかれとアイソの田楽。ナイター中継が良いところなのか、宇都宮焼きそばを持ち上げたまま見入っている人もいた。

「なにしましょか」

 作務衣を着た店主が注文を伺うと、麓丸は袖に仕込んだ便箋をちらと見せた。途端、相手の目つきが変わる。

「では……」

 奥へ促され、暖簾をくぐる。厨房の裏手、客からは見えないところにある床板をめくると縄梯子が現れた。ひんやりとした仄暗い空間を一段ずつ降りていくたび、絞るような音が響く。

 最下層に立ち、最奥の扉を開けた。靴を脱ぐための三和土(たたき)と、畳が敷かれた広間。こここそが忍者協会宇都宮支部である。むろん、客も店主も協会員だ。

 先に現着していた忍たちは、麓丸が部屋に入るなり、聞こえよがしにささやき声を交わした。その眼には明らかな嘲りと侮蔑が込められている。毎回飽きない奴らだなと思いながら、麓丸は憮然として、三人掛けの座机の真ん中に陣取った。

 しばらくすると支部長がやってきた。柔和な顔つきは、いつも微笑んでいるように見える。

「はいお疲れさん。今日はよく来てくれましたね。前回のあれは、年末でしたか。年度が変わって、新しい生活を始めた方も多いのではないでしょうか」

 挨拶もそこそこに、支部長はリモコンを持った。「では本題へ」

 前方の巨大スクリーンに映像が流れた。リポーターが豪邸を背景に何やらしゃべっている。画面が切り替わり、キャスターがニュースを読み上げる中、邸内の様子が映し出された。案内しているのは、小太りで全体的にてかてかした中年男性だ。麓丸はどこかで見覚えがあった気がした。

「ここ!」

 支部長が停め、さらに一部を拡大表示させる。ただ解像度が低いために不鮮明で、どれを強調したいのかは直接語られた。

「皆さんは知っておられるかな。ある巻物のことを」

 埋蔵金の在り処を示した巻物。その存在は、まことしやかなる口伝として語り継がれてきた。色や形の情報はあれど、所在だけは誰にもわからない、いわゆる伝説だけが一人歩きしている状態だった。忍なら噂くらいはまず聞いたことがある。だが少し話題に上がっても、所詮は夢物語だと、一笑に付されてきたものだ。無理もない。そんな手垢まみれの代物を誰しも信じるほど、忍はおめでたくない。むしろ現実主義者が多いといえる。

「あったのですよ。それが」

 映像に映っていたのは陳福(ちんぷく)という大富豪だった。彼は好事家で、面白そうなものは古今東西ありとあらゆるものを収集する、珍品コレクターでもあったのだが、先ごろ脱税が発覚し、逮捕されたのだ。新聞に出ていたのを麓丸は思い出した。

「画面は荒いですが、伝わっている特徴と一致しています。どんな巡り合わせで陳氏の宅に保管されたかは不明ですが、あれは元々我らのもの。それに今後、財産が差し押さえられる可能性を加味すれば、速やかなる回収が求められます」

 にわかに室内がざわついてきた。当然だ。情報通りなら、時価にして三億はくだらないと言われている。

「さて本題です。上層部で話しあった結果、回収は君たちの中から任ずることに決まりました。我々ベテランが赴いた方が達成の確率は高まりますが、若い芽が育たないのでね。重要な任務であれば尚更、よき経験になるでしょう。それで誰に行ってもらうかですが……」

 広間に緊張が走る中、麓丸だけは違っていた。これはもらったか。いやもらっただろうと、膨らむ期待を自信に転じようとしていた。というのも、麓丸は昨年の忘年会の席で、支部長に「頑張っていますね」と声を掛けられていたのだ。物腰は柔らかいけれど、人を見る目は厳しいと評判の支部長にだ。今にして思えば、あれは有事の際には頼むよという意味だったのかもしれない。そうだそうに違いない。三億の高揚感も手伝い、自信は確信に変わった。

 今か今かと、支部長の口から名を呼ばれるのを心待ちにし、そわそわした。術が使えないせいで不憫な思いをし、涙ぐましい努力で体術に特化せざるを得なかった自分の頑張りは無駄ではなかった。協会の内外で馬鹿にされ、耐え続けてきた日々がようやく報われる。早く、早く「ひ」といってくれ。そして「だ」というのだ。

 願ったときに限って、というより、むしろ願いや祈りというのは、たいていの場合、かえって予定調和を助長させるものでしかない。麓丸はその可能性を考えなかった。

 ゆえに支部長が「は」といって「な」と続けた瞬間、彼の頭はまっさらになった。

「花岡くん。君に行ってもらう」

「はっ」

 謹んで拝命する斜め前方の男を、麓丸は呆然と眺めた。周囲からは「花岡なら」「適任だな」「まあ当然か」などと聞こえてくるが、空っぽの頭には留まらず素通りしていく。ただ断片的な記憶が流れるばかりだ。

 良家の。剣技に長け。おれを歯牙にもかけぬ。恵まれた。苦労知らず。跡取り。誰からも。屈辱。比べて。環境が。優遇。認められ。

 ぐるぐると混濁した言葉が渦巻くうち、ぼうっとしてきた。

 なんか説明を受けてるやつがいるな。あれはおれが受けるべきものだ。ではどうしたことか。なんで指令書をあいつが持ってるんだろう。そうか、あいつの方が席が近いからだ。わざわざおれに取りに行かせて、任務前に疲れさせてはいかんという皆の気遣いだな。別にいいのに、悪いなあ。あれえ。あいつ出ていくぞ。他のやつもだ。支部長まで。そうか、任務前の精神集中を妨げまいとする粋なはからいだな。別にいいのに。残ってくれていいのに。おれでいいのに。おれがいいだろうに。

「なんでおれじゃないんだっ!」

 我に返り、湧き上がった怒りと共に放たれた咆哮が、誰もいない広間に響いた。荒々しく息を吐き、向けるべき矛先を求めてぎらぎらと据わった眼は、すでにたった一つの感情に支配されている。

 許さん。花岡の野郎、蹴落としてやる。

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